我が愛しき先導者へ




トン、と背中を優しく押してくれる手のひらの感覚が消えるより早く、気付けばアイチは見渡す限りの草原に立っていた。
温かい風がそよそよと吹いて、眩しすぎない光が周りを照らす。生命力と静けさが一体となったような、そんな場所だった。
一歩足を踏み出してみると、ふわりと柔らかな新緑がつま先に触れて、足元を見れば小さな花まで咲いている。生まれてから今まで、ピクニックや遠足で草原といわれる場所に来たことはあったが、これほどまで一面自然しかない場所は初めてだ。
それでも、こんな見知らぬ場所に一人きりだというのにアイチは不安や孤独なんてものは感じず。そんな自分に自分が一番驚いていた。

しかしさて、どうしたものかと歩きながら周りを見渡せば、どこからともなく口笛と、それに重なるコーラスが聴こえてくる。
同時に穏やかだった草原に少しずつ風が吹き、風と、口笛と、歌声の三重奏が徐々に力を増していく。わぁ、とアイチが耳をすますまでもなくどんどん大きく盛大になっていくその音楽は、風が吹く速さで更に音を厚くしていく。
金管楽器とピアノの音色に、変わらずの口笛、鈴の音、風の唸る音、耳だけでなく空間全てを震わせるように広がっていく音たちは、何もない草原にまるで嵐のように膨らんんで、アイチの髪を巻き上げる。

ふいに、目の端にきらりと光がかすめた。
それを逃がさないように目を凝らせば、何もないと思っていた虚空や草原の上を駆ける銀や金がいることに気付く。アイチの目には見えない速さでちらちらと光るそれは、恐らく剣。
風が歌い、剣が舞った。
そんな言葉を、アイチは口にしたことがある。
彼は、そう、嵐だ。そこまでたどり着いて思わず笑ってしまった。この草原が暖かいわけも、なぜだか全く不安にならないわけも、こんなに近くにあったのだ。

「マイヴァンガード!」

名前を!
風の中から少年の声が届く。それを切欠にしたかのように「名前を」と楽しそうな声たちが続いてアイチの鼓膜を振るわせた。

響き渡る金管のニムエ、透き通る打鍵音はヴィヴィアン、鳴り響くフォーチュンベルに、打ち鳴らすグリーティングドラマー。そして、嵐。
歌えよ風、舞えよ剣。そう、君の名は。

「君の名前は嵐!戦場の嵐、サグラモール!」

最後に一際大きな風が体を揺らして、思わず瞳を閉じれば「ありがとう」と少年の声が聞こえて、また背中をトンと軽く押されアイチはまた一歩前へと足を踏み出した。

たった一歩進んだ先では途端に風が止み、恐る恐る目を開けば空は暗闇で、草原は生い茂る森と岩の群生地へと変わっていた。まだ少しだけ残っている風が温かいせいか肌寒さはなく、やはりどこまでも暖かい。太陽の光を浴びているかのようなぬくもりがあった。
しかし顔を上げれば、空には満月が上がっており太陽の姿などどこにもない。
不思議だなぁ、と頭の片隅で考えながらその理由への答えも漠然とだがアイチの中にはあった。
そして、今は夜空と満月、少しだけ吹く風は先ほどの嵐の余韻ではなく、また別のもっと早いものの名残のように変わった。

漠然とした考えの答え合わせをしようにも、なにせ夜の暗闇がただでさえアイチの視界を奪う、微かに草が揺れる音がするのみでとりたて優れたところのないアイチの耳にも目にもそれ以上のなにも見えなかった。
それでも、太陽の暖かさがずっと背中を押してくれているようだった。
太陽だけではなくて、もっと前から一緒にいたかけがいのない友の手がゆっくりと背中を押してくれているような気すらした。
たったそれだけの、勇気だ。

「メッセンジャー、ディンドラン、ロップイヤーシューター、いるの?」

問えばリンと鈴の音のような甲高い音と共に後ろから白の集団がそっとアイチの手のひらに触れて、風の速さで通り過ぎ消えた。予想に違わない暖かな手のひらたちがするすると消え、最後に目の前に現れた少女が嬉しそうに「上を」とそびえ立つ岩山を指差しクスクスと笑いながら他の者達に続いて見えなくなった。

呼べば応えてくれる彼らが嬉しくて、アイチはその声に導かれるままに目線を上へと上げ、やっぱりと先ほどの少女、ディンドランと同じようにクスクスと笑った。
その先には夜空の満月を背負った白兎が、ここからでもはっきりと分かる声で「マイヴァンガード」と紡ぐ。その先の言葉は、もう聞かなくても分かる。

「夜空を照らす希望の光、月影の白兎 、君の名前はペリノア!」

自分よりもずっと大きくて、しっかりしたペリノアがパチパチと瞳を瞬いているのがなんとも愛しく、その脇でいつのまにか何かをこらえるような仕草をしているディンドランにアイチも思わず悪戯が成功した子供のような気分になる。
そんな自分達にバツが悪くなったのか、瞬きの速さで白兎は姿を消し、それに続くように白の軍団もあっという間に岩山から消えた。

再び静寂を取り戻した森の中で、アイチはそっと背中に手を回して息をつく。

「これは君が僕に見せてくれてるの?」

少しだけ伸ばした手に、ふるふると振られた長い髪が当たる。
ずっと近くに感じていた、太陽のような暖かさがそこにはあった。

「でもね、君の仲間達を見たら僕も、もっと知りたいって思っちゃったんだ」

ねぇ、エイゼル。
振り返らなくてもそこにいるのが誰かは分かっていたから、振り返らずにその温かい手をぎゅっと握る。
ねぇ、困っちゃった。
彼らを取り戻すために頑張ろうって決めたのに、君達のことをどんどん好きになっていくんだ。この太陽の暖かさ中にずっといたいなぁって思っちゃうんだ。

「それは苦痛か、マイヴァンガード」

違うから困ってるんだよ。
君達を呼ぶたびに、君達が応えてくれるたびに、ちょっとずつ意志がぶれそうになるんだ。せっかく君達が協力してくれてるのにね。
でも、うん、大丈夫だよ、大丈夫。

「君達のためにも、僕は頑張るから」

その暖かさにもたれてすっと目を閉じる。
明日からもちゃんと、また戦うから。

だから、もう少しだけこの太陽の傍で。




(最初の一歩を押してくれたのは)


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