PM10:22。
気が付けばもうこんな時間だ。ぼんやりとしながらピンクのデジタル時計の横に、金平糖のビンを並べる。
あれからどうやって帰ってきたんだっけ。飛雄ママにお礼言わなくちゃって思ってたのに、家に寄らないままだった気がする。
というか晩御飯なんだったっけ。体はいつも通りにご飯を食べてお風呂に入って今に至ることはわかるのに、記憶に靄がかかっていてうまく思い出せない。
「………宿題しなきゃ」
ぽつりと自分に言い聞かせるように呟いて、宿題プリントの入ったクリアファイルを机の上に出すと椅子に座る。シャーペンをペン立てから引き抜いて、二つに折りたたんだ数学のプリントを広げた。
―――千織のことが好きだ。
不意に頭の中にあの時の声が響いて、プリントの上でシャーペンの芯がぼきりと砕ける。数式の上を意味もなく通り過ぎる視線。
飛雄の声が、言葉が、表情が、手のひらの熱が、消えない。
「あー………」
頭を抱えて机に突っ伏す。いくら初恋すら知らない私でも、飛雄のあの言葉がどういう意味かくらいわかってる。
幼馴染としてじゃない。私たちには無縁だと私が勝手に思っていた感情が、そこにはあった。
どうすればいいのだろう。今まで友達には散々茶化されても“ただの幼馴染”って言えたのに。
飛雄には言えなかった。私たち幼馴染でしょって。幼馴染としては好きだよ、なんて。
苦しそうな顔をした飛雄には言えなかった。あのあと何しゃべったか、というかしゃべったのかすら覚えてないけれど。
(…………好き、かあ)
幼馴染としての好きと、恋愛としての好きってどう違うんだろう。確かに他の友達とかバレー部の人とかと比べると、飛雄に対しては好きの種類がなんとなく違うような気はするけれど。
だって幼馴染だし。家族とはまた違うけれど、友達ともまた違う。ああでもそれって、恋愛もそうだよね。どうなんだろう。
【恋】
相手のことが好ましく、とても気になっていつも会いたい、いっしょにいたいと思う気持ち。 特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。
「…………切ないまでに…?」
なんとなく辞書を開いて、その説明文に眉を寄せる。切ないまでに誰かを思うってどんな感じなんだろう。
辞書が全てじゃないことはもちろんわかっているけれど。だって想像できない。
あの飛雄がこんな風に私のこと――。
「あぁぁあぁぁぁ………」
変なこと考えた挙句に、飛雄の苦しそうな顔まで思い出してしまった。頭の中がぐちゃぐちゃになってきて、辞書に額をぶつけるようにもう一度顔を伏せる。
恋ってなに。好きの違いってなんなの。
飛雄は絶対恋なんて知らないと思ってたのに。うらぎりものめ。だいたい――…
―――pipipipipipipipipi
「……………うそ」
聴きなれたアラームにがばりと顔を上げると、時計を見て呆然と呟く。嘘だ、もう朝だなんて。
AM6:00。
悶々と悩んでいる間に時が過ぎ去ったのか、それともいつの間にか眠ってしまっていたのか。それすら頭がぼんやりとしていてわからないけれど、一つだけ確かなことがある。
宿題が、真っ白だ。
「はあ……」
いつもなら少しだけ勉強してから学校に行く準備をするけれど、もうそれどころじゃない。椅子から立ち上がるとカーテンの隙間から外を覗く。
まだ太陽が昇っていなくて暗いけれど、雪はうっすらと積もっている程度。これくらいなら、きっと。
急いで制服に着替えると今日はスカートの下にジャージを履いて、厚手のコートを羽織るともこもこの手袋とマフラーを装備する。そのまま物音を立てないようにそっと家を抜け出すと、外灯に照らされた薄暗い道を小走りで進み始めた。
通りを二つ挟んだところで見えてきた公園には、この時間からジョギングに勤しむ数人の影。その中に予想通り探していた人物を見つけて、私は歩調を緩めながら小さく息を吸い込んだ。
「…、とびお」
一瞬喉が詰まりそうになりながらも名前を呼べば、気付いた飛雄がルートを外れて近付いてくる。自分からここに来たのに思わず一歩下がりそうになって、もう一度冷たい空気を吸いこんだ。
「……こんなとこでどうした?」
僅かに息を上げて頬を紅潮させた飛雄が、きょとんとした顔で首を傾げる。まるで昨日のことなんてなかったみたい。
もしかしてあれは夢だったんだろうか。宿題しようとしてつい寝ちゃったときとかに――…
「お前、目が赤いのに目の下黒くなってんぞ。寝てないのか?」
「……たぶん、あんまり」
「いくらなんでも勉強しすぎだろ」
「…してない。宿題、一個も終わらなかった」
「は?千織にしては珍しいな。なんかあったのか?」
「だ、れの、せいだと…っ」
本当に夢だったんじゃないかと思うくらい、すっとぼけた反応はやめて欲しい。こんなに悩んでるのが馬鹿みたい。
知らず知らずのうちにいっぱいいっぱいになっていたものが、両目からぽろぽろと零れ落ちる。歪んだ視界の中で、飛雄が奇妙に表情を引き攣らせた。
「わ、悪い、昨日のことか」
「他にっ、なにが、あるの!」
「いや、だってお前、なんにも言わずに帰ったから、てっきりもう終わったもんだと…」
「びっくりしすぎて意識どっかいってたのよ!」
おろおろと視線をあちこちに動かす飛雄を前に、ぶわりと噴出する感情。なのに頭のどこかで時間帯を意識していて、最小限の声で叫んでいることが可笑しい。
こんな風に飛雄の前で泣いたの、いつぶりだろう。ぐずぐずと溶ける鼻をすする。
「しゅくだい、一個も手につかない」
「お、おう」
「き、昨日は飛雄ママにお礼も多分言ってないし、いつ帰ってごはん何食べて何時にお風呂入ったのかも全然覚えてないし、10時くらいに宿題広げたのにシャー芯折れただけで何にも終わってないし、飛雄がわけわかんないこと言うからこっちは一生懸命考えて考えて考えてとりあえず飛雄の顔見たらなんかわかるかもしれないと思ってここまできてるのになんかあったかってなんなのなんかあったわよ!」
「ちょ、千織、落ち着け」
「落ちついてられるかっ」
ばしりと目の前の飛雄の胸を叩くけれど、もこもこの手袋のせいでいまいちダメージを与えられた気がしない。興奮して泣いたせいか過呼吸気味になった息を整えながら、雪に濡れた爪先を眺めて大きく息を吸う。
もう、考えるのめんどくさくなってきた。
「今のわたしたちにとって一番大事なのは、受験勉強だと思います」
「まあ、な」
「でも今のままだと私、全然勉強に手がつかない。いくら考えても、辞書で調べてみても、恋なんてわかんないし知らないもん」
「調べたのかよ」
「だから、受験が終わるまで返事は待って欲しい」
「は、」
考える事を放棄して思いついたままに言葉を吐き出すと、ぐいと顔を上げる。少しずつ明るくなってきた空を背景に、どこか間抜けな表情で立ち尽くす飛雄。
それってどういう感情の顔なんだろう。戸惑いと焦りを覚えながら、言葉を必死に紡ぐ。
「その、飛雄のこと、幼馴染として好きだと思ってたし、飛雄もそうだと思ってた」
「………」
「でも、飛雄がそうじゃないって昨日知って、その、うまく言えないんだけど、ちゃんと考えたいって思ったの」
「何を」
「恋愛としての、好き、について…?」
なんだか気恥ずかしいことを言っている気がして、マフラーに口元を埋めながら視線を下げる。受験が終わるまで待ってだなんて、勝手なことを言っているのはさすがの私でも百も承知だ。
でも飛雄から今まで受けていたのが幼馴染としての好きじゃないなら、私の好きって本当に幼馴染としてなのかなって。今まで築き上げてきた自信がなくなってしまったから。
「なあ、一つだけ聞いてもいいか」
「…なに?」
「昨日俺が言ったこと、嫌じゃなかったのか」
その声が少しだけ震えているような気がして、バッと顔を上げる。そこにあったのは昨日と同じ苦しそうな表情で。
なんでそんな顔をするの。なんとなくむかっとして、もこもこの手袋でその顔面をぽふりと叩く。
「んぶっ」
「……嫌だったわけないじゃん、馬鹿」
「ば、」
「嫌だったらこんなことお願いするわけないじゃん。そりゃあ、人生で一番びっくりはしたけど。ばーかばーか」
「うるせーよ。…………なら、受験が終わるまで待つ」
静かに頷いた飛雄の表情からは、さっきまでの苦しさは消えていて思わず安堵する。ありがとうと呟きながら、どんどん白んでいく空に私はふと現実を思い出した。
宿題、やらなきゃ。
悩める少年少女
20190708