高校の時から付き合っていた彼と、社会人二年目で同棲を始めて一年。そろそろお互いに結婚も意識し始めて、プロポーズはまだだけどなんとなくそういう話も出始めていた。
なのに。
「はー……」
今日は久々に大学の時の友達と女子会しようっていう話になって、終電気にせずに飲んで友達の家に泊まる予定だった。だけど急遽友達の都合が悪くなって、仕方ないことだしとタクシーで家に帰ったことで全てが変わった。
玄関を開けたら見覚えのない女物の靴。嫌な予感がしながら扉を開けると、ベッドの上で彼と知らない女が仲良く縺れ合っていて。
“浮気”の二文字が頭の中に浮かんで真っ白になった。
「………さいあく」
もし万が一浮気なんてしたらボコボコにして蹴りだしてやるんだって思っていたのに。実際にその現実に直面するとなんにもできなくて、ただ慌てた様子で近付いてきた彼が気持ち悪くて鞄を投げつけて家を飛び出してしまった。
二駅分くらい歩いてたった一つの電灯と少し欠けた月に照らされた深夜の公園のベンチで、一人ぼんやりと座り込む私。惨めすぎて涙も出ない。
これから、どうしよう。
「………………みょうじ、さん?」
とりあえず頭を冷やそうと目を瞑っていると、ふとかすれ気味に小さな声が耳に届いた。どうやら私を知っている、だけどあんまり記憶にない低い声。
ゆるゆると顔を上げると、ベンチから10歩ほど離れたところに人が立っているのが見えた。濃い目の赤のシャツに黒のスウェット。プリンになった金髪を緩く後ろで結んだ、同い年くらいの猫目の男の子。
おぼろげに、記憶とその姿が一致する。
「……………孤爪くん…?」
少し自信なく呼んでみれば、彼は合っているとばかりにこくりと小さな動作で頷く。高校の時の同級生で、確か1年と3年の時にクラスが一緒だった気がする。
あんまり接点がなかったからよく知らないけれど、バレー部が全国大会に出場した時に主要メンバーだと聞いて驚いた記憶だけはあった。当時も思ったことだけれど、目の前の彼も到底運動が得意なようには見えない。
知っている情報はそれだけ。だけどなんだかとても懐かしい気分になった。
「…孤爪くん、こんなところで何してるの?」
「え…コンビニ帰り。ていうか…何してるのって、こっちの台詞なんだけど……」
向こうから話掛けたくせに、やけにおどおど返される言葉に少し笑ってしまう。どうして私に話掛けたんだろう。不思議に思いながらも、彼の右手に揺れる白いビニル袋をなんとなく眺める。
ラフな格好でコンビニ帰りってことは、この近くに家があるのだろうか。もうとっくに日付は変わってるのに、不摂生な生活してるのかなあ。
「えへへ…一緒に住んでた彼氏に女連れ込まれてて、家出してきちゃった」
「え、」
「なーんにも持ってないし、とりあえず今日はここで一晩過ごしちゃおうかなあって」
「そ、それはちょっと…どうなの、かな……」
孤爪くんが少し顔を引き攣らせる。正しい反応だ。
若い女が一晩公園で過ごすなんて正気の沙汰じゃない。だけど財布もなければ携帯もない、わざわざ取りに帰って顔を合わせるかもしれないのもイヤとなれば仕方がない。
でも孤爪くんにそんなこと言って困らせるも本意じゃないし、ここは離れた方がいいかも。立ち上がって、『なんて、冗談だよ』って笑おうと思った時だった。
「よかったら…ウチ、泊ってく…?」
「え」
「ほんとはネカフェ代くらい貸してあげたいんだけど、俺も今、手持ちないから…」
斜め下を向きながらぽそぽそと呟く孤爪くんをぽかんと見つめる。確かに公園で一晩過ごすよりもとても有難い申し出だけれども、だけどたかが高校の同級生で接点も碌になかったし、やっぱり男の家に簡単に上がり込むなんてどうかと―――いや、やっぱり公園で寝る方がまずいだろうか。
頭の中でぐるぐるぐるぐると理性と常識と本音が葛藤を繰り広げる。二分ほど黙って考え込んだのち。
「――――あー…トイレはそこ、お風呂はその隣のドアだから」
勝利したのは、本音だった。頭が冷えれば冷えるほど、公園で寝るのはさすがにイヤかもしれないと思えてきてしまって。
他にも選択肢はあったのかもしれないけれど、親切なのか下心があるのかそれとも何も考えていないのか、差し出された孤爪くんの優しさに疲れ切った心はこれ以上葛藤することを放棄してしまった。
「じゃあ、お言葉に甘えて、お風呂借りてもいいですか」
「うん…。タオルと服、そこの棚に入ってるから適当に使ってくれていいよ」
「あ、ありがとう」
じゃあ俺はリビングでゲームしてるから。そう言ってくるりと背を向けた孤爪くんは、少しだけそわそわしているように見えた。
もしかしてゲームで夜更かししてたのかな。そんなことを考えながら、少しだけくるりと部屋の中を見る。
男の子の一人暮らしらしい飾り気のない玄関。だけどごちゃごちゃとはしていなくて洗面台の周りも綺麗なところが少し孤爪くんらしいと思ってしまった。
「やっぱり、男の子なんだな……」
居酒屋で染みついた臭いをシャワーですっきり落とさせてもらったあと、棚からお借りしたシャツに袖を通しながら思わず呟く。高校の時から運動部らしくない細身の印象が強かったけれど、よく考えれば私よりずっと身長は高いし服が合わないのも当たり前だ。
今更当たり前のことを実感して不思議な気分になりながらも、髪を乾かしてさっき孤爪くんが入っていった部屋へと向かう。
「お風呂、ありがとう」
「あ…うん。喉渇いたら、冷蔵庫とか勝手に使って」
真っ暗な部屋でやけに明るく光を放つテレビ画面。孤爪くんはソファーの前の床に座り込んでその画面に向かったまま、かちゃかちゃとコントローラーをいじっている。
机の上には多分さっき持っていたものであろうコンビニの袋と、ペットボトルとお菓子が広げられていた。ゲームする人って、ほんとにこんな感じなんだなあ。
「……冷蔵庫、開けるね」
邪魔しないように小さな声で断り一つ入れて、お茶を見つけるとコップに注ぐ。半分くらい一気に飲んで継ぎ足すと、なんとなく孤爪くんの方へと近付いた。
机の上にコップを置いて、孤爪くんがもたれかかるソファーの端っこに腰を下ろして膝を抱える。テレビ画面の中では鎧を着た男の人が大きな剣で恐竜に斬りかかっている。
「これ、CMで見たことある。好きなんだね」
「うん。これ今日発売されたやつで、楽しみにしてたんだ…」
あ、恐竜倒れた。多分孤爪くんが操作してたであろう男の人が恐竜を倒すのを見てちらりと視線を動かせば、斜め前で孤爪くんの心なしか嬉しそうな横顔が見える。
そういえば“彼”もスマホのゲームは好きみたいでちょこちょこと楽しそうにやってたっけな。私はそういうの、あんまり興味を持てなかったけれど。
「―――――――…」
どうして、こうなったんだっけな。いつから裏切られていたんだろう。
今の今までずーっと、何一つ彼を疑うことなく未来を信じていたのに。何がダメだったんだろう。
本気で好きだったのに。愛していたのに。この人と一生過ごしていきたいって思っていたのに。
不意に押し寄せてきた現実に感情が膨らむ。ゲームに夢中の孤爪くんの邪魔をしてしまわないように、声を押し殺して膝に顔を埋めた。
明日からどうすればいいんだろう。とりあえず仕事は休ませてもらって、彼がいない間に貴重品は取りにいかなければ。
それから。それから。
「みょうじさん……?」
「…………っ」
そっと呼ばれた名前に返事ができなかった。酷い顔をしていることも泣いていることも知られたくなくて。
孤爪くんはどうして私を招き入れてくれたのだろうか。知り合いとして放っておけなかったから?
あんまり下心とかそういうのありそうなタイプには見えないけれど、もしかしたらそういうのも少しは思っているのかもしれない。もし、もしそうだとしたら。
寂しい、つらいと手を伸ばしたら、彼はそれをたった一晩でも埋めてくれるのだろうか。
「………風邪、引くよ」
少しだけ動いた気配がしたかと思えば、膝を抱えたままの私の肩に重みがかかる。くるりと包み込むように掛けられたタオルケット。
その温もりにじくりと涙腺が熱くなる。ああ、もう最低だ。自分のことがイヤになる。頭が可笑しくなりそうだ。
引き続きゲームに夢中の孤爪くん。でも音量がさっきよりも小さくなっていて。そこに存在してくれているだけで何故か安心する。衝動的に馬鹿なことをしてしまわないように、私は強くタオルケットを握り締めた。
好きになったら、どうしてくれるの
20181009