※『見えない未来』の続き
なまえちゃんに吸血したのがバレてもう2週間が経った。あの日からなまえちゃんに何か問われることもなく、俺達の交際は何ひとつ問題なく進んでいる。
「いやいや、おかしいよ…」
授業の声が右から左へと通り抜ける中、小さな声で呟き額を押さえる。普通彼氏に首筋を噛まれて血を吸われたってなったらもっとこう、なんかあるんじゃないだろうか。
どうやら彼女はそれを俺の性癖だと思ったらしいけれど、そうだとしても何も反応がないのはおかしい。普通怖がるとか、ドン引きするとか、あると思うんだけど。
「こらー、及川。聞いてんのかー?」
「うぇっ」
「ん?なんだお前、顔色悪いぞ」
ぼーっとしていたのが先生にバレてしまい睨みつけられるが、俺の顔色を見てその表情が心配そうなものに変わる。確かにちょっと頭が痛いし気分が悪い。
それを伝えると保健室に行って来いと言われて、俺は素直に席を立った。その瞬間にもくらりと立ち眩みがするものの、なんとか踏ん張って保健室へと向かう。
「失礼しまーす…」
ガラリと保健室の扉を開けるが先生の姿はない。ぐらぐらと揺れる頭にひとつため息を吐くと、俺は勝手に白いベッドへもぐりこんだ。
冷たいシーツと慣れない匂いに居心地の悪さは感じるけれど、立っているよりかはよほどマシだ。白い天井を仰いで、苦笑する。
「やっぱりそろそろ限界だなぁ…」
この具合の悪さはただの体調不良なんかじゃない。あれから一切血液を摂取してないことによる、貧血だ。
血を飲まなければ生きていけない。そんなこと痛いほどにわかっている。
「……ほんと難儀な体だよ」
血を摂取したければなまえちゃんを噛めばいい。だけど彼女への催眠は1度失敗している。
催眠なしで噛みつけば、もっと不快な思いをさせるかもしれない。そんなことになれば今度こそ誤魔化せずに、嫌われるなり怖がられるなりしてしまうと思う。
だからといって他の女の子に催眠をかけて血をもらうのはイヤだった。だって俺はなまえちゃんが好きなのに、他の女の子なんて。
「はぁ………」
ぐるぐると悩みすぎて、また頭痛が酷くなった気がした。気休めにしかならないけど少し眠ろう。
そう思って瞼を閉じたとき、カラリと静かに扉が開く音がして俺はすぐに瞼をあけた。もしかして保健室の先生が戻ってきたのかな。
「…………及川?」
「え………」
ベッドを囲むクリーム色のカーテンの隙間から顔を出したのは、なまえちゃんだった。驚いて目を瞠る俺に、彼女はふと小さく笑う。
「え、どうしたのなまえちゃん。授業は?」
「もう休み時間だよ。それで及川が保健室行ったっていうから、様子を見に来たの」
「そっか、ありがとう。俺ってば愛されてるなぁ」
軽口を叩いてみせれば、少し呆れた表情で俺を見下ろすなまえちゃん。だけどその頬は少し赤くなっていて、可愛いなあとにやけてしまいそうになる。
彼女の血は美味しいけれど、傍にいられるならば飲めなくてもいい。そんなことを強く思いながらなまえちゃんを見つめていれば、ふとその瞳が小さく揺れた。
「あのさ、及川…」
「…なに?」
「その…具合が悪いのって、この前のことと関係してるのかなぁって……」
自信なさげながらも図星をついたその言葉に、俺は咄嗟に何も反応できなかった。ただ声を失い狼狽える俺に、彼女は確信を得てしまったようだ。
揺れていた瞳がぴたりと止まり、真っ直ぐに俺を見据えてくる。どう、すればいい。
「あの……この前はごめんね。ちゃんと謝らなきゃとは思ってたんだけどさ」
「別に気にしてない。私が心配してるのは及川の体のことだよ」
恐れも軽蔑も浮かべずに、ただ心配だと見つめてくるその瞳に少し泣きそうになる。なまえちゃんはどこまでわかっていて、こんな風に心配してくれているのだろう。
体調が悪いからか、心まで弱っている気がする。彼女の真っ直ぐな視線がいつ歪んでしまうのかと、不安で恐ろしい。
「俺がどうしてあんなことしたか、知りたくないの?」
「うん、性癖だと思っとくからいい」
「いや、あのね、別に性癖じゃ」
「別に言いたくないなら言わなくていいよ。勝手に納得しとくから」
「性癖で納得しちゃうの!?」
噛んだ傷跡が綺麗に消えていたこととか、体調にまで及ぶ影響を考えると性癖じゃ片付かないのはなまえちゃんだってわかっているはずなのに。というか性癖だって思われているのも、それはそれで不本意なものがある。
なまえちゃんが何を考えてるかわからない。どうしてそこまであっけらかんでいられるの。
「及川」
「ん?」
「必要なら、また噛んでもいいよ」
「な……っ」
驚いて思わず起き上がれば、ぐらりと視界が揺れる。咄嗟に支えてくれたなまえちゃんの腕からふわりと漂う、芳しい香り。
噛みつきたい。頭を支配しかけた衝動を、理性を総動員させて抑える。
「っ、なまえちゃん変なこと言わないでよ」
「及川が噛まないなら私が噛む」
「はい!?」
とんでもない発言に目を剥いていれば、なまえちゃんがずいっと近付いてくる。困惑して咄嗟に反応できず、気が付けばなまえちゃんの髪が頬に触れていて。
ふわりと強くなる彼女の香り。呆けていれば、首筋にかぷりという感触を覚えた。
「ちょ、ちょ、ちょっ!何してんのなまえちゃん!?」
「噛まなきゃ噛むって言ったじゃない」
「い、言ったけど!」
「………イヤだった?」
「イヤじゃないけどちょっと心臓に悪いって言うか、むしろ心臓が爆発しそうっていうか」
好きな女の子にここまで迫られてイヤなはずがない。俺が元気だったらうっかり押し倒しかねない状況だ。
貧血で血が足りていないはずなのに、顔に血が集中してるんじゃないかと思うくらいに顔が熱い。しどろもどろになりながらイヤではないことを伝えれば、なまえちゃんは嬉しそうに笑った。
「私も、イヤじゃなかったよ」
「え…」
「及川に噛まれてびっくりしたし恥ずかしかったけど、イヤじゃなかったから」
だから噛んでもいいんだよ。そう言ったなまえちゃんが、照れ隠しのように俺から視線を逸らしつつも抱き着いてくる。
据え膳。そんな言葉が頭を過ぎりながらも、俺は彼女の体をぎゅっと抱き締めた。
「………俺が噛むってなると、こんな可愛いもんじゃないけど大丈夫?」
「うん、平気」
「なまえちゃん、好きだよ」
「私も大好き」
心臓がきゅうと甘く締め付けられる。俺は彼女の髪をそっと掻き撫ぜると、その白い首筋に優しく牙を突き立てた。
花の涙を喰らう
20150404