ヒューゴがある日突然連れて来た少女が、僕は大嫌いだった。

必要最低限しか口を開かない上に、表情はまるで人形のように動かず全く何を考えているかわからない。ヒューゴに命じられて怪訝に思いながらも手合わせすれば、圧倒的な力の差でシャルと僕は地面に転がっていた。

こいつは一体何者だ。屈辱で唇を噛みしめる僕を、呼吸も乱さず淡々と見下ろす彼女。

ナマエ。本名かもわからぬその名前だけが、僕の知る少女の情報だった。




「おい、なぜ僕の任務にお前もついてくるんだ」

「ヒューゴ様のご命令です」


それはまるで彼女の口癖だった。客員剣士になった自分に当然のように補佐につけられた彼女。

お前ひとりでは何もできまい。そう言われているようで怒りが沸き立つのを何度唇を噛みしめ堪えたことだろう。




「リオン様、脇腹の傷を見せてください」

「大したものじゃな…っ、触るな!」

「手当てが必要です。大人しくしてください」


隠していたつもりだったが目ざとく気付かれたらしい。心配した表情をするわけでもないくせに意外と強引で、なのに淡々と手当をする指先が少しこそばゆい。

このことはヒューゴには報告するなよ。悔しさと苦し紛れにそう口にすれば、ナマエは一瞥しただけで返事がなかった。

あの男に忠実なこいつに言っただけ無駄だった。またあの男から嘲笑と嫌味が飛んでくるのかと覚悟していたのに、報告を聞いた筈のあの男からかけられたのは“次も期待しているぞ”という心のこもっていない言葉だけ。

どういうことだ。あの女、報告しなかったのか。




「マリアン、ここにいたのか。少し頼みたいことが…」

「しー…」

「どうかしたのかい…?」

「ふふ」


柔らかく微笑むマリアンに癒されながら、促された先を見て唖然とする。柔らかな陽が差し込む庭先で、無防備にうたたねするナマエがいた。

タオルケットを持って行ってあげて。マリアンにそう言われてしまえば、どうして僕がと断ることも出来ずにそろそろと少女へと近付く。

少しだけ口を開いて、すやすやと眠るナマエ。こいつ、こんな人間らしい顔もできたのか。

意外に思いながらも薄手のタオルケットを掛けようと、布が彼女の肩に触れた瞬間。ハッと目を見開く少女。

うたたねしていたことに慌てたのか、寝ぼけていたのか。開口一番に出てきた言葉は、ヒューゴ様には報告しないで、だった。

馬鹿か。こんなくだらないことを誰が報告するんだ。




「―――おいっ、傷を見せろ!」

「大した怪我では……」

「うるさい!いいから見せろ!」


腕からぼたぼたと血を垂らす彼女を怒鳴りつけ、案外細い腕に刻み付けられた魔物の爪痕を確認する。この程度の魔物、こいつと僕の手にかかれば何も問題なかったというのに。

実力のない下級兵士が、七光りの客員剣士様の手は借りないなどとくだらないやっかみとくだらないプライドを振りかざしたせいで、さらにくだらない結果になった。


「なぜあんな馬鹿をかばった!」

「あんな馬鹿でも、死んでいいわけではありませんから…」


わかっている。頭ではわかっているはずなのだが、そんな自業自得の馬鹿は死なせておけばいいだろうと感情が波立つ。

傷が案外深い。これはしばらく腕が動かせなくなりそうだ。

ともかく医者に見せなければ。怒りと妙な焦りで唇を噛む僕を、少女が不思議な表情で見ていたことに僕は気が付かなかった。




「……なぜ、お前はそんなにヒューゴに忠実であろうとする」


ナマエはヒューゴの命令に、必ずイエスしか言わない。そしてヒューゴに“忠実である”という評価を意識している。

出会った頃は持ち主に従う機械か人形のようにしか思っていなかったが、最近違和感を覚えるようになっていた。彼女は思ったよりもヒューゴに忠実ではなく、捨てられることを恐れているわけでもないのに、忠実に見せようとしている。

昔から全くわからない女だったが、そう感じてからはますますわからなくなった。そう思っての問いかけだった。


「………………たぶん、必要だから、です」

「あの男に縋って生きることがか?地位も名誉も気にしないお前が、わざわざあいつの元を選んで生きる理由はなんだ?」

「………昔は…それしか生きる方法を知らなかったから…」

「…………ナマエ?」

「今は…………多分、この生き方が正しいと思うから」


目を瞑って言葉を選びながら紡ぐナマエ。ヒューゴに従って生きる道が正しいと、言うのか。

嫌悪感を覚える言葉のはずなのに、なぜか僕の胸を占めたのは漠然とした不安だった。なぜこの生き方が正しいと思うんだ。

お前の望みはなんだ。いったいいつも何を考えている。

その問いかけに彼女は答えなかった。いつもぼんやりと少し惑うように黙るだけだった。





出会った頃から変わらず、よくわからない少女。だけど僕はいつの間にか、彼女のことが大嫌いではなくなっていた。



なのに




「ナマエが………飛行竜と神の眼を奪っただと…?」


間違いなくヒューゴの命令だった。彼女なら、あの男に命じられたならば迷わず従うだろう。

頭ではわかっていたはずなのに、ガツンと殴られたほどの衝撃を受けた。ヒューゴが神の眼を奪わせたという事実よりも、彼女が裏切ったという現実に目の前が眩んだ。

そこまであいつに従うのか。その生き方が本当に正しいと思うのか。

真っ青な顔で涙を流すマリアンを慰めることも、何か訳があるはずだとあいつを信じるスタンに言い返すことも、何もできなかった。

ただぐちゃぐちゃに混ざった感情のままシャルティエを強く握りしめる。どうして、お前は。




「――――全く、出来の悪い子供をもったものだ」


それに比べて彼女は本当に優秀だよ。ヒューゴは傲慢さの滲む笑みを浮かべて、隣に立つ少女の頭を撫でた。

僕の周りで叫ぶ仲間だったはずの者たちの言葉が聞こえているのか、聞こえていて何も感じていないのか。ナマエは何も読めない表情で僕たちをじっと見据える。


「本当はこの役目はエミリオ、お前に任せるはずだったんだがな」

「なんだと…?まさか、僕がお前のこんなバカげた計画に従うと思っていたのか」

「思っていたさ。そのためのマリアンだった」

「っ、まさか貴様……」


彼女を人質にするつもりだったのか。僕のせいで大切なマリアンを危険な目に合わせるつもりだったのか。

いや、そもそもそのための彼女だったのか。仕組まれた出会いに蒼褪める僕を鼻で嗤い、ヒューゴはわざとらしく残念そうに肩を落とす。


「だがお前は危険因子を含みすぎた。唯一が唯一でなくなってしまえば、鎖は意味を失う」

「危険因子…スタンたちのことか?ふっ、計画通りにいかなくて残念だったな」

「ああ、だが問題なかったよ。お前でなくとも、彼女一人で十分だろう」


薄笑いを浮かべると、ヒューゴは背を向け闇に消えていく。剣を抜き放つナマエを、僕たちの前に残して。

やめろ、お前は自分が何をしているかわかっているのか。叫ぶ声など何も聞こえていないかのように、彼女は真っ直ぐに剣を振り下ろした。




「おいっ、ナマエ!ふざけるな、なにを考えているんだ!!」


鳴り響く地鳴り、ひび割れから流れ込む海水、動き出すリフト。レバーを動かしたまま、遠のく僕たちを見上げるナマエ。

初めて見るくらいぼろぼろに傷を負った彼女が、不思議と穏やかな表情をしていることに頭が沸騰しそうになる。どうして何もかもわからないまま、終わっていくのか。

ナマエがヒューゴに従った理由も、それでいて僕たちを生かす理由も、何もわからないまま。掴んだ鉄柵は不快な音を立てるだけで、彼女に手を伸ばすことを許してはくれない。

遠ざかっていく彼女が、初めて微笑んでいるように見えて。激しい轟音の中、その呟きは何故か鮮明に僕の耳に届いた。


「………やっぱり、この生き方で正しかった」

「まだお前はそんなことを…っ!」

「あなたでなくて、よかった」


なにを、言って。その言葉の真意を脳が弾き出す前に、その姿は掻き消される。

どうして。どうして。どうして。

お前なんて、大嫌いだ。届かない言葉を僕は叫び続ける。



入れ替わった運命

20180423

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