下町育ちの孤児だった私が貴族の夫婦に引き取られたのは、15歳の時だった。
下町の人間を蔑む貴族様が私のような小娘を引き取ったのは、その夫婦の亡くした娘と私が瓜二つだったから。本当は下町を離れて貴族の娘になるのはイヤだった。
だけど私を見て涙を流す夫婦に心を揺さぶられて。そして、私が貴族になれば下町の皆に何かしてあげられるのではないかと思ったから。
だから私は貴族の養女となった。それが間違いだったと気付いたのは、すぐのことだったけれど。
「お嬢様、そろそろお休みになられた方がよろしいですよ。明日はとても忙しいですから」
「……そうね。そろそろベッドに入るわ」
使用人の言葉に頷いて、読んでいた本に栞を挟んで閉じる。使用人が部屋を出て行ったのを見てから、私はそっとため息を吐いた。
明日。明日、私は結婚することになる。
「…………可笑しいわね」
下町で暮らしていた頃より、ずっと贅沢な生活を送っているのに。孤児だったあの頃と違って『家族』がいるのに。
あの頃より不自由だと感じる。幸せだと思えない。
だって私は“彼女”じゃない。
「“ ”」
何度口に出しても空虚に響くその音は、私の今の名前だった。正確には私に瓜二つだと言う、亡くなった少女の名前。
私がこの屋敷に連れてこられてから教わったのは、私が彼女になるためのものだった。本当の名前と過去を奪われ、私は彼女の名前と過去を与えられ。
私を引き取った貴族の夫婦が欲しかったのは、娘という道具の代わりだったのだ。だから明日、私は貴族同士のくだらない利益の為にくだらない男の元へ嫁ぐ。
「……これが貴族のシアワセなのかしら」
だったら根は下町育ちの私には一生理解できない。それでも、明日に待ち受けている運命から逃れる術なんてないのだけれど。
今さら下町に帰れるはずがない。街を覆う結界の外に逃げれば魔物の餌食。
私に与えられた選択肢は2つ。このまま“彼女”として生き続けるか。それとも―――。
「………………っ」
灯りを消したまま寝室に入ると引き出しを開けて、その中から護身用の短剣を取り出す。僅かな月の光を反射させて輝く鈍い銀色。
さあ、どうするの。
「―――そんな物騒なモンで何する気だ、お嬢さん」
「え……っ!?」
突然寝室に響いた男の声に驚き、短剣を両手で構えながら振り返る。すると窓辺に1人の男が立っていることに気が付いて、私は息を詰めた。
「だ、だれ……!?」
「おいおい。貴族様の仲間入りしたら、俺のことなんて忘れちまったか?」
「え……?」
敵意はない、気がする。念のため短剣を構えたまま、余裕の態度で窓に背を預ける男をじっと見つめる。
漆黒の衣を身に纏った、長い黒髪の男。その表情に懐かしい面影を感じ取って、私は半信半疑でその名を呼んだ。
「………ユーリ、なの?」
「お、ちゃんと覚えてたか。久しぶりだな」
「え、ええ…。本当に、久しぶりすぎてわからなかったわ……」
動揺で声が震えるのを抑えられないまま、短剣をそっと下ろす。下町で共に育った彼と会うのは貴族に引き取られて以来、実に数年ぶりのことだった。
目の前の彼には、すでに記憶の中の幼さはない。あの頃はあんなに身近な存在だったはずなのに、今はとても遠く感じる。
そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに。どうしてユーリがここにいるのかわからないまま、そっと彼から視線を逸らす。
「あの、どうしてここに?」
「フレンからお前が結婚するって話を聞いてさ。結婚前夜の花嫁の顔でも拝んでやろうかと思って」
「フレン……彼にも会ってないけれど、元気なの?」
「ああ。ついでにくそ真面目で口煩くて、昔っから変わんねえよ」
「……そう、相変わらず仲が良いのね」
「付き合い長いだけだっつーの」
不貞腐れた表情をするユーリに思わずくすりと笑う。フレンとユーリの噂は時々耳に挟んでいた。
騎士として活躍するフレンと違って、ユーリはあまりいい噂は聞かなかったけれど。彼らは変わらない。
変わったのは、私の方だ。
「俺だって変わったさ」
「え……?」
まるで私の考えを読んだかのようなユーリの言葉。思わず顔を上げれば、紫がかった瞳が真っ直ぐ私を貫いていて。
全て見通すような、偽りの殻を砕いてしまいそうなその視線に、思わず肩が震える。
「俺、今はギルドをやってんだ。帝国を出て、外の世界を旅してる」
「ギルド……そう、ユーリにはその方が性に合ってそうね」
「まあな。帝国のルールなんか知ったこっちゃねえ、てめえの守りたいもんはてめえのルールで守る」
強い意志の滲む声でそう言ったかと思えば、不意にユーリは窓枠から身を離す。そしてつかつかと近付いてきたかと思えば、彼は私の正面に立った。
意味がわからず困惑しながら見上げれば、ユーリはふと唇を吊り上げる。
「選択肢は2つだ」
「え?」
「俺についてくるか、俺に攫われるか」
さあ、どうする?
ニッと恐ろしく不敵に笑うユーリを、私はただただ呆然と見上げる。一体、彼は何を言っているのだろうか。
「い、意味がわからないわ」
「さっき言っただろ。てめえの守りたいもんは、てめえのルールで守るって」
「それが私を連れだすことと何の関係があるの…!?」
「本当にわからねえのか?」
「それ、は……っ」
ユーリの言っている意味が、わからないわけじゃない。だけど本当に、本気で言っているのだろうか。
第一、彼がそこまでする理由は?ヘタをすれば一生追われることになるかもしれないのに。
「ナマエ」
「………っ!」
数年ぶりに呼ばれた私の名前に、胸が震える。ぽろりと涙を零した私を見て、ユーリは優しく笑い両腕を広げた。
「ほら、こいよ。一生俺が守ってやるから」
「ユーリ…っ」
パキンと私を覆っていた殻が砕けたような感覚がして、私はユーリの腕の中へと飛び込む。息が詰まるくらい強く抱きしめてくれる腕に、このまま彼とならどこへでも行ける気がしていた。
偽りのヴェールを剥ぎ取って
(お姫様、無事奪還ってな)
20150619