千里がいなくなってから一年の月日が流れた。

あの日を境に悟は一人で“最強”になった。硝子は煙草の消費量が増えた以外は相変わらず。理子ちゃんは黒井さんの死を乗り越え、今は星漿体としてではなくごく普通の少女として暮らしている。

私は、一人でいることが増えた。


「傑、少し休め」

「…いえ。この忙しい時期に私だけ休んでなんかいられませんよ」


この夏は昨年頻発した自然災害の影響もあってか忙しい。だが割り振られている以上にどんどん任務を詰め込んでいる自覚はあった。物言いたげな夜蛾先生を無視して部屋を出る。

次の任務に向かおうにもまさか補助監督の手が足らず、車が出せるまで少し時間がかかるようだ。無駄に空いた時間に苛立ちを抱えながら、自販機に小銭を入れてボタンを押す。ガコンと落ちて来たのは、先日私を慕う見る目のない後輩に御馳走したばかりのコーラ。甘みの強い炭酸を喉に流し込みながらなんとなく見上げた先には、どんよりと曇った空が広がっていた。

今にも雨が降り出しそうだ。ああ、思い出す。


“夏油くん”


彼女は硝子の目の前で文字通り消えたそうだ。残ったのは彼女が身に纏っていた制服だけ。何度調査しても呪術に害された痕跡もなければ、彼女の残穢を追うこともできなかった。原因に心当たりはあった。あの黒水晶の術の発動は、彼女の消失と同時刻のこと。調べたところあれは相当高度な術だったらしい。その術の反動に彼女は耐え切れなかったのだろう。上層部はそう結論付けて、彼女に関する調査を打ち止めた。書類上は行方不明という扱いになっているが、実際は死亡扱いと変わらない。

納得できるわけがなかった。術の反動を受けたという可能性は大いにある。だが呪いについて解明されていないことは多く、どうしても彼女が死んだという結論は受け入れられなかった。今もずっとどこかで助けを求めているかもしれない。そう考えると居ても立っても居られず、暇さえあれば彼女の手掛かりを探し続ける日々。そうでもしなければ、正気を保っていられそうになかった。


“コイツら 殺すか?”


別人のように雰囲気を一変させた悟が私を見ていた。『天内理子』の遺体を前に穏やかな笑みを浮かべて手を叩く一般教徒たち。遺体は一件の主犯の炙り出しと、彼女の身の安全の為に偽装されたものだ。眩暈と吐き気がした。それでも首を振る。殺したところで意味などない。

冷たくなった黒井さんにしがみついて泣く理子ちゃん。丁寧に畳まれた制服を無表情のまま見つめる硝子。

術師は非術師を守るもの。そう信じて、何度も悟に説いてきたはずなのに。価値観に亀裂が走る。コイツらは本当に私が守るべき存在なのか?


「…………………千里」


溢れ出すように、縋るように、彼女を呼ぶ。返事などないとわかっているのに。

のんびりした雰囲気と優しい笑顔。ふとした瞬間にみせる酷く大人びた視線。呪術師の中ではかなり良識的と評判の少女は、時折思わぬところで斜め上にぶっとんだ思考を見せては私たちの度肝を抜いていた。

あの日からずっとひび割れた価値観が軋んで悲鳴を上げている。まだそれを正論だと信じていられるのは、ひとえに彼女の存在故だ。彼女を探すために、帰りを待つために、悲しませるような道は選べない。今はまだ。だけどいつか、私が本音を選ぶ日が来たときは。


「……雨か」


ぽつぽつと降り出した雨。屋根の下に移動することなく私は頬を打つ雨粒を感じる。彼女は雨が好きだった。教室の窓から嬉しそうに雨を眺める彼女の横顔が、傘を差してわざと遠回りに彼女と歩くことが、私は好きだった。この雨が私の中で膨らむどろりとした澱みを洗い流してくれたらいいのに。

ふと携帯の着信音が鳴り響く。画面に表示された灰原の名前。遠方の任務に行くと言っていたはずだが。空になった缶をゴミ箱に放りながら、私は通話ボタンを押した。


「はいもしも」

『げげげげげげとうさん!ぼくはなにもみていません!!!』

「…………………は?」





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私は神だ。人々の信仰から生まれた存在。雨乞いの神。信仰心が私を生み出し、雨を乞う祈りが私の力となり、私が雨を降らせれば、より人々は私の存在を信じた。やがて純粋な神力に染まった雨は水晶のような結晶となり、神の領域に美しい水晶宮を造り上げた。


「おかえりなさいませ、おひいさま」

「…………かえってきて、しまったか」


ふと意識が覚醒すれば、目の前には美しい水晶宮ともっぱら皆の遊び場となる庭園が広がっていた。にこりと微笑む可愛い幼女の頭を、ただいまと言いながらやわく撫でる。

こうしてこの場に戻ると、いかに人と神との感覚に隔たりがあるかを理解する。神の感覚を凪と例えるなら、人はまるで嵐だ。嵐のようなあの感覚も悪くはなかったけれど。


「皆は元気か?」

「ええ。皆さま、おひいさまの罰ゲームを楽しんでおられましたよ」

「複雑だが、まあ、それはよかった」

「けれど反省もしておられました。愛憎劇ばかりを聞かせたのは悪かったと。“夏の君を応援する会”の方から素敵な恋物語の巻物がたくさん届いております」

「送り返しておき……夏の何って?」


うふふ、と赤い着物の袖で口元を隠す幼女。妙な言葉が気にはなったものの、皆が誰かの罰ゲームの覗きながらアレコレとはしゃぐのはいつものことだ。記憶の隅に押しやってしまいながら、桜のように色づいた水晶の枝を見上げる。何故だろう。あるべき場所へ帰ってきたはずなのに、落ち着かない。


「………消えていないのか」

「おひいさま?」

「私の人間としての存在は消失したはずなのに、意識はまだ残っているようだ」

「まあ」

「私のような神は、人の想いに強く影響されるからね。人の祈りが私になり、私の力となる。だから私は人の想いに応え、私として存在してきた」


人の命は短く儚い。私たちにとってはほんの少し目を離しただけのつもりが、人間はあっという間に一生を終えてしまう。そうすれば祈りが途絶えて私の存在が弱くなってしまうから、雨乞いの祈りが届くたびに私は人々の傍に寄り添ってきた。


「罰ゲームは終わった。でも、人の想いには応えてやらねばならないね」

「え…?」

「はは、今のはつまらない言い訳だった」


私をきょとりと見上げる澄んだ瞳には、全て見透かされているような気がして苦笑する。神として人の想いに応えるだなんて、私も可笑しなことを言ったものだ。そんなこと、もう遠い昔にやめてしまったというのに。もっともらしい言い訳で取り繕った本心はなんだ。


「会いたい」


今このときでさえ頭の中に響く声。いくつもの声が私を呼んでいる。その中で一際強く、何度も呼ぶ声の持ち主が瞼の裏に浮かんだ。会いたい。私の中に残る“私”がそう望んでいる。

もう一度。もう一度。ただ会いたい。


「すまないね。今しばらく留守を頼む」

「おまかせくださいませ」


にこりと微笑む幼女に眩しさを感じて目を細める。再び揺らぐ意識。罰ゲームはまだ終わらせられない。




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気が付くと私は板張りの床の上に倒れていた。特に不調もなく体を起こせば、薄暗いここが小さな御堂の中だということがわかる。雨が降っているのか天井を打つ音が響く。どうしてこんなところに。

この場所には神気も混じっているけれど知ったものではない。いや、神気の他に呪霊の気配がする。近付いてきているのか、どんどん濃く大きくなる呪霊の気配。場所を考えればおそらく土地神が関連した1級案件。そうでなくても水晶が手元にない状態ではどうしようもない。

呪術師が派遣されてくるまで身を隠そう。さすがにここで死んでは笑えない。呪霊はもうすぐそこまで来ている。そう察すると同時に聴覚が捉えたのは、不気味な咆哮と人の叫び声だった。


「………っ!」


反射的に御堂の扉に手を掛けていた。水晶がないのに。いや、でも、雨。雨が、降っている。


「――――灰原ッ!!!」


知った声が知った名前を呼んでいた。ざあざあと降りしきる雨に濡れて色の変わった石畳。それを容赦なく瓦礫に変えていく1級呪霊。顔面を真っ赤に染めた七海くんと、片足が捻じ曲がって身動きが取れなくなっている灰原くん。

ぴしゃり。足の裏に触れた水溜まりが、眩く強烈に光る。それを反射してまるで水晶のように輝く雨粒。それぞれから放たれる呪力が、数多の光線のように呪霊を貫いた。


「運が良かった…」


細切れになった呪霊が消滅するのを見てホッと息を吐く。私と水晶との関係上、咄嗟に雨も使えるはずだと判断してのぶっつけ本番だった。これで何も起こってなかったら一番危なかった灰原くんどころか、七海くんと私まで逃げきれたかどうか。


「灰原くん大丈夫?」

「え、あ、は、雨晶さん…ですか?」

「うん。足、ちぎれてはないみたいだね。大丈夫、これなら硝子ちゃんが綺麗に治してくれるよ」

「は、はい、え、え…?」


でも雨で血が流れやすくなってるのはよろしくないな。駆け寄って傷口の状態を確認していると、視線を感じて顔を上げる。すると灰原くんが目を白黒させながら私を見ていたかと思うと、なぜかバッと視線を逸らされる。


「灰原くん、どうかした?」

「いやっ、あのっ、ちょっと…!」

「雨晶さん」

「あ、七海くん。君も怪我は大丈夫?」

「あなたが来てくれたおかげで問題ありません。それよりひとまず私のもので申し訳ありませんが、これを着てください」


頭の傷口を押さえた七海くんから差し出されたのは、彼の制服の上着だった。なんとなく嫌な予感がして今更ながら自分の姿を見下ろす。うわあ。下着姿とまではいかないけれど上はキャミ、下は膝丈スパッツに裸足。なんで制服着てないの。

ありがたく七海くんの上着を受け取らせていただく。いそいそと袖を通して腕を捲っていると、ふと瓦礫の向こうに見知った補助監督の姿が見えた。どうやら瓦礫が邪魔ですぐにはこちらには来られない様子だけれど、どこかへ電話をかけながらこちらに向かって大きく腕を振り回している。


「こっちは道が崩れてるから、あっちのルートから抜けろってとこかな?」

「ええ。それより……雨晶千里さん、なんですよね?」

「えっ、もしかして目に呪い受けた?ちゃんと見えてない?」

「見えています。そういうことではなくて―――」


びっくりした。頭を怪我したみたいだったから視覚に影響が出ているのかと。違うならよかったと安心しつつも首を傾げれば、今度は足元から大きな声が響いた。


「げげげげげげとうさん!」


夏油くん。その名前を聞いて思わず息を呑む。“あちら”で何度も何度も響いていた彼の声。灰原くんの掛けた電話の先に、夏油くんが。


「ぼくはなにもみていません!!!」


待って。どうして。

思わず半目になったところでようやく二人の反応の原因に思い至る。多分私はいきなり硝子ちゃんの目の前から消えたはずだ。神の領域にいたのはそれほど長くはないけれど、人の世とは時の流れが違う。この暑さだとまだ8月か9月だと思うから、消えてから長くても一月程度のはず。それでも行方不明になっていた先輩がいきなり目の前に、しかもほぼ下着姿で現れたら驚くのも無理はない。

それでも何も見ていないっていうのは酷くないかな。見えてるじゃん。絶体絶命のピンチで助けた先輩を幽霊扱いですか。夏油くん違うよ、私ちゃんと存在してるよ。弁解するために灰原くんの携帯に手を伸ばした時だった。

がしっと横から手首を掴まれる。


「五条さん!」

「え、五条くん?」

「……………まじで千里じゃん」


どこから現れたのか、私の手首を掴んでいたのは五条くんだった。五条くんにしては珍しく意表を突かれたような表情で私を見下ろしている。久しぶりだね。とりあえずそう言おうと口を開けば、声が出るよりも先に私はひょいと肩に担がれていた。


「ちょっ、なに」

「うっせえ」


再会の挨拶も碌にできないまま瞬きするとあら不思議。瓦礫だらけの景色が、高専の校舎に変わっていた。いつの間にこんなことができるようになったんだろう。驚いていると裸足のままの両足が濡れた地面に付く。


――ガシャンッ


何かが落ちる音に釣られて振り返る。そして私は目を大きく見張った。


「夏油くん」


携帯電話を足元に落としたまま、夏油くんは呆然と私を見ていた。1か月ほど見ない間になんだか痩せたような気がする。もしかしなくても、私のせい、だよね。何度も何度も私を呼んでいた彼の声を思い出す。

最初になんて声を掛けるべきだろうか。久しぶり?ごめんなさい?まさか瞬間移動して再会するなんて思っていなかったからアワアワとしていると、五条くんからバチンッと結構な勢いで頭を叩かれてしまう。その勢いに突き飛ばされるように私は夏油くんに近付いた。


「あ、の」

「……千里?」

「は、はい、夏油くん」

「千里」

「………心配かけてごめんなさい。ただいま戻りました」


信じられないものでも見るかのような顔をしていた夏油くんの表情が、くしゃりと歪んだ。大きな手が私の腕を掴んで引き寄せる。額が夏油くんの胸にぶつかった。そのまま強く抱き締められてぎゅっと軋む心臓。少し躊躇いながらも彼の広い背に手を回す。するとさらに強くなる腕の力。呼吸が止まってしまいそう。でも今は、それが心地良かった。





















あ、嘘、ちょっと酸素足りなくなってきた。


「っげとうくん、ごめ、ちょっとくるしい」

「………………」

「夏油くん?」

「………………」

「げ、夏油くん!?え、ちょ、五条くん夏油くんの様子がおかしい!っていない!?」

「………………」

「ちょ、おもっ!だ、だれかっ、げ、げとうく、ぐえええええ」




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「過労。誰かさんのせいだね」


糸が切れたように意識を失った夏油くん。ベッドで眠る彼を見て数秒で硝子ちゃんはそう診断を下した。だろうなと頷いて椅子と共にくるくると回る五条くん。その横で床に正座する私。

再会早々に真顔の硝子ちゃんから喰らった腹パンがじわじわと効いてきている。友情が痛い。でも嬉しい。なんて言ったらもう一発飛んできそうなので心の中だけに留めておく。


「……あ、そういえば今って何月何日?」

「そこにカレンダーあるでしょ」

「ハイ。……そっか、2週間行方不明だったんだねわたし、い゛っだぁ!!」


バッチンと今度は額を五条くんに叩かれて叫ぶ。なんでそんなに叩くの。涙目になりながら真っ赤に腫れたと思わしきおでこを両手で押さえる。


「暴力反対!抗議は口頭でお願いします!」

「いやいやいやいやふっざけんなよオマエ」

「2週間プラス1年なんだけど」

「え?」

「千里が行方不明になったのは、1年と2週間前」


青筋立てた五条くんと、飄々とした表情のまま手元でくるくるとメスを回す硝子ちゃん。それから白い顔で眠る夏油くん。三角形を描くように何度も3人を見る。

いちねんとにしゅうかんまえ。神の領域にいたのは1時間にも満たないはずだったのに。どうやら人の世と神の世を往復する間にかなり時間が流れてしまったらしい。私は静かに床に額を付けた。


「……本当に、心配かけて、ごめんなさい」

「繁忙期終わったら千里のおごりで焼肉ね」

「五条家御用達の店で予約とってやるよ」

「それ私破産す……いえ、喜んで御馳走させていただきます」


それから目頭を押さえた夜蛾先生に連れられて、私は事情聴取と健康状態の精密検査を受けた。その合間に次々と会いに来てくれる先輩や後輩、先生に補助監督さんたち。最後に上層部からの了承を得て両親への連絡が終わった頃には、すっかり夜も遅くなっていた。

帰る前にもう一度。医務室の扉を開けると硝子ちゃんと五条くんの姿はなかったけれど、夏油くんが起き上がっていた。ベッドサイドに腰掛け「千里、」と掠れた声で呼ぶ夏油くんはまだ寝起きの顔をしている。括った痕の残る乱れた髪もなんだか新鮮で、私はこっそり笑いながら彼のすぐ隣に腰を下ろした。


「夏油くん、具合はどう?」

「それはむしろ私が君に聞きたいな…。検査はどうだった?」

「全然問題なし。呪術師の中じゃ五条くんの次くらいに健康だって」

「はは、悟の次か。それはかなり良好だな。本当に……まだ、現実味がない」


こんな儚げで不安そうな表情見たことない。慌てて夏油くんの手の甲に私の手のひらを重ねる。ぴくりと反応したそれをぎゅっと握り締めて、夏油くんの目を覗き込んだ。


「ごめんね、心配かけて。ちゃんとここにいるよ」

「………ああ。おかえり、千里」

「ただいま、夏油くん」


夏油くんの手がくるりと裏返って手のひらが重なる。指が絡まるようにぎゅうと握られると、少しずつ互いの体温が馴染むような安心感。知ってたけど手の大きさも厚みも全然違うしゴツゴツしてる。同じ人間なのに男女の違いってこんなにあるんだ。そんなことをにぎにぎしながら感じていると、不意に夏油くんの頭が私の頭の上に寄りかかってきた。


「千里、どうしてこんなことになったのか教えてくれ。あの黒水晶の術が原因なんだろう?」

「えっと…夜蛾先生には、書類上は高度な術の反動を受けたっていう理由のままにしておいてってお願いしてるの。だから表向きはそれで話を合わせて欲しい」

「ということは実際は違うんだね。硝子には呪力を間違えたって言ってたようだけど」

「…ごめんなさい、本当のことは誰にも言えないの。ただ例えるならうっかり“縛り”を破ってしまったというか」

「うっかりで1年も行方不明になられたらたまったもんじゃない」

「か、返す言葉もありません。でも私の体感だと1時間も経ってない…」


はあああああああ、と長い長い溜息を吐く夏油くん。本当は一生会えない可能性の方が高かった。だけど夏油くんや他の皆が私を忘れないでいてくれたから帰ってこれたんだよ、ありがとう。そんなことは言えないから心の中だけで呟いて、ただ夏油くんの頭の重みを受け止める。


「夏油くんも無事でよかった」

「何のこと?」

「私にとって1時間前は、夏油くんと五条くんが星漿体の子の護衛中に高専内で襲われたかもって状況だったんだもん。だから二人共無事でよかったなあって」

「ああ………」

「……夏油くん?」

「いや、千里がこうなったことを考えると苦い思いしかなくて。そもそも私が守り切れていれば何も問題なかったんだ。すまな…」

「待って!夏油くんが謝るのはナシ!ややこしくなるからナシ!」

「ややこしくなるからって、君ね」


くすりと笑う声がする。一瞬、夏油くんの雰囲気が変わったように思えたのは何だったのだろうか。五条くんにしてもそうだ。性格は相変わらずのようだけれど、能力は格段に飛躍している。二人の変化に1年の空白を感じて少し寂しい。置いていかれないように私も頑張らなくちゃ。


「そういえば千里はこれからどうするんだい?まさか後輩になるのかな」

「そこは夜蛾先生が融通利かせて同級生のままでいさせてくれるって!だからとりあえず今から実家に帰って、しばらくは両親が落ち着くまで実家から登校するつもり…なんだけど」

「何か問題が?」

「両親がね、もう学校は辞めて帰ってきなさいって言ってて」


両親は私が呪術師だとは知らない。色々と表向きの事情だけしか伝えていないから、宗教系の学校に通っているとしか思っていないのだ。だから両親の気持ちも言っていることもよくわかる。だけど私は学校も呪術師も辞めるつもりはない。先生も私が先程1級呪霊を祓った功績を考慮して、補習を受ける必要はあるけど夏油くんたちと同じ3年生に進級させると言ってくれた。続けたい理由はあっても辞める理由はない。


「――――…千里、」

「大丈夫、絶対説得するから!だから落ち着いたら4人で焼肉行こうね!」

「……ああ、そうだね。楽しみにしているよ」


そういえば私の口座ってどうなってるのかな。焼肉までには残高確認しとかなくちゃ。そんなことを呑気に考えていた私が、夏油くんの異変に気付いたのはもう少し経ってからのことだった。




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「あっ、いたいた。やーがセンセ!」


両親の説得に無事成功し、復学してから2週間。あちこち探し回ってようやく、空き部屋で呪骸を縫っている夜蛾先生を見つけてホッと息を吐く。先生は私の顔を見ると、ぐっと目頭を押さえた。決して口にも態度にも出せないけれど、そろそろ人の顔を見るたびに泣きそうになるのはやめてほしい。毎回罪悪感がぐさぐさと心に突き刺さるから。


「……千里。どうかしたか?」

「はい。ちょっと相談があるんですけど、今大丈夫ですか?」

「ああ、問題ない」


ちょっとふてぶてしい顔をした人形を横に置く夜蛾先生。私はその人形とは反対側に座ると、壁に寄りかかりながら膝を抱えた。


「あの、夏油くんのことなんですけど。ちょっと様子がおかしくて」

「お前が原因では…?」

「そうじゃなくて、いやそれもあるのはもちろんわかっているんですけど!」


違和感自体は私が帰ってきたときから覚えていた。私の知らない影のある表情。声音に滲む重さ。私の知る夏油くんとのズレを感じながらも、その原因は私と、1年の空白にあると思っていた。だけど最近私の勘が警鐘を鳴らしている。夏油くんの異変を、見過ごすなと。


「夏油くん、この前倒れたじゃないですか」

「ああ、俺が休めと言っても全く聞き入れなかったからな」

「明らかに原因の8割は私です」

「俺は10割だと思う」

「8割でも大袈裟だと思ったんですけど…事実はともかくとして、周りの人たちはほぼ私が原因だと思っていますよね」

「そうだな」

「だけどそれを夏油くん本人から聞いた人、誰もいないんです。五条くんにすら夏バテと言っていたみたいなんで」


夜蛾先生の眉間に皺が刻まれる。夏油くんの夏バテ自体を否定しているわけじゃない。私の失踪による心労と、今夏の呪霊の多さによる多忙。さらに夏油くんの術式は呪霊を口から取り込む必要がある。任務が忙しいイコール取り込む呪霊も多いということだ。そこから食欲が落ちて夏バテということは十分にあり得る。だけど私が気になっているのはそこじゃない。


「倒れるほど弱っているのに、誰にも吐き出せていなかったのなら心配だなって」

「確かに…。事が事だけに気に掛けてはいたつもりだったが…そうか、悟にもか……」

「それにこの前会った時もちょっと様子が気になったんです。でも大丈夫の一点張りで逆に心配されるばかりで」

「なるほどな。それが千里の言う残りの2割か」

「はい。夏油くん、私たちにも弱音を吐けないのか、それとも私たちに言えないようなことで悩んでいるんじゃないかなって」


夏油くんは五条くんとセットで夜蛾先生に問題児扱いされることもあるし、硝子ちゃんにはクズ呼ばわりされることも多い。だけど基本的には出会った頃から優しく真面目で、他人を気遣うことができ、責任感が強い人だ。思い返せば夏油くんを頼りにした記憶は山ほどあるのに、頼られた記憶はほとんどなければ弱音や愚痴を聞いた覚えもない。

気のせいならそれでいい。私が頼りにならないだけで他の人を頼っているのなら、それでいいけど私も頼られるように頑張る。だけどそうじゃなかったら。そう伝えると、夜蛾先生は真剣な表情で頷いてくれた。


「傑が任務から戻り次第、俺が話を聞いてみよう」





それから三日後のことだった。夏油くんから会えないかという連絡が来たのは。

高専結界内ではあるけれど、学校からも寮からも離れた人気のない公園。暑い日差しのなか約束の時間より少し早く着くと、夏油くんはすでに木製のベンチに座って待っていた。


「お待たせ夏油く…っ!?」


顔を上げた彼を見て絶句する。髪はボサボサだし顔はぼこぼこだ。控えめに言ってもぼこぼこだ。半袖から伸びる腕にも痣や擦り傷がいくつも刻まれている。夏油くんが苦笑するのを見て私は叫んだ。


「えっ、な、何事!?しょ、しょ、しょうこ!硝子ちゃんのところに行こう!!」

「あはは、大丈夫だよ千里。硝子には治療しないって宣言されてるから」

「ちょっと待って本当に何があったの?」


それは大丈夫だとは言わないんじゃないかな。困惑する私をよそに、夏油くんは何故か清々しい表情で笑っている。うん、清々しい。最近夏油くんの表情に滲んでいた影がなくなっている。私はいったん困惑を鎮めるようにふうと息を吐くと、夏油くんの隣に腰掛けた。夏油くんは私を見て、少し腫れた目を柔らかく細める。


「……夜蛾先生から聞いたよ。心配を掛けてしまっていたみたいだね」

「うん…。やっぱりただの夏バテじゃなかったんだね」

「…………どこから、話そうかな」


夏油くんが両手を組んで目を伏せる。影はなくなったけれど、私の知るものとは違う横顔。蝉の鳴き声が響く。


「私は、呪術は非術師を守るためにあり、術師は非術師を守る責任があると信じていた」

「うん」

「だけど1年前の任務の時から、その価値観が揺らいでいたんだ。こんな猿共を、私たちが命を懸けて守る必要があるのかと」


猿。夏油くんらしからぬ言葉に驚きながらも、その感情には共感できた。

夏油くんは知る由もないけれど、かつて神としての私は多くの人間を見殺しにしたことがある。雨を乞う人々が私に幼い子を生贄として捧げた日。雨を降らせることは、人々の祈りを集めて神力を維持するために必要なことだった。それでも私はその瞬間から神力を奮うことをやめ、幼女の魂を連れて水晶宮で過ごすことを選んだ。

神とて救う人間は選ぶ。人間である呪術師が救う人間を選んで何が悪い。いや、それが自分で選んだ道、仕事なのだから見殺しにしたら問題なのはわかっているけれど。実際他人の為に命は掛けられないと、呪術師を辞めていく人は少なくない。


「非術師のせいで呪霊が生まれ、術師が死んでいく。それならいっそのこと非術師は皆殺しにしてしまえばいい。そう、考え始めていたんだ」


しかしさすがに思わず顔が引き攣った。呪霊が生まれる限り呪術師は戦い傷付き続かなければならない、だから呪霊が生まれない世界にしよう。根本的な考え方はそこなのだと思う。だけど守るべき存在だったはずの非術師への憎しみと、仲間への愛情。それが深く入り混じって夏油くんは相当追い詰められていたらしい。夜蛾先生に相談してよかった。硬直する私に気付いたらしく、夏油くんが苦笑する。


「……夜蛾先生に打ち明けたら、そもそも呪術師としての在り方について叱られたよ。他人を言い訳にするな、自分のためだと言える理由を持てと」

「うん」

「それから悟とも話したら当然のごとく喧嘩になってね。最終的に夜蛾先生から術式の使用は禁止された状態で殴り合いになった」

「そ、そっか」


二人の喧嘩は珍しいことじゃないけれど、大抵は五条くんの術式と夏油くんの呪霊なので本人らはノーダメージなことが多い。それを夜蛾先生がわざわざ禁止したということは、余程本気で衝突して最悪高専が更地になるところだったのか。それとも男なら拳で語れというやつなのか。両方か。


「言いたいこと吐き出して、悟のショック受けた顔見て、ボコボコの顔のまま任務に行くアイツを見て正直胸がすっきりした」

「その顔私も見たかったな」

「硝子が写メ撮ってたよ」

「あとで送ってもらお」


くすりと笑う夏油くん。五条くんの怪我なんて私は夜蛾先生の拳骨以外で見たことはない。いつの間にか反転術式が使えるようになっているみたいだし、喧嘩の怪我の影響が任務に出ることもないと思う。ということで特に心配はしない。むしろボコボコになった顔を見て五条くんもちゃんと人間だったんだなって確かめたい。

少しの間、私たちの間に沈黙が流れる。消えていく蝉の声。私は小さく息を吸った。


「……あのね、私が呪術師やってるのは、みんなと一緒にいたいからだと思う」

「千里らしいな、うん」

「だから勝手に非術師大量殺人なんてしないでね。一緒にいられなくなっちゃうから」


虚をつかれたような表情で夏油くんが私を見る。みんなと一緒にいたい。それは私にとって自分のための立派な理由だ。私が好きな人、私を好きでいてくれる人と一緒にいるために呪霊を祓う。身代わり石もそのために考えたものだ。誰かを守るためなんて考えたことはない。ただ私が大切な人たちと一緒にいたいから、嫌な任務も割り切ることができる。大切な人たちに大切だと思って欲しいから、優しく強くありたいと努力している。

私にとって一緒にいたい人の筆頭は間違いなく夏油くんだというのに。その彼はたっぷり数秒変な顔で私をまじまじ見つめたかと思うと、くつくつと笑い始めた。


「一緒にいたいから殺すな、か。千里もなかなかイカれてるね」

「ええ…?」


それこそ今更じゃないかな。出会いを思い出して欲しい。私は鼠のような呪霊の首を切り落としている。ごく普通の女の子ならば悲鳴を上げて失神しているところだ。くつくつと笑っては傷口が痛むのか小さく呻き、また堪えきれないように笑う夏油くん。なんとなく面白くなくて、腕にできた痣を思い切り指で弾いた。


「イテッ!」

「それでこれからどうするの?まさかこれでも呪詛師になりますなんて言わないよね」

「言わないよ。でもやっぱり根本的な考えは変わらないから、呪術師を続けながら呪霊が生まれない世界について考えていきたいと思ってる」

「そっか。他に何か言ってないこととか、聞きたいことはない?」

「じゃあ…今は一つだけ。千里の本音を教えて欲しい」

「本音?」



「………失望、いや、軽蔑したかい?」



目を見張る。私の方を見ずに地面を見つめる夏油くん。呆れた。でもこれも夏油くんなりの甘えなのかもしれないと思い直す。私は両手を伸ばすと夏油くんの頬を包み、くいっとこっちを向かせると目を合わせた。


「私、夏油くんのこと好きだよ。今までもこれからも。大好き」


私は夏油くんに会いたくて人の世に戻ってきたようなものなのに。失望も軽蔑もしない。嫌いになることもない。

そんな想いを込めて見つめる私の両手の間で、夏油くんはぽかんとしていた。まさか本気で私が軽蔑するとでも思っていたんだろうか。眉を寄せつつ首を傾げると、夏油くんはバッと片手で顔を覆った。表情は見えなくなってしまったけれど、黒いピアスの目立つ耳が真っ赤に染まっている。


「夏油くん?」

「その、ごめん、千里がそういう意味で言ったわけじゃないのはわかってるんだけど、さすがに…っ」

「え?」


そういう意味ってどういう意味。夏油くんが好きって気持ちを伝えただけなのに。耳を真っ赤にして俯く夏油くんのつむじを眺めること数秒。頭の中に今まで見てきた月9ドラマと少女漫画が一気に流れていった。


「…………っ!」


あ、好きってそういう。頬が熱くなって私まで落ち着かない気持ちになる。別にそんなつもりで言ったわけじゃない。夏油くんは私の大切な友達で、仲間で。いやでも少女漫画ならこれで友情はあり得ない。

夏油くんと一緒にいると楽しいし嬉しい。硝子ちゃんや五条くんももちろんそうだし好きだけれど、夏油くんとは少し違う気がする。神力を使ってしまって存在が消えかけた時も、神の領域にいた時も、ずっと彼のことを考えていた。

もしかしてこれはもう、恋、と呼べるのでは。


「…………夏油くん、私そういう意味で好きだと思う」

「〜〜〜っ、ああもう…!」


頬を挟んだままだった両手を取られたかと思うと、ガバリと夏油くんが顔を上げる。真っ赤だ。今日は夏油くんの知らない顔をよく見る。多分私の顔も赤いけれど。恋だと気付いたらどうしたらいいんだろう。告白する?ああもうしちゃってた。じゃあ次は返事を待てばいいのかな。え、夏油くんって、私のことどう思ってるんだろう。混乱している間に気が付けば距離が縮まっていた。

待って、近い。あ、唇の端が切れてて痛そう。


「千里」

「は、はい」

「私も、君が好きだよ」


視線が熱い。さらに近付く気配に反射的に瞼を閉じる。唇にそっと触れる柔らかな温もり。それが何かわからないほどではなくて、夏油くんに掴まれた両手をぎゅっと握り締めた。頭が真っ白になって呼吸を止めたままどれくらい時間が経ったのだろう。温もりが離れていって、ぎこちなく私は酸素を吸い込んだ。


「…………っ!!」

「千里?」

「ちょ、ちょっと今はこっち見ないで」

「………可愛いなあ」


夏油くんそんな溶けた声どこから出してるの。顔を俯かせて、距離を空けるように両手を突っ張る。体内から響く心臓の音を聞きながらなんとか呼吸を整えようとしていると、不意にポツポツと地面の色が変わるのが見えた。


「あ、あれ、うそ、雨?」

「ああ、狐の嫁入りだね」


空は青く晴れているのに雨が降り注ぐ。狐の嫁入り。お天気雨。きらきらと太陽の光が反射して、遠くに七色の虹がかかるのが見えた。

ふと気になって立ち上がると手のひらに雨粒を受ける。やっぱり雨に、なぜか元同胞たちの神気が混じっている。どうやら私の水晶宮でどんちゃん騒ぎでも始めたらしい。

なにかいいことでもあったのかな。


「私も、いいことあったよ」


小さく小さく呟くと、右手が大きな温もりに包まれた。


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