何度も何度もけたたましい音が何処からか鳴り響いている。うるさい。耳障りで頭が割れそう。目を強く閉じたまま音が鳴る方へと手を伸ばすと、バシンッと叩いて私は静けさを取り戻したはず――――だった。


「んん…う……?」


まだピロピロと音が鳴っている。もそもそと手を動かして携帯電話を引き寄せるとなんとか瞼を抉じ開けて画面を目に映す。そこに表示されていた名前に、少しだけ意識が持ち上がった。


「………もしもし、すぐる…?」

『あ、おはよう』

「ん…おはよう……どしたの?」

『今日はまだメールがなかったから、起きてるかなと思って。金曜は一限からだっただろう?』


休講になってたならごめんね、という傑の言葉がぼんやりとした頭の中に流れ込んでくる。金曜日。一限。金曜日。一限…一限……。


「っ、わああぁあああ!!」


バチンと頭に稲妻が落ちたような衝撃と共に目が覚める。布団を蹴とばすように起き上がると枕元で憐れに転がった目覚まし時計を掴んだ。普段ならあと十分で家を出る時間。嗚呼ごめんね、一生懸命起こそうとしてくれていたのに思い切り叩いちゃって。混乱しきった頭で時計を撫でる私の耳に、くすくすと軽やかな笑い声が響く。


『大丈夫? 間に合いそう?』

「ギ、ギリギリ! 起こしてくれてありがとう!」

『うん。なんとなくそろそろ寝坊しそうな気がしたんだよ』

「いつもいつもすみません……」


昔から朝には滅法弱い。そのせいで子供の頃は母に幾度となく怒鳴られ、中学生に上がる頃にはとっくに私の背を抜かした傑に週に数回布団を力づくで引き剥がされるようになり。最近は寝坊の回数は減ったものの、定期的にこうしてモーニングコールで飛び起きるようになっていた。携帯を耳と肩の間に挟みながら、もぞもぞとパジャマ代わりのTシャツから腕を抜く。


「傑、今から学校?」

『いや、教室で担任待ってるとこ』

「…………なんかもう、ごめんね」

『ふふ、気にしないで。むしろ朝から声が聞けて嬉しいくらいだから』


端々に甘さの滲んだ声音はきっと気のせいなんかじゃない。耳の後ろがじんわりと熱くなる。名残惜しさを感じながら、じゃあ急いで用意するねと伝えれば、電話の向こうで傑はうんと頷いて。


『梢絵さん、行ってらっしゃい』


行ってきます、と返した私の声は上擦っていなかっただろうか。パチンと携帯を閉じながら中途半端に首に引っ掛かったシャツの中で強く瞼を閉じる。あの声でまだ呼ばれ慣れない私の名前が熱く燻っている気がした。


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いつもより電車は二本遅れてしまったけれど、無事始業前には講義室に到着した。季節は夏に片足を突っ込んでいるせいで、早足で急いだ背中がじとりと汗ばんでいる。階段状に並んだ座席に目を向けると、いつもの場所から小さく手を振る友人が見えた。


「おはよー。今日はいつもより遅いからお寝坊さんかと思ってた」

「せーかい。危うく自主休講するとこだった」


軽く言葉を交わしながら座席についてルーズリーフとペンケースを出している間に、教授がやってきて講義が始まる。講義室全体が暗くなりスクリーンに映し出される映像を見ながら、私はぼんやりと肘をついた。

――私や、それから美々子や菜々子は、呪霊と呼ばれる存在が見えるんだ。

傑からそう説明を受けたのは、私と傑の関係性が変わり、年が明けた頃のことだった。元々私は傑よりも早くから知っていたし、傑も私がある程度は察している前提で話してくれたと思う。

ただあの子の口から直接その話を聞き、知識≠フ中には存在しなかった呪術師になるまでの経緯などを聞かされたのはそれなりに衝撃だった。とはいえ私を怖がらせないためか、それとも様子を見ながら少しずつ話していくつもりなのか、ほとんど表面上のことしか聞いていないけれど。


「…………ね、ね、梢絵」

「なに?」

「今日の夜、合コン行かない?」

「………先輩と別れたの?」


友人の密やかな声に眉を寄せてちらりとだけ視線を向ける。彼女は唐辛子と漢方を同時に飲み込んだような表情でこくりと頷いた。


「別れた。就活がうまく行ってないからって八つ当たりばっかりされて、もう無理ってなってさ」


なるほどね、と頷いたところで教授の話が始まって口を閉じる。レジュメに書き込みながら、就活か、と考える。私が元々この東京の大学を選んだのは少しでも傑の近くにいるためだ。

そして傑がもし呪術師をやめる選択をしてくれたら安心して支えてあげられるように、大卒の資格を手に入れて安定した企業に就職したいと思っていた。去年の十二月までは。

今の傑は呪術師として生きる道を選んだ。彼≠ニはまた違った道を。私も改めて将来のことを考え直さなければならないかもしれない。


「で、行く?」


講義の終了が告げられると同時に前のめりに再度尋ねられる。なんだっけ。ああ、合コンの話か。首を振ると、彼女は拗ねたように唇を尖らせた。


「そういうの好きじゃないって知ってるけど、一回くらい! ね! 私の憂さ晴らしに付き合うと思ってさあ…!」

「ごめん、今日は実家に帰るし…」

「じゃあ今日じゃなくてもいいから!」

「そもそも彼氏いるから合コンには行かないよ。ご飯なら付き合うけど」


今日は金曜日。講義が終わったら妹たちの顔を見る為に週末は実家で過ごす予定だ。傑は任務だって言ってたから残念だけど。そんなことを考えながらペンケースを鞄に仕舞った私は、友人がやけに静かなことに気が付く。見れば彼女はぽかんとした顔を私に向けていた。


「…………………待って?彼氏できたの?いつ?初耳ですけど?」

「そうだっけ?でもそういうことだから、ごめんね」

「合コンはもういい!許した!でもその話をもっと詳しく!」

「うん、またね。次の講義室遠いから、もう行かなきゃ」

「絶対絶対聞き出すからね


興味津々といった彼女の声を背に受けながら講義室を後にする。廊下に溢れ、流れていく学生たちの波。中学や高校と違って同学年であっても知らない顔が多い。

中高の時は、同級生は当たり前のように私が傑を大切に想っていることを知っていた。けれど大学進学で地元を離れてから、新しくできた友人たちには弟がいるくらいのことくらいしかきっと話していない。意識して、というよりは話す必要性を感じなかっただけだけれど。

友人に彼氏のことを話していなかったのは単にタイミングがなかったというのもあるけれど、どう話すべきかわからなかったというのも否めない。血の繋がりはないとはいえ、姉弟として育った人と付き合っていると聞いて不快に思う人もいるだろう。家族以外の人間にどう思われようがどうでもいいと言えばいいのだけれど、不要な摩擦は避けたいのも事実だ。うーん、どう話そうかな。

校舎を出て中庭を抜けながら思案する私の耳に、今年最初の蝉の鳴き声が響いた。


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「ただいまぁ」


実家の玄関扉を開けて居間に聞こえるように大きな声で呼び掛ける。段差に腰掛けながら靴を脱いでいると、ガラリと勢いよく扉を開ける音とぱたぱたと廊下を駆ける足音が聞こえた。振り返ろうとすると、それよりも少し早く視界が覆われて暗くなる。


「だーれだっ」


目元に触れる柔らかな温もりと耳に心地よく響く明るい声。自然と口元が緩んでしまう。


「その声は菜々子!」

「ぶぶーっ! はずれー!」

「……美々子、でした」


パッと視界が光を取り戻して振り返ると、きらきらと満面の笑みを浮かべる菜々子とちょっと上目遣いに照れくさそうに笑う美々子。そうかな、とは思っていたけれど美々子が私の目を手で覆って菜々子が喋っていたようだ。


「ただいま。菜々子、美々子」

「おかえりっ、おねーちゃん!」

「おかえり、なさい…」


ぎゅーっと抱き着いてくる二人を抱き締め返しながら小さな頭を撫でる。居間のほうから顔を出す母の姿が見えて、三度目のただいまを口にして私は立ち上がった。


「おかえり。傑は?」

「メールしたじゃん。バイトだって」

「あら、そうだった?」

「うん。おかーさん、今週はおねーちゃんだけって言ってた」

「……言ってた」

「もー。来週は傑も帰ってくるから、忘れないでね」


あちゃーという顔をする母に苦笑しながら、フローリングの上に鞄を置いてファスナーを開く。中からぬいぐるみや流行りの女児向けアニメグッズを取り出すと、目を輝かせる二人。


「はい、お土産」

「わーい!可愛い!」

「……ありがと」

「どういたしまして。今度お兄ちゃんにもお礼言ってあげてね」


お土産はこの前、傑と二人でゲーセンに行ったときの戦利品だ。といってもゲームが苦手な私が取れたのはコアラでお馴染みのチョコ菓子だけだったのだけれど。

ちょうど夕方の子供向け番組が始まって、おもちゃを抱えたままテレビの前に鎮座する二人。しっかり画面から距離を取っているのは母の教育の賜物だろうか。我が家に来てからあと少しで一年になるけれど、すっかり遠慮の影もなくなっている姿に目を細める。


「お母さん、今日の夕飯なに?」

「焼肉なんだけど、傑も帰ってくると思い込んでお肉買い過ぎちゃった」

「あらま」

「お父さんが帰ってくるまでまだ時間あるし、先にお風呂入っとく?」

「ん、じゃあそうしよっかな」


画面に釘付けの二人の後ろ姿を眺めながら、氷の揺れる麦茶を一気に飲み干した。


「まだ…あそびた……」

「うん、また明日ね。今日はもうねんねしよ」

「うー……」


先に寝落ちた菜々子の横に、ぬいぐるみを抱えたままぐずる美々子を寝かせる。薄手の布団を掛けて隣に寝転ぶと、瞼をほとんど落としながらも不満そうな顔をする美々子の頭を撫でる。数分もしないうちに静かに響く寝息。頬にかかる細い黒髪を避けてやりながら、あどけない寝顔をじっと見つめる。

―――呪術師が、もっと生きやすい世界にしたいんだ。

静かな声音で紡がれたその想いは、とても言葉を選んで形にしたことがわかった。傑の薄く伏せられた瞳には、呪術師として生きる中で喪った人や傷付いた人々が映っていたのかもしれない。美々子や菜々子もそのうちの一人だということを、私は知って≠「た。

時々、いや、頻繁に考えてしまう。理子ちゃんのことを、灰原君のことを、そして美々子や菜々子のことを傑に伝えておくべきだったんじゃないかと。伝えていたら全部救えていたかもしれない。傑にあんな顔をさせることはなかったかもしれない。可愛い妹たちにつらい思いをさせることはなかったかもしれない、なんて。

何度も何度も悩んで、口を閉ざして、時が過ぎては罪悪感に苛まれる。それでも傑の横に立ちこれで良かったんだと自分に言い聞かせて、さらに口を噤む。きっとこの世界ではまだ彼≠ェ家族と呼んだ人たちが苦しんでいるのに。

ごめんね。

たくさん傷付いただろう美々子の頬を撫でてから起き上がり、大きく寝返りを打った菜々子の布団を掛け直す。私は全てを救うスーパーヒロインにはなれないし、なる気も最初からなかった。ただ私はどんな形であれ傑の笑顔のためだけに生きて、この秘密は墓場まで持って行く。愛ほど歪んだ呪いはない、という彼の親友≠フ言葉の意味を今なら理解できる気がした。


「梢絵、コーヒー淹れたわよ」

「うん、ありがとう」

「二人共お姉ちゃんが帰ってくるとはしゃいじゃって、なかなか布団に入らないわね」

「傑がいたらもっと大はしゃぎだから、寝ちゃうのも早いんだけど」


傑とは体を使って遊ぶことが多いからか、夕食時には疲れてうとうとしていることも少なくはない。ダイニングテーブルに座りながら牛乳多めのコーヒーを飲んでいると、風呂上がりの父が冷蔵庫からビールを取り出しながら振り向いた。


「傑はいつもバイトで忙しそうだけど、大丈夫なのかい?」

「去年はしんどそうだったけど、今年は友達と一緒に張り切ってるから心配いらないよ」

「そっか。まあ、あの子にはお姉ちゃんがいるからあんまり心配してないんだけどね」


私の正面の席に座りながらプシッと缶を開ける父。両親に傑との交際は早い段階で打ち明けていた。さすがに母はお茶を噴き出して噎せ、父も珍しく神妙な顔はしていたけれど、特にあれこれ追及されることなく私と傑が決めたことならと頷いてくれた。

それからも変わらず二人は私をお姉ちゃん≠ニ呼んでくれる。それは両親と妹たちを混乱させないためでもあったし、私と傑の希望でもあった。もう傑の姉としての自分には戻らないけれど、できれば変わらず父と母の娘でいたかったし、美々子と菜々子の姉でもいたかったから。都合のいい願いだったかもしれないけれど。


「………ねえ」

「なに?」

「二人共、私と傑のこと、本当にあんまり気にしてないの?」


私たちは実の姉弟だと思って十数年生きてきたのだ。法律上は問題ないとはいえ、心情的な面で何も問題ないとは言い切れなかったし、今後周囲が私たちのことを知ればあれやこれやと言ってくる人もいるだろう。

なのにあまりにも二人の態度が変わらないから、つい口をついて出てしまう。言ったあとに聞いてどうするんだと後悔するものの、時は戻らない。気まずさを誤魔化すようにコーヒーを啜りながらちらりと様子を窺えば、父の隣に座った母は『ハア?』とでも言いたげな目で私を見ていた。


「むしろあんた、お母さんとお父さんに反対されたらどうするつもりだったの?」

「いや、まあ…正直反対されないような気はしてたから、考えてなかったけど…」

「ふうん?」

「ほら、傑のことはいっつも私がいるから大丈夫でしょって感じだったし」


さっきの父しかり、昔からそうだ。放任というか、ある程度私と傑の自主性に任されていたというか。だから傑と恋人になったことも反対されるとは思わなかったけれど、それでも思う事の一つや二つはあっても可笑しくはない。考えが纏まらないままモゴモゴとしてしまう私を見て、母は今度こそ大きく溜息を吐いた。


「あんたって子は、わかってるんだかわかってないんだか」


そんなぼやきと同時に母の手が伸びてきたかと思うと、バチンと額に走る衝撃。痛い。ぱちぱちと瞬く私に、母は思い切り呆れた表情を向ける。


「傑にはあんたがついてるから心配してないけど、あんたにはお父さんとお母さんがついてるんだからね」

「うんうん。お母さんの言う通り、変な心配はしなくてもいいんだよ」


───両親はもちろん、傑も知らないことだけれど、私が人生を歩むのは二度目となる。一度目の記憶はもうほとんどぼんやりとしていて思い出すことは少ない。それでも周囲の人間よりはよほど多くのことを理解できていると思っていた。今、この時までは。

私が姉として傑を案じていたように、両親も私を案じていることを、ようやく理解するなんて。


「……もー。お母さんもお父さんも、大好き」

「傑の次にかい?」

「まさか。美々子と菜々子の次に決まってるでしょ」

「それはしょうがないなあ」

「もちろんお母さんの方がお父さんより上でしょ?」

「それもしょうがないなあ……」


昔から何一つ変わらない両親の温かい声音。指で弾かれた額を擦るフリをしながら、私はしばらく顔を上げることができなかった。


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実家でゆっくり過ごしたあと、また慌ただしい日常へと戻るための日曜日。渋谷駅で降りるといつも通り大勢の人々で賑わっている。せっかくだし服でも見て帰ろうかな。そんなことを考えながら信号待ちしていると、ふと隣の女子高生たちがどこかを見てそわそわしていることに気が付く。釣られるように彼女たちの視線を辿った私は、思わず三度見した。

カフェに並ぶ列から頭一つ飛び出た長身の少年がやたらと目立っている。まさかと思ってそろりと様子を窺ってみれば、その隣で携帯をいじるボブヘアの少女。二人共この時期にはもう暑そうな長袖の学生服を身に纏っている。
まさか。ほとんど確信しながら、けれど半信半疑で、そっと私は少年の方に声を掛けた。


「あのー…五条悟くん…だよね?」


ん?と振り返る白髪の少年は、丸いサングラスのせいで瞳の色はわからないけれど、以前見た写メの少年と間違いなく同一人物で。写メ見た時もとんでもない美形だなとは思ったけれど、実際に生で見ると私なんぞが話しかけてすみません感すらある。

傑よりも少し高いところから私を見下ろす少年と、一拍遅れてやや怪訝そうに振り返った少女。多分恐らくきっと家入硝子ちゃんだ。なんだろう、街で見かけた芸能人に声掛ける感覚ってこんな感じなのかな。やばい、変な汗出てきた。


「ええと、急に話しかけてごめんね。私、傑の…姉、だった者なんですが」


つっかえながらやや不自然な言い回しでそう伝える。私の顔を見ながら二人が「あ、」と声を上げたのはほとんど同時だった。


「なんかすげー見覚えあると思ったわ!実物じゃん!」


実物じゃんはこっちの台詞である。邪気のない笑顔が直撃して眩しい。目を細めながらも私は首を傾げた。


「私の顔、知ってたんだね」

「そりゃ傑の携帯の待ち受け、いっつもおねーさんだったし。あ、元おねーさんって呼んだ方がいい?」

「それ受け取り方によっては失礼だろ」

「あはは、普通にお姉さんで大丈夫だよ」


変に気を遣わなくていいよ、と笑いながら硝子ちゃんとははじめましてと挨拶を交わす。よかったら一緒にお茶させて欲しいとお願いすると、頷いてくれる二人。カウンターで先に注文と会計を済ませると、窓際の席を囲む。


「ご馳走になっちゃってすみません。ありがとうございます」

「お礼を言うのは私の方だよ。二人にはお世話になりっぱなしだったから」

「そういえばあの双子のガキんちょは元気?」

「うん。最近はもうお転婆がピークで、私と傑の二人がかりでも手に余るくらい」


マジで?とケラケラ笑う五条くんの前に並ぶケーキとパフェ。そしてその手はアイスコーヒーに大量のガムシロップを注ぎ込んでいた。やっぱり私の知識と変わらず甘党なんだねと現実を再認識するべきか、それともそんなに糖分を摂取しても太らないであろうことを羨むべきなのか。

なんとも言えない感情を抱きながら私の目の前に並んだザッハトルテとミルクティーのケーキセットに携帯のカメラを向ける。傑が帰ってきたらこの写メ見せて二人に会ったことを話さなくちゃ。


「お姉さん、よかったら一枚いいですか?」

「あ、うん…!」


気分は芸能人と写真を撮るしがない一般人の気分だ。どぎまぎしながら硝子ちゃんの構える携帯のレンズを見つめながら彼女の横に身を寄せる。カシャーと音が鳴って撮り終えると、硝子ちゃんはカチカチと慣れた指先で携帯を操作し始めた。


「お姉さん、この写メあいつに送ってもいいですか?」

「傑?うん、別にいいけど…」

「傑に送るなら俺と撮った方が面白くね?」

「だからお前はダメなんだよ」

「ええ〜?」


すっとぼけながらアイスを掬ったスプーンを咥える五条くん。五条くんだって彼女が他の男の子とのツーショット送り付けてきたらイヤでしょ、と口にしかけて濃厚なミルクティーと共に飲みこむ。五条くんの恋愛観に踏み込むのはなんか怖い。

というか今の状況で平常心装うのに必死だ。仕方ないじゃん、私にとって二人は傑と違って次元の違う人という感覚がまだ強い。


「硝子、なんて書いて傑に送るの」

「夏油は来ないの?って」

「煽ってんじゃん!島根から爆速で帰ってくるんじゃね」


そっか、島根か。遠いなあ、疲れてないかな、早く帰ってきて欲しいな。チョコの風味を味わいながらそんなことをぼんやりと考えていると、パチンと携帯を閉じる硝子ちゃん。

カフェの中でほどよく聞こえる人の声。時折響く陶器と金属の触れる音。非日常と日常の狭間のような感覚の中で、どこか目を逸らしていた不安感が強くなる。気が付けば私は白い皿の上にそっとフォークを俯せていた。


「……五条くんと硝子ちゃんから見て、傑は最近元気そう?無理してたりしないかな」


私の前での傑はいつも元気、というわけでもなくもちろん疲れている時もあるし辛そうにしている時もある。でも去年のように思い詰めている様子はない、と思うのだけれど。

傑のことを誰よりも見ている自信はある。だけどだからこそ、全てを理解してあげられるわけではないこともわかっていた。心配性すぎると呆れられるかもしれないと思いながらも尋ねれば、硝子ちゃんはひょいと肩を竦めた。


「うざいくらい元気ですよ。むしろネジ二、三本ぶっ飛んだせいで担任の胃の方が心配です」

「えっ」

「元々アイツはいい子ちゃんぶりすぎだったんだよ。あれくらいでちょうどいいんじゃね」

「ネジ穴しかないやつから見たらそうかもね」

「いや俺でも一本くらいは締まってるだろ」


軽く笑い飛ばして生クリームたっぷりのスポンジ生地を頬張る五条くん。担任っていうと夜蛾先生で間違いないだろうけれど、一度菓子折りでも送った方がいいんだろうか。真剣に悩みかけていると、五条くんはもぐもぐと咀嚼しながら行儀悪くフォークの先を私に向けた。


「おねーさん、俺たちが呪術師やってるの知ってるんだよな? そんなにアイツのこと心配なの?」

「それはもちろん…。今だって怖い思いしてないかなとか、怪我でもしていたらどうしようとか…心配だし不安だよ」


もちろん傑が彼≠ニ同じように呪術師として強いであろうことはわかっている。それでもどうしても消えない不安があった。

ふと気を抜けば脳裏にチラつく額に縫い目のある姿。いつかあの魔の手が傑に伸びてしまうかもしれない。もしかすると、今、この時。いつでもそんな不安が胸に巣食い、時折膨れ上がって眠りを浅くさせた。傑は彼≠ニは違う道を歩み始めている。だから大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせることしかできなくて――。


「ぶはっ!」


足元から這い上がるような闇を吹き飛ばしたのは、一つの笑い声だった。顔を上げれば五条くんがフォークを持ち上げたままぷるぷると震えている。


「く、くく…やべ、ツボった…っ」

「…………五条くん?」


呆ける私をよそにひとしきり笑うと目尻に滲んだ涙を拭う五条くん。ずれたサングラスの隙間から面白そうに私を見る彼の瞳は、ただの碧眼というにはあまりに青い輝きを放っていた。ひゅんとフォークの先が意味もなく宙を泳ぐ。


「おねーさんは本気でアイツのこと心配してんだろうけど、無駄な労力だからやめとけば」

「え…」

「アイツが呪霊とか呪詛師にどうにかされるなんて、こっちの世界で思ってる奴いねーよ」


その言葉を肯定するように、静かにアイスコーヒーを飲んでいた硝子ちゃんがこくりと頷く。五条くんは私の顔を覗き込むように身を乗り出して、ニッと笑った。


「傑より強いのなんて、俺しかいねえから」


自信満々に言い切ったかと思えば、すぐにパッと身を引いて再びケーキにフォークを突き刺す五条くん。ぱくりと咥えたかと思えばすぐにスプーンに持ち替えて溶けかけたバニラアイスを掬い上げるのを、私はどこかふわふわと浮いたような感情で眺めていた。

なんだか嬉しいような、なのに泣きたくなるような。不思議な感覚に戸惑いを覚えながらも、私は伏せていたフォークを再び手に取った。



おねーさんまたね、とひらひら手を振る五条くんと硝子ちゃんと別れた私が家に帰ると、窓から差し込む夕日で部屋が茜色に染まっていた。帰りに寄ったスーパーで買ったものを冷蔵庫に片付けてから、ベランダに干していた洗濯物を取り込んでいるとガチャリと鍵を回す音が聞こえる。


「ただいまー」

「あ、おかえり」


取り込み途中の洗濯物を片手に網戸を閉めながら振り返ると、ごそごそと玄関で靴を脱ぐ傑が目に映る。今日は元々こっちに泊まるとは聞いていたけれど、五条くんが島根だと言っていたからもっと遅くなるかと思っていた。洗濯物をいったん置いて玄関に向かえば、白いビニル袋を揺らしながら傑がにこりと笑う。


「アイス買って来たから、冷凍庫に入れておくね」

「うん、ありがとう。先にお風呂入る?」

「いや、報告ついでに寮でシャワー浴びて来たから大丈夫。たいして動いてないのに汗だくでさ…」


あの制服暑すぎるんだよ。そうぼやく傑は初夏らしく半袖のTシャツにだぼっとしたズボンを履いている。職業柄仕方ないのはわかっているだろうけれど、確かにあの制服は見ているだけでも暑い。苦笑していると、冷凍庫のドアを閉めながら傑が振り返った。


「さっきまで硝子と悟に会ってたんだって?メール見て驚いたんだけど」

「うん、渋谷で買い物しようと思ってぶらぶらしてたら偶然。私もびっくりしちゃった」


彼らを見つけた時の状況を話しながら、傑はソファに深く座り、私はその足元のラグに腰を下ろす。まだ太陽の温もりが残っているような気がするタオルを畳み始めると、傑の手が洗濯物の山へと伸びるのが見えた。話を続けながらもその手から洗濯物を遠ざけると、拗ねた顔をしながら行き場を失った手で伸びた髪を掻きあげる姿に頬が緩む。


「そういえば五条くん、すっごい甘党なんだね。ケーキとパフェ頼んで、アイスコーヒーにガムシロ六個くらい入れてたんじゃないかなあ」

「ああ…あれ、たまに見てるだけで胸やけしそうになるんだよね。というか……」


澱むように不自然に途切れる声。畳んだバスタオルを膝の横に置きながら顔を上げると、うっすら眉間に皺を寄せた傑が私を見下ろしていた。


「悟に変なこと言われなかった?」

「……変なこと?」

「例えばデリカシーないこととか。アイツ、失礼なことを言って人を怒らせるのが得意だから」

「……………………」

「待って。何言われた?私がちゃんとシメ…叱っておくから教えて」

「あ、う、ううん、変なことなんて言われてないよ!」


五条くんに特に変なことや不快なことを言われた記憶はない。ただ、傑がそれを言うのね…とひっそり思ってしまっただけだ。

私は覚えている。小学生の頃に私と下校中にからかって来た同じクラスの男の子に言い返して怒らせ、最後にはべそをかかせたことを。私は知っている。中学生の頃にはやんちゃな高校生を盛大に煽って喧嘩になり、一方的な完全試合で勝利を収めたことを。ちなみに前者は私をブラコンだとからかってきた私の同級生≠ナあり、後者はその時不良にかつあげされていたのが私の同級生の弟だった。しかもこういったことが噂で聞く限り一度や二度ではないらしい。治安が悪い。そして地元の学生ネットワークは甘くない。

相手の善悪はともかくとして、相手を煽って怒らせるのが得意なのは傑も一緒なんじゃないかな。小学生の時にすでにそんな言い回しどこで覚えて来たのって思うくらいだったのに、今やどうなっていることやら。知りたいような知りたくないような。そんなことを考えながら、依然として訝し気な顔を向ける傑を見上げてぶんぶんと首を振る。


「本当に、何にも言われてないよ。むしろ励ましてもらったくらい」

「励ます?悟が?どんなことで?」

「なんでそんな天変地異の前兆でも見たような顔するのよ。ただ…傑はちゃんと強いから、そんなに心配しなくても大丈夫って言ってくれたの」


信じられないことを聞いたとばかりに奇妙な顔をしていた傑が、だんだんと困ったようでいて優しい表情に変わる。そこに傑が五条くんに向ける信頼が見て取れたような気がして、私は目を細めて笑った。


「今さらだけど、いい友達に恵まれたんだね」

「あー、まあ…。最初はあの外見だし口も態度も悪いし、色々と常識外れでとんでもない奴だと思ったんだけどね」


思うところが多くあるのだろう。呆れたような、それでいて懐かしむような表情を浮かべる傑。その視線の先にあるのは電源のついていない真っ黒なテレビだけれど、その瞳には五条くんとの思い出が映って見えるのかもしれない。青い春を噛み締めるようなその横顔に、自然とブラウスを畳む手が止まる。でもそうだね、と呟きながら傑は振り返った。


「悟は私の自慢の親友だよ」


照れたように眉尻の下がった、くしゃりとした笑顔。何故だかほんの一瞬、時が止まった気がした。すうっと涼しい風が吹き抜けるような感覚のあとに急激に目の奥が熱くなる。気が付けば訳も分からないまま、私の両目から涙が溢れだしていた。


「えちょ、どうしたの

「ぅ……っ、わ、わかんな……っ」


ぎょっと目を見開く傑。慌てて涙を拭うけれど次から次へと零れ落ちていくそれが、私の膝の上で畳まれようとしていた黄色のブラウスをぽつぽつと色濃く変えていく。嗚咽を堪えながら両手で顔を覆うと、傑の動く気配を感じた。


「ああ、ごめん、泣かないで。こっちにおいで」

「な、んで、っ、すぐるがあやまるの」

「梢絵さんが泣くなんて、私のことくらいだろ」


それもそうだ。混乱した頭でも納得しながら、大人しく傑の手に持ち上げられて膝を跨ぐ。少しぎこちなく私の髪を撫でる手のひら。広い肩に頬を押し付けすんすんと泣きながらも、どうして自分が泣いているのかをぐるぐると考える。


「何か悲しませるようなことを言ってしまったかい?」

「んーん……むしろ………嬉しい…?安心した…のかも……」

「安心?」


自分の感情の元を辿りながら頷く。傑に宥められてゆっくりと落ち着いていく感情の波。余韻のように零れる涙を指の背で拭いながら、ぽつぽつと思い浮かぶままに言葉を紡ぐ。


「五条くんが…傑より強いのは自分くらいだって」

「……そうだね。アイツは誰よりも強いよ」

「うん。だから…なんだろう…傑も大丈夫なんだなあって……気が抜けちゃった」


傑は彼≠ニ違う道を歩み始めている。だから両親や非術師や手に掛けることも、五条くんに殺されてしまうこともきっとない。傑は私の傍にいると約束してくれたから。でも不安だった。いつか彼≠ニは別の形で命を奪われ、望まない姿にされてしまうんじゃないかと。

───傑より強いのなんて、俺しかいねえから
───悟は私の自慢の親友だよ

前世の記憶でもなんでもない、五条くんと傑の口からその言葉を聞いて、すとんと何かが落っこちた。

そっか、じゃあ傑はどこにも行かないんだ──って。

傑は呪詛師にはならなくて、両親を手に掛けることもなくて、五条くんと敵対することもない。他の誰にも傑の未来は奪われない。保証なんてどこにもないとわかっているけれど、不思議とこれだけは心の底からそうだと信じることができた瞬間だった。


「……………わかってないなあ」


まばたきと同時に零れ落ちた余韻のような涙を拭っていると、ふと耳に流れ込んだ呆れ混じりの笑い声。ついこの間、同じようなことを言われたような。そっと顔を上げると柔らかい眼差しで微笑む傑。こつん、と額が合わさった。


「私がこうして笑っていられるのは他の誰でもない、あなたのおかげなんだけどな」


額からじんわりと伝わる熱に細く息を吐き出す。これまでの人生を振り返っても、傑を守るためにできたことなんて具体的には何も思い浮かばなかった。むしろああしていたら、こうしていたら、こんなことができたらといつも自分の無力を痛感するばかりだった気がする。見殺しにしてきた命もある。墓場まで持って行くと決めた秘密もある。それでも。


「……傑、ずっと傍にいてね」

「もちろん。梢絵さんを置いて行ったりなんて、絶対にしないよ」


傑の頬を両手で包み込み、そっと滑らせる。指の間を通っていく少し硬い黒髪、指の腹に触れる耳の輪郭とひんやりとしたピアス、手のひらから伝わる私よりも高い体温。じゃれるように鼻の頭を擦り合わせ、くすりと零れた吐息が焼けた肌にぶつかって弾けた。ゆっくり、ゆっくりと瞼を閉じる。

傑がこれからも私の傍で笑っていてくれるなら。見捨ててきたものに罪悪感を抱くことはあっても、決して後悔はなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



何かが足りない。そんな感覚でふと目覚めると、部屋の暗さと感覚でまだ寝入ってからさほど時間が経っていないことがわかった。首を少し右に傾ければ、ベッドに寝そべり両肘をついた妻と目が合う。


「……梢絵…眠れないのかい…?」


寝惚けて掠れた声に彼女は目を細めてゆるりと首を振った。


「ううん、少し目が覚めちゃっただけ」


囁くような声で紡がれる嘘。声に出さないまま苦笑する。日付も変わって今日は十二月二十五日。クリスマスだ。私は毎年イブからクリスマスにかけてだけは絶対に何がなんでもどんな手を使ってでも休みを取って、妻と過ごすと決めていた。


「……さむい。こっちにきてくれ」


目が覚めた原因はこれだ。右腕を伸ばして抱き寄せれば、まるで待っていたかのように彼女はすんなりの腕の中に納まる。数時間前までは確かに着ていたはずのもこもことしたパジャマはどこへやら。己の所業を都合よく忘れながら、冷たくなった剥き出しの肩を手のひらで包む。


「あったかい…」

「そうだね」


すり、と頬を擦る彼女の柔らかい髪を撫ぜる。私の物心がついた頃には彼女はクリスマスを嫌っていた。いや、嫌うというよりも怖がっていた。幼い頃は理由を尋ねてみたこともあったけれど、ただこの時期に怖い夢を見るからと話していたような気がする。

実際最近はなくなったものの、私が高専に通っていた頃まではやつれるほどに魘されていたようだし、嘘ではないのだろう。けれど真実でもないと、いつからかわかっていた。

真実が気にならないと言えば嘘になる。けれど無理に問いただすつもりはなかった。一生彼女の口から真実が語られる日は来ないかもしれない。それでもよかった。彼女が私の傍にいてくれるのであれば。


「傑」

「うん…?」


目の慣れた暗闇の中で視線を下げる。まるで私の鼓動を確かめるかのように耳を寄せていた彼女がそっと顔を上げた。シーツが擦れる音を微かに響かせながら、彼女の存在が色濃くなる。そっと慈しむように交わる吐息と温もり。


「大好き」


身じろげば再び触れてしまえる距離で柔らかな唇が囁く。幼い頃から何十回何百回と聞いた言葉。その意味はいつしか形を変えていたけれど、不思議と声の温もりは変わらない。

私を真っ直ぐに見つめるその表情が、微笑んでいるのに何故か泣いているように見えた。右腕で抱き寄せたまま左手で彼女の頬に触れる。濡れてはいない。私の安堵を知ってか知らずか彼女は私の手のひらに頬をすり寄せ、そのまま何かを探すように戯れている。好きにさせていると探し物を見つけたのか、くすぐったさと同時にリップ音が耳に届いた。


「…可愛いことをしてくれるね」


もうこれ以上はないといつも思うのに、それでも胸の奥から溢れてくる感情。そういえば、と今年転入した学生に対して親友が放っていた言葉を思い出した。愛ほど歪んだ呪いはない。かつては疑うことなく姉だと慕っていた彼女の小さな左手を掴み、細い指を絡めとる。そして薬指に光る銀環に、先程の彼女を真似るように口付けた。


「愛してるよ」


囁けばくすくすと甘く肩を揺らす最愛の人。ゆるりとした動きから今度こそちゃんと眠りに身を任せようとしてくれていることを悟る。彼女を抱き締めて瞼を閉じながら、その言葉は自然と唇から零れ落ちていた。

おやすみ、また明日。






20220113


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