「傑、これ好きでしょ?私の分もあげる」

「こーら傑、コタツで寝ないの。風邪引いちゃうよ」

「傑は私が守ってあげるからね」

「傑、何かあったらすぐにお姉ちゃんに言うんだよ!」


物心ついた時から私の世界の中心は姉だった。非術師家系において呪霊が見える人間はおおよそ気味悪がられたり、家族に距離を置かれることがほとんどらしい。そんな話が他人事に思えるほど姉は、他の人間には見えないモノを見る私を当然のように受け入れいつも守ってくれていた。

私が呪霊を見ていると気が付くと、必ず視線を遮って大丈夫だよと言いながらぎゅっと抱き締めてくれる姉。その心臓が早鐘のように脈打っていることに気が付いたのは小学校に上がる前のことだった。

姉さんも本当は怖いんだ。その瞬間からだったと思う。私にとって姉は守ってくれる人ではなく、守りたい人へと変わったのだ。


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「いいかい、悟。呪術は非術師を守るためにある」


帳を降ろし忘れたことを怒られ、弱者に気を遣うのは疲れると不貞腐れる悟。その考えは良くないと諭すと、悟は愉快とでも言いたげな表情を浮かべた。


「それ正論?俺、正論嫌いなんだよね」

「…何?」

「ていうかそれ、傑にとっても建前だろ。本音は?」

「私の呪術は姉を守るためにある」

「聞いといてなんだけど真顔で言うなよこえーな」

「歌姫先輩にシスコンってバラしたらちょっと好感度上がったってさ」

「なんで?」


特に上がる要素でもないだろう。そもそもシスコン自体は否定しないが、私からほとんど姉の話をしたこともないのに何故ここまで認定されているのだろうか。心当たりがあるとすれば心配性な姉を安心させるためにほぼ毎日メールのやり取りをしていることと、姉の写メを待ち受けにしていることくらいだ。

携帯を開けばこの春私を追って上京を果たした姉が、東京タワーをバックに笑っている。この笑顔を守るために私は呪術師になることを決めた。そのことで姉が夏バテを拗らせるほど心配していることはわかっている。けれど例え特級レベルの呪霊に襲われても、傷一つ負わせることなく守れるくらいの力が欲しかった。

だから私は呪霊を祓い、取り込んでいく。吐き戻してしまいそうな味だったとしても。それが全てあの人を守る力になるならば。


「―――姉?お前には姉君がおるのか?」


沖縄の海を悟と同レベルではしゃぎ回っていた理子ちゃんが、不意に私と黒井さんの会話に気が付いて振り返る。ヒトデを海に戻して駆けてくる姿は、どこにでもいる普通の女の子だ。喋り方は天元様を意識させられているせいかジジイだけど。特に隠す必要もないので、携帯の待ち受けを彼女に見せる。


「ほう、優しそうな人じゃの!変な前髪も嘘吐きな顔もしとらん!」

「あのね…」

「こいつこんな顔してシスコンだからな。おねーさんに彼氏できたら殺しかねないレベル」

「悟。変な嘘を吐くのはやめてくれ」

「やりそうじゃ……」

「理子ちゃん?黒井さんも頷かないで」


引いた顔でこくこくと頷く2人を見て爆笑する悟。不眠不休で術式を展開していると知らなければ売られた喧嘩を買っていたところだ。再び海に駆け出した元気な姿を視界に入れながら溜息を吐く。誰が過激なシスコンだ。

私の知っている限り姉に彼氏がいたことはない。中学の頃に告白をされたことはあるそうだが『弟が何事においても最優先だから誰とも付き合わない』と言ったのが良くも悪くも広まっていたらしい。入学早々、興味津々で私を見に来た姉のクラスメイトが教えてくれた。どうも姉がブラコンだと知っていたクラスメイトらは、きっと目も離せないくらい儚いかもしくは可愛い雰囲気の弟だと思っていたらしい。私が噂の弟だと知った時の顔は今でも思い出すと少し笑える。

それはともかくとして、姉に恋人ができてもきっと私は気にならない。もちろんとんでもない男と付き合っているなら話は別だけど。誰と付き合おうが姉が最優先にするのは私だと知っている。そもそも姉の恋人の席に当然私は座る権利がないし、2番目以降などに興味はない。私が姉の1番であるならそれでいい。

口に出せば“そういうとこだ”と言われるんだろうな。自覚しながら灰原に沖縄滞在を延ばすメールを送る。





翌日、私と悟は任務に失敗した。理子ちゃんと黒井さんの笑顔を見ることは二度と叶わない。だが悟は“最強”になった。私の手の中に残ったのは、色褪せた沖縄土産だけ。





「………すぐる」


捨てるか迷った土産を手に、姉の顔が見たくて会いに行った夕方。子供の頃ように膝枕で微睡む私の耳に、ぽつりと消えそうな声が落ちてきた。また姉さんを心配させてしまっている。大丈夫だよ。そう言いたいのに瞼は開かない。疲弊した意識は姉の柔らかい温もりの中に落ちていく。

姉さんを守るために呪術師になった。だけど姉さんだけが無事ならそれでいいとは思ってない。

高専で悟や硝子と過ごす日々は楽しいし、灰原や七海といった後輩も可愛い。私の呪術で善良な人々や仲間を守ることにやりがいを感じる。だが一方で今回の件のように、人間の醜さを見せつけられるような形で守るべき人を失うのは堪えた。非術師が皆、姉のようであればよかったのに。


「ふふ、鼻に泡ついてる。可愛い」

「…姉さんはすぐ子供扱いする」

「私にとってはどれだけ傑がかっこよくなっても、可愛い弟だから」


夕食後に洗い物をしながら、姉が甘い顔をして笑う。でもさっきまで泣くのを我慢していたせいか少し目元が赤い。ハッキリと伝えたことはないけれど、姉はきっと私がどんなことをしているか知っている。そして姉が本当はやめて欲しいと思っていることを私は知っていた。心配させたくないと思っているのに、心配してくれることが嬉しい。悪い弟だ。

非術師の尊さと醜さなど、術師ならきっと誰でも知っている。私も分かったうえでこの道を選んだ。だから割り切れと何度も言い聞かせた。そして何度も思い出す。怖いことを押し隠して、見る力も祓う力もないのに必死に私を守ろうとしていた姉を。そんな姉を呪霊から守ると決めたんだ。

だから私は呪霊を祓い、取り込み続ける。その酷い味を誰も知らなくても、呑み込んだ全てが姉を守る力になるならば。


―――本当に、これで姉が守れているのか?


星漿体護衛任務の失敗から1年。大量に湧いた呪霊のせいで姉の顔を見るどころか、連絡さえまともにできない忙しさが続いた。その中で日に日に膨らんでいく疑念。揺らいでいく価値観。私の術師としてのあるべき姿。ありたいと思う姿。それらが頭の中をぐるぐると回って、まるで出口のない迷路に迷い込んだようだった。


「いつまで突っ立ってんの」


任務帰りにふらりと足が向いたのは、少し前に死んだ後輩と最後に話した自販機の前だった。小銭を投入したものの何を買うか決めかねる。ただぼんやりと赤いコーラを眺めていると、ふと横から伸びてきた細い指。ピ、と短い電子音のあとに缶の落ちる音が響く。


「ひっどい顔してるな」

「お互い様だよ、硝子」


ブラックのコーヒーを手に取った硝子の目の下は真っ黒だ。任務に出ることはほとんどなくとも、貴重な反転術式の使い手である彼女が暇なわけがない。コーヒーをおごった形になったことは特に気にせず彼女の横に腰を下ろす。


「すごい隈だな。徹夜何日目?」

「まだ2日だよ。そっちは今帰ってきたとこ?」

「ああ。それで明日は朝から山奥に出張」

「ふーん」


適当に相槌を打ったかと思うと、硝子が何かを探すようにポケットに手を突っ込んだ。コーヒー代返してくれるつもりなら別にいいんだけどな。右のスカートのポケット、左のポケット。それから上着のポケットに行きついたところで「あったあった」と何やら折り畳んだ紙を取り出した。


「ほら、特効薬」

「……外泊届?」

「使う予定が潰れたからあげる。書いたら提出しておいてやるよ」


白紙の外泊届と、ぐびぐびコーヒーを飲み干す硝子を何度も見る。言いたいことはわかる。正直死ぬほど姉さんに会いたい。だけどもうほとんど真夜中に近い時間だ。絶対心配させる。今の私を見たら最悪泣かせてしまうかもしれない。だから次に会いに行くときはもう少しマシな顔色になってからにしようと思っていて。

葛藤していると舌打ちが響いて、硝子が空になったコーヒー缶をゴミ箱に向かって放り投げた。だけどうまく入らずガンッと阻まれて、彼女は重い溜息を吐きながら立ち上がる。


「この世界は甘えられる家族がいる方が珍しいんだよ。この前夏バテとか言ってただろ。姉貴の飯食って治してきな。それで私の仕事を減らして休みをくれ」


どいつもこいつもシャレにならない怪我してきやがって。硝子のぼやきを聞きながら私はいつの間にかペンを握っていた。眠そうな硝子にありがとうとだけ告げて、記入を終えた外泊届を預ける。アラートが鳴らない結界外まで出ると呪霊を呼び出して飛び乗った。

1人で最強になった悟がいても、特級の私がいても、呪霊との戦いはきっと永遠に終わらない。非術師がいる限り呪霊は生まれ続けるからだ。このまま祓い続けたところで終わりはない。積み上げられていく仲間の屍。そこにもし姉が加わるようなことがあれば。そう考えるだけで手が震えて鼓動が乱れる。

ずっと前からわかっていたのだ。いくら術師として力をつけても高専に属する呪術師である以上、四六時中姉を守れるわけじゃない。もちろんいくつか手は打ってある。けれど完璧で絶対なものなどこの世にありはしない。


「傑…!」


ガチャリ。合鍵で扉を開けるとスウェット姿の姉が振り返る。みるみるうちに蒼褪めて泣きそうに歪んでいく表情。やっぱり心配を掛けてしまった。そう罪悪感を抱くと同時に、心配してくれることに嬉しさも感じてしまう。私の手を握る姉の手は、私のよりもずっとずっと小さいのに温かい。


「ほら、早く上がって。体冷えちゃってる。温かいお茶でも飲む?」

「いや…もう眠い……」


私の手を引く柔らかい温もりと、部屋の中を満たす優しい気配に肩の力が抜けていく。姉さんと一緒に寝たい。考えるよりもその欲求が頭を占めていて、気が付けば2人で寝るには狭いベッドにのそのそと潜り込んでいた。


「髪、ほどくね」

「…………う、ん…」


明かりが消えて隣に姉の温もりが滑り込んでくる。そうっとヘアゴムを外して、髪を梳くように撫でてくれる優しい指先。顔を押し付けた柔らかい胸元からとくんとくんと響く心臓の音を、微睡みながら聞いていた。どうして姉さんの傍はこんなにも安心するんだろう。


「おねがい、かえってきて」


夢と現の狭間で姉の泣いている声を聞いた。ああ、やっぱり泣かせてしまった。そう胸が痛むものの瞼を開くことは叶わない。

姉さんを守るために呪術師になったのに、そのせいで姉さんを泣かせている。姉を守るためだけならもうさっさと高専を辞めてしまえばいいのに。そして呪いが弱く少ない地方へ移り住めばいい。姉さんはきっと何も聞かずに提案を受け入れてくれるし、喜んでもくれるだろう。だけど今までそうしなかった。

ずっと私の1番は姉で、この世で最も大切な人だ。それはこれまでもこれからも永遠に変わることはない。だけどいつの間にか私には大切なものが増えていた。悟や硝子、夜蛾先生や七海。他の呪術師や補助監督。姉を守るために彼らを見捨てて去れば、私はうまく笑えなくなる気がした。

呪霊がいる限りこのマラソンゲームは終わらない。非術師がいる限り呪霊は生まれ続ける。ならば姉以外の非術師を皆殺しにしてしまえばいい。そんな考えが過ぎる時もあった。姉からは呪霊が生まれるが、それなら私はいくらでも喜んで取り込む。両親も殺すことになってしまうが、それで姉と仲間の平和を手に入れられるなら私は躊躇わない。

姉さん以外はいらない。

それは間違いなく私の本音。だけど行動に移すほど振り切ることはできなかった。姉だけ特別扱いして選んだ道に、正義も大義も語れはしない。それに私が姉を大事に想っているのは周知の事実だ。呪詛師になれば姉は間違いなく利用され危険に晒される。論外だった。

私に悟ほどの力があればあるいは。いや、それでもできなかっただろう。姉はきっと私が両親を殺めても私を拒みはしない。だけどどうしても姉が悲しむ顔は見たくなかった。ずっと心配させてばかりだけれど、本当は心配なんてさせたくない。いつも笑っていて欲しい。


“傑、大好き!”


幼い頃から変わらず向けられる、あのひたむきな笑顔を曇らせたくはなかった。


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翌朝、まだ外が薄暗い時間に目が覚めた。ゆっくりと私を抱き締める腕を抜け出して、眠る姉の顔を見て眉を下げる。頬には幾筋もの涙のあとが残っていた。瞼は腫れているように見えるし、シーツに触れれば間違いなく湿っている。かなり泣かせてしまったらしい。


「……ごめんね」


罪悪感にちくちくと胸を刺されながら、起こさないようにベッドを抜け出す。勝手にシャワーを借りてさっぱりしたころで、久々に体が空腹を訴えだした。姉さんが最大の薬だな。硝子に処方された特効薬の効果に我ながら驚きつつも、冷蔵庫を開けると見つけたのは姉お手製の肉じゃが。

いただきます。レンジで温めて時間を気にしつつも一口放り込めば、味がよく染みている。私の胃にもよく染みる。むしろ心に染みてきた。美味しい。やはり今度からはどれだけ忙しくても心配をかけるとわかっていても、泊まりに来よう。そうだ、姉がいて姉のご飯が食べられて姉と寝られれば何も言うことはないじゃないか。

ごちそうさまでした。深く手を合わせて食器を片付けると準備を整えて、最後に姉の寝顔を眺めながら布団を肩まで掛け直す。心配を掛けたまま行かなければならないのは心苦しい。あとでメールを入れておいて、時間が空いたら電話だけでも掛けよう。


「いってきます」


小さな声で呟いて姉の家を出る。まだ迷路の出口はわからないけれど光は見えた気がしていた。しかしこの時姉を安心させないまま任務へ向かったことを私はかなり後悔することになる。まさかあれほど泣かせることになるなんて。

9割私が悪いが、残りの1割は悟だ。


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やはり非術師は猿にしか見えなくなってきた。硝子の治療を受ける幼い双子の姉妹を見守りながら眉間の凝りをほぐす。


「―――どうかな。もう痛いところはない?」

「…………うん」

「すごーい…!」


ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら頷く美々子と、綺麗になった手足を見て目を丸くする菜々子。彼女たちは私が向かった任務先で、呪いの元凶として村人から虐待を受けていた。人は自分と違うものを恐れるが故に、呪術師が非術師に虐げられるのは珍しい話ではない。そう頭では理解していても、込み上げてくる殺意を姉の顔を思い浮かべて押し殺すのに必死で。悟が来なければ、正直村人全員殺してしまっていたかもしれなかった。








『あ。いたいた、傑』


まるで高専の中で探していたかのような気軽さで、ひょいと現れた悟。一緒に任務に来たわけではない。ここにいるはずのない親友の姿に柄にもなく言葉を失っていると、悟は私を取り巻く状況を見て『ふーん』と口元に笑みを浮かべた。だけど目は笑っていない。掌印を組む悟を私は止めなかった。


『大丈夫だって、誰も殺してねーから』

『…………そう、か』

『傑?』


止めなかったことにも、村に刻まれた爪痕に何も言わなかったことにも、さすがに異変を感じたらしい。2人でそのうち鳴りやまなくなるだろう携帯の電源を落とす。そして双子を連れて高専へ帰る道すがら話をした。というより洗いざらいぶちまけた。

1年前から抱えていた非術師への負の感情。仲間を失っていくことへの苦悩。上層部や今の呪術師の現状についての不満。いつもなら真面目な話をしていると途中で茶化すか煽り出す悟も、今回ばかりは真剣な顔をしていた。というより若干引き攣っていたような気もする。なんだかんだ最終的には呪術界を変えていこうという前向きな結論に纏まりかけていた。じゃあどうするかとなると『上層部脅す』『五条家の権力使う』という何とも頭の悪そうな策しか出てこなかったが。『俺が教師やるとかどう?』と言われたときには思わず笑ってしまったが、案外考えると悪くはない案かもしれない。……いや、どうだろうな。








「それで五条は?」


硝子の声でハッと我に返る。不安そうに見上げてくる双子の頭を撫でながら私は苦笑した。


「戻って早々に夜蛾先生に連れていかれたよ。指導で済めばいいんだが」

「上層部が口出してきたらめんどくさいね。まあ、アイツならそこらへんうまくゴリ押すだろ」


死人は出ていないし、状況が状況だけに夜蛾先生にはあまり厳しく詰められはしないだろう。あの担任は情がある。本来ならば私も呼ばれるところを、しがみつく双子の姉妹を見てやめたくらいだ。ただ硝子の言う通り、悟を警戒している上層部の年寄りはどう出るか。悟がああしていなければ、私は何をしていたかわからない。罪を擦り付けたようで気を揉んでいると、ガラッと勢いよく医務室の扉が開いた。


「なあ!!なんでもいいから甘いもん持ってねえ!?」


悟だ。指導だけでなく上層部とも何かしらあったのだろう、苛立った雰囲気を巻き散らしている。びくっと飛び跳ねて私のズボンを掴んだ美々子と菜々子を見て、硝子が眉を顰めた。


「でかい声を出すなよ。子供が怖がるじゃん」

「そうだね、ただでさえ悟は怖がられやすいんだから」

「それオマエに言われるのは納得いかないんだけど」


不貞腐れた様子で安い長椅子に座る悟。なんでもいいと言うから戸棚にあったコーヒー用の角砂糖を渡すと、悟は躊躇なくガリガリと齧り始めた。どうやら苛立ちの原因は糖分不足だったようだ。


「それで、お咎めは?」

「実質拳骨だけみたいなもん。それよりそのガキ共、どうすんの?」

「私の家で引き取ることにした」


あっそう、とあっさり頷く悟。実質彼女たちを救ったのは悟なのだが、態度のせいか姉妹に頼りにされているのは私の方だ。色々と考えた末に出した結論は案外あっさり受け入れられ、今手続きの準備を整えてもらっているところだった。特に姉は2人に良い影響を与えてくれると思う。

そんなことを呑気に考えていた私は、きっと頭がうまく回っていなかったのだ。立て続けに色々なことが起こったせいかもしれない。ついでに携帯の電源を落としたままにしていたのも原因の1つだろう。そんな言い訳はともかくとして、硝子が口にするまでその疑問をすっかり忘れてしまっていたのだ。


「それで、五条はなんで夏油の任務先にいたわけ?」


そういえばそうだと私がその疑問を思い出すのと、角砂糖をいまだに齧っていた悟の動きが止まったのは同時だった。あ、と間の抜けた声が響く。悟がやけに真面目くさった顔で私を見た。


「傑。おまえのおねーさん、めちゃくちゃ泣いてたぞ」


その一言だけで全てを察するまでコンマ数秒。私はおそらく生まれて初めて腹の底から怒鳴った。


「それを一番先に言え!!!」


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どうでもいい話だが、私の両親の力関係は圧倒的に母の方が上だ。そして父は今、母から雷を落とされてリビングでずっと正座させられていた。原因は1時間ほど前に姉が養子であることをうっかり話してしまったからだ。

母が言うには元々年明けの成人式あたりで話す予定だったらしい。美々子と菜々子の件があり先に伝えた方がいいかとも思ったが、今朝の電話で姉の様子がおかしかったために打ち明けなかったそうだ。まさかお父さんがこんなにうっかりしてると思わなかった。そう嘆く母の背には鬼が見えた。姉の様子がおかしかった原因である私は、こんなに大事なことでうっかりはよくないね、と言いながら鬼から目を逸らす。


「遅くなってごめんね、もうすぐホットケーキができるわよ。お父さん、正座はもういいからカメラ持ってきて。いっぱい写真撮るんでしょ?」


生地の焼き目を見ながら母がそう声を掛けると、苦悶の表情からぱっと顔を輝かせる父。けれど立ち上がりかけてすぐに崩れ落ちる。足が痺れてしまったらしい。その瞬間私は見た。姉がとびっきりの笑顔を浮かべるのを。


「美々子ちゃん、菜々子ちゃん。お父さん、足が痛いんだって。なでなでしてあげてくれる?」

「…………うん」

「はーい!」


姉さん、なんてことを。素直に頷き、言われた通りに父の足を撫でてあげる2人。痺れた足に触れられればどうなるか。父は2人の好意を無碍にできるわけもなく「あ、りがとう…っ」と言いながら悶絶していた。彼女たちがこの行為の意味に気付くのは何年後のことだろうか。視線を戻せば、姉はにこにことその光景を見守っている。


「2人共、お父さんにも慣れてくれたみたいでよかった」

「格下だってわかったんじゃない?」

「こら傑」


め、という顔をする姉さんは可愛い。ごめんねと口だけで謝る。まだ一生懸命足を撫でている双子と震えている父。彼女たちは貴重な呪術師としての素養を持っているけれど、高専に通わせるつもりはなかった。理由は姉だ。私だけじゃなく2人の心配までし始めたら姉の精神がダメになる。それだけは絶対に避けなければならない。どの口が言ってるんだと我ながら思うが。


「姉さん」

「うん?」


テーブルにフォークを並べていた姉が振り返る。物心ついた頃から何一つ変わらない人。呪術師になってから自分が能力以上に環境に恵まれていることを知った。姉が当たり前のように与えてくれる愛情が当たり前ではないと。自分のことよりも何よりも私を1番大切に想ってくれるその尊さを。きょとりと見上げてくる姉が愛おしくて目を細める。


「血が繋がってなくても、姉さんは私にとって世界一自慢の姉さんだからね」

「っ、傑ううううう!!!!」


ぎゅううっと弾丸のような勢いで抱き着いてくる姉。血の繋がりなんてあってもなくても、姉さんは姉さんだ。そんなこと言わなくても互いにわかっていたけれど、言葉にする大切さも知っている。母の“まーたやってる”という視線を感じながら、私は姉をしっかりと抱き締め返した。


「傑も私にとって世界一大切でかっこよくて可愛い弟だよ…っ」

「ふふ。うん、知ってる」


この時の私は、この関係が不変のものであると信じて疑わなかった。


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1週間後。高専に戻った私は真っ直ぐ教室に向かっていた。がらりと扉を開けば、机を挟んで向かい合い、あやとりをしていた硝子と悟が振り返る。


「おかえりー」

「ただいま。なんであやとりしてるんだ?」

「五条がしたことないって言うから」

「さすがぼんぼん」

「うっせ。傑はあんのかよ」

「子供の頃に姉さんとね」

「さすがシスコン」

「なんでだよ」


さすがにそれくらい普通だろ。赤い毛糸でできたタワーをドヤ顔で見せてくる悟に噴き出しそうになりながら、硝子の目の前に持っていた紙袋を置く。硝子は両手の間で“ゴム”を伸び縮みさせながら私を見上げて首を傾げた。


「何?」

「姉さんから、2人の服とかのお礼だって。ありがとう、助かったよ」

「いえいえ。それであの子たちは今どうしてんの?」

「いったん私の実家で暮らすことになったよ。だからしばらくはこまめに帰省することになりそうだ」


姉も私も双子を東京に連れて来る心づもりはしていたけれど、最善ではないとはわかっていた。普通の女の子として暮らしていくには両親と共にいるのが一番だ。それに東京の呪いは彼女たちが生まれ育った田舎とはレベルが違う。しかしだからと言って虐待を受けてきた彼女たちを簡単に預けるわけにもいかない。それらを慎重に考慮しつつ、相談して、2人の意思も尊重したうえで預けてきた。

さすがに私と姉が東京に戻る日は朝からぐずっていたけれど。東京に戻る道中、姉が心配して母に連絡したところ『ホットケーキ食べたら機嫌直してお昼寝中』とのことだった。妹たちの方が姉よりメンタルが強いかもしれない。安心しながらも寂しそうな姉の横顔を思い出して少しだけ笑ってしまう。


「そういえば両親がやけにあっさり養子の話を受け入れるなとは思ったんだけど、姉も養子だったんだよね」


姉も知らなかったんだけど、と何気なく流れで話した時だった。なるほどねとあっさり相槌を打つ硝子と違い、悟は何故かにやりと笑う。その煽るような表情に嫌な予感がした。


「へえ?じゃあ傑、おねーさんと結婚できんじゃん」

「……はあ?」

「血が繋がってないんだろ。だったらだぁいすきなおねーさん、お嫁さんにできるねって話」

「お嫁さんとかキモ」


硝子に同意する。悟の口からお嫁さんとかいうワードは一生聞きたくなかった。悟はいい加減、私を過激なシスコン扱いするのをやめるべきだ。そろそろ表に出てしっかり話し合うべきかもしれない。まさか血が繋がっていないと知った途端、姉をそんな目でみるわけないだろう。


「……………」

「傑?おーい」


言いたいことは山ほど頭に浮かぶのに。何故か開いた口から何も言葉が出てこない。

姉に恋人ができようができまいが興味はなかった。姉にとっての1番が私であれば、2番目以降になる恋人の存在なんてどうでもいい。血が繋がっていてもいなくても、私にとって姉は1番大切な姉に変わりなくて、姉にとっても私は1番大切な弟に変わりない。はずなのに。


――――本当に?


突然揺らぐはずのなかった価値観にひびが入る。呪術師としての価値観よりも強固だったはずなのに。ありえない。断言するが、今まで1度たりとて姉をそんな目で見たことはない。血の繋がりがないと知ってからも何も変わっていない。姉は姉だ。

なのに今、頭の中に浮かぶのはスポットライトに照らされた1脚の椅子。誰も座っていない、私には座る権利のなかった場所。だけど今の私には、そこに座る権利があるとしたら。


「………ちょっと五条」

「あー…ごめん?」


なぜか悟の小指と硝子の小指を繋ぐ赤い毛糸。その中心を硝子がライターで燃やしていた。2人の視線が私に向けられている。それでも私はただ一言、絞り出すように「焦げ臭い」としか言えなかった。


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「ねーたん、ぎゅーってして!」

「姉ちゃんどうしよう…家の鍵失くした……」

「姉さん、そろそろ起きないと遅刻するよ」

「姉さんは心配性だなあ」










『私は心の底から笑えなかった』










ヒュッ。息が詰まる感覚で目が覚め飛び起きる。真っ暗な部屋。はっはっと自分の荒い呼吸音だけが響いている。じとりとパジャマの下で汗ばむ体。ぼろぼろと涙を零しながら、私はベッドの上で頭を抱えた。


「……………あー…」


珍しいことじゃなかった。常にある不安のせいで昔からこうして時々悪夢を見る。私の大好きな傑が“彼”と同じ最期を迎える夢。現実じゃないとわかっていても、満身創痍で血塗れの傑を見るのは堪えた。少しずつ呼吸も涙も治まってきて顔を上げると、枕の横にあった携帯を開く。時刻は午前5時13分。寝直す気にはなれなくてそのまま壁にもたれかかる。

季節は冬を迎え、12月に入ってから世間はクリスマス色に染まりつつあった。私の悪夢が酷くなるのは決まってこの時期だ。12月24日。“彼”が死んでしまう日。おかげでクリスマスは大嫌いだ。

すでに傑は“彼”とは異なる道を歩いているようには思える。美々子ちゃんと菜々子ちゃんが我が家に来たことがその証だ。自惚れるなら、非術師の私が傑に心を砕いてきたことが彼の救いになれたのかもしれない。あの時五条くんに助けを求めたことが良かったのかもしれない。きっともう傑は大丈夫。そう何度自分に言い聞かせても、もう一種の癖になってしまっているのか、不安は尽きそうになかった。

そういえば私も養子だと言われた時はびっくりした。だってそんな記憶はない。ほとんど赤ん坊の時からの記憶があるのにどういうことだろう。そう思って話を詳しく聞いてみると、なんと私はへその緒がついた状態で段ボールに入れられてお父さんの通勤路に捨てられていたらしい。そりゃ記憶がないはずだわ、というかそんな記憶はまじでいらない。私はもちろんのこと、横で聞いていた傑も絶句していた。今更血の繋がりなんて関係ないけれど。傑は大事な弟で、美々子ちゃんと菜々子ちゃんは大事な妹だ。


「…………っくしゅ!」


汗が冷えてきたせいで寒い。掛け布団を肩まで引き上げる。こんな調子じゃ来年あたりからはハロウィンが近付くと別の悪夢を見ることになりそう。美々子ちゃんと菜々子ちゃん。彼女たちが死んだり傑の頭に縫い目がある夢まで見始めたら正直きつい。本格的に心が病む自信がある。

頭に縫い目のある傑はもう夢に出てきたことがあるけど。目の前でパカリとされて絶叫しながら飛び起きた。中学生の時だ。両親と傑がびっくりして私の部屋まできてその日は4人で寝たからよく覚えている。あれはもうさすがに自分のことが可哀想になった。

そんなことを思い出しながら携帯を開いて、新規メール作成画面を立ち上げる。宛先は傑。こんな朝早くにメール送っちゃダメかな。でもメールだし起こしたりはしないよね。そんな言い訳をしながらもカチカチ文章を打ち込んでしまうのは、少しでも繋がりを作って不安を消してしまいたいから。


“クリスマスプレゼント、今年は何が欲しい?”


一昨年はピアスで去年はブーツだったっけ。そんなことを思い出しながら送信完了の画面を確認して携帯を閉じる。一昨日レンタルしたアニメでも見ようかな。前世ではバトル系大好きだったけれど、今はアニメも漫画もゲームもゆるふわ癒し系のほのぼのした作品しか選ばない。

DVDの再生ボタンを押して数十分。小動物がとことこ走るエンディングを眺めていると、携帯が震えていることに気が付いた。画面を開くと午前6時8分。傑からの電話だ。


「もしもし?」

『あ、おはよう姉さん』

「おはよう。早起きだね」

『私はいつもこれくらいだよ。それより姉さんは悪い夢でも見た?』

「ちょっと目が覚めちゃっただけ。それで、どうしたの?」


傑の声を聞くと安心する。そういえば夢の中では声変わり前の可愛い声も聞いたなあ。ようやくほっと息をつけた気がしていると、傑はメールの件だけどと話を切り出した。


『今年のクリスマス、姉さんは実家に帰るんだよね』

「うん、25日は帰るよ。その前後はどうするか決めてないけど」

『じゃあ………24日、予定がまだないなら一緒に出掛けない?』

「出掛けます」


我ながら即答だった。耳が傑の言葉を聞き取った瞬間の反射である。そもそも私に傑より優先される用事なんてありはしない。電話の向こうで傑がくすりと笑った。


『美々子と菜々子のプレゼントはどうするの?5年分用意するって言ってたよね』

「んー、いくつかはもう決めてるんだけど…」

『じゃあ残りは私と一緒に選ぼうよ。父さんと母さんの分も』

「うん。傑も何がいいか考えておいてね」

『わかった』


24日まではまだ日があるから細かいことは近くなってから決めるとして、ご飯を食べるお店は予約しておかないと。お店は私の方で探しておくね、と伝えたところでだいたい話は纏まった。


「じゃあまた連絡するね」

『うん。楽しみにしてるよ、姉さんとのデート』

「っ、私も!」


えっへっへっ。電話を切ったあとにやけきった頬をむにむにと揉む。デートだって。可愛いこと言うなあ。今日からさっそく友達にリサーチしまくって傑が好きそうなお店選ばなくちゃ。ブラコン魂に気合いの火が灯る。今年はもう悪夢を見ない気がした。


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楽しみにしているうちにあっという間にやってきたクリスマスイブ。人混みの中でも背の高い傑はよく目立つ。約束の10分前の時間に改札を抜けた私は、ぶんぶんと手を振った。


「傑!」


ハーフアップのお団子頭、黒のタートルにグレーの動きやすそうなジャケットを羽織った傑が、携帯を閉じて顔を上げる。会うのは2週間ぶりだけれど元気そうでよかった。むしろにっこりと微笑む今日の傑は、かなり機嫌が良さそうに見えて可愛い。


「姉さん、早いね」

「もしかして待った?お昼ご飯はちゃんと食べた?」

「大丈夫大丈夫。さっき着いたところだし、お昼も食べて来たよ」


くすくすと笑う傑の横に並んで、あらかじめ決めておいた買い物ルートに沿って歩き出す。まずは美々子ちゃんと菜々子ちゃんへのプレゼントを買って、それからお父さんとお母さん。さすがイブとだけあって人が多いけれど傑はすぐ見つかるからはぐれる心配はなさそう。そんなことを考えながら、私はふと疑問に思っていたことを口にした。


「傑、今更なんだけど私と一緒でよかったの?」

「え?」

「ほら、せっかくのイブなんだし、お姉ちゃんより五条くんとかお友達と過ごしたかったんじゃないかなあって…」


彼女がいる気配はないし、さすがに彼女より姉を優先させていることはないと思うけれど。傑から誘われたとは言え、もしかしたらあの後五条くんとかからもお誘いがあったかもしれない。もしそうなら買い物がだいたい終わり次第、解散でもいいんだけどな。そう思って聞いてみた途端、傑はわかりやすく顔を顰めた。


「野郎2人で過ごすくらいならバイトしてる方がマシだよ」

「そ、そう?」

「姉さんとじゃなきゃわざわざ休みおど…もぎとったりしないし」


脅してもぎとったのか。言い直したわりに意味があまり変わっていないところが可愛い。やっぱりクリスマスなんて関係なく呪術師は忙しいんだろうな。さすがにサンタの呪霊はいないと思うけど。いやでも真夜中に煙突から侵入してくる赤い服のおじさんって字面だけなら恐怖の対象になるかもしれない。どうでもいいことを真剣に考え込んでいると、不意にひょいと傑が顔を覗き込んでくる。


「……もしかして、姉さんが私とじゃ不満だった?」

「まさか。傑より一緒にいたい人なんているわけないじゃない」

「よかった」


あ、今のはあざとかったな。傑は私が重度のブラコンなのがわかってるからちょくちょくそこを突いてくる。でもそれに浮かれて酷い発言連発しているとさすがにドン引きされちゃうかもしれない。ちょっとお口にきゅっと力を込める。頑張れ。普通のお姉ちゃんの皮を被るんだ。今更手遅れだとしても努力する姿勢は大事。


「最初は2人の服を買うんだっけ?」

「そうそう。最近シャンリオが好きみたいだからパジャマとかないかなって」

「そういえば子供の時、姉さんパンダのグッズいっぱい持ってたよね」

「あれはお父さんの趣味だよ…」


ある日会社の人に流行りだと教えてもらったらしく服やらキーホルダーやらたくさん買って来たのだ。2周目の人生でキャラものを着るのは避けてきた私にとってはちょっと余計な出来事だった。可愛いと褒める両親の手前そんなこと口が裂けても言えなかったけど。どうせパンダの服着せるなら傑にしてほしかった。

そんなことを思い出しながら、2人が好きなキャラのパジャマや手袋マフラー、それからぬいぐるみやショルダーバッグをそれぞれ買い込んでいく。そのあとはお父さんのパスケースと、お母さんと私で香り違いのハンドクリーム。それなりに荷物になってきたのでコインロッカーに預けたところで、私は傑を見上げた。


「あとは傑のプレゼントだけど、何が欲しいの?」

「うーん…ごめん、実はまだ決まってないんだ」

「そうなの?なんでもいいのよ?」


なんだか迷ってるように見えて重ねて聞いてみると、少し傑の瞳が揺れた気がした。なんでも、と小さく呟いている。欲しい物がないわけじゃなくて、決まってないだけなのかな。首を傾げていると、数秒の間を空けて傑は少し眉を下げて困ったように笑った。


「…やっぱりもう少し悩んでもいいかな」

「うん、いつでもいいよ。決まったら教えてね」


もしかしたらちょっと高いものだったりするのかもしれない。私の貯金で出せるくらいなら2桁万円でもいいんだけど。そんなことを考えながら時計を見る。予想以上に買い物がスムーズに進んで、ディナーの予約時間までまだ2時間もあった。それまでどうやって時間を潰そうか。


「姉さん、イルミネーション見に行かない?」

「イルミネーション?」

「あんまり規模は大きくないみたいだけど、今から行けば点灯が見られるかも」


傑が携帯を見ながらそう言う。ネットで見つけたのかな。いいよ、行こうか。笑って頷きながらも、一瞬背中がぞわりとしたのはどうしてだろう。


「やっぱり人が多いな。姉さん、はぐれないでね」

「はぐれても傑は飛び出てるからすぐ見つかるよ」

「姉さんは埋もれるけどね。イルミネーション見えそう?持ち上げてあげようか?」

「傑??」

「冗談だって」


だんだんと茜色が消えて暗くなっていく空。人々の頭の向こうにまだ光っていない骨組みが見える。時刻はもうすぐ16時30分。日没に合わせた点灯なのだろう。その瞬間に、ようやく私はさっきから胸をざわつかせる原因に思い至った。

ああそうか、どうして気付かなかったんだろう。12月24日の日没。それは10年後の“彼”の最期の始まりだった。ひゅっ、と心臓が落ちるような感覚。思わず存在を確かめるように傑の裾を掴んでしまう。傑が不思議そうに振り返った。


「姉さん?」

「あ…ごめん、暗くなってきたからはぐれたら困るなって……」

「ああそうだね。最初からこうしてればよかった」


傑が自然に私の手を握る。つめた、と小さく呟く声。寒かったわけじゃないけれど不安のせいで冷たくなってしまっていたようだ。すっぽりと覆われてしまうくらい大きな傑の手はぽかぽかとしてる。ほっと息を吐くと、そのまま傑のジャケットのポケットに一緒に吸い込まれていった。

姉弟で手を繋ぐのはさすがにどうなのかな。他人から見たらあらぬ誤解を受けてしまいそう。だけど今は離せそうになかった。ただその温もりに安堵する。大丈夫、ちゃんと傑はここにいる。


「あ、始まった」

「わあ……」


暗闇の中に光のアーチが浮かび上がる。それを合図に動き出す人の波。街路樹やアーチが青や白、ピンクといった色を放っている。綺麗。そう思いつつも意識の半分以上は傑の方へと向いていた。イルミネーションを見上げながら、時々私を見て目を細める傑。もしかしたら見られなかったかもしれない笑顔なんだ。少しでも気が緩んだら泣いてしまいそうだった。

来年も、再来年も、その先もずっとこうして一緒にいてくれたらいいのに。そう思うけれども言葉にはできなかった。傑は来年こそ五条くんや家入さんと一緒にクリスマスを過ごすかもしれない。他の友達ができるかもしれないし、そのうち彼女もできるだろう。しばらくは妹のためにクリスマスは帰省するかもしれない。だけど私から“来年もそうしようね”とは言えなかった。

来年も再来年もその先も、隣にいるのは私じゃなくていい。だからずっとずっと笑っていて。“彼”と同じ最期は迎えないで。そうじゃなくても死んだりしないで。ずっとずっと、この手は温かいままでいて。

何度もそう願いながら、ポケットの中でぎゅっと傑の手を握りしめた。


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イルミネーションのあとで向かったお店のディナーは、友人数人がおすすめしてくれただけあって雰囲気も味もとても良かった。大嫌いなクリスマスも今年は大満足だ。スキップしそうな勢いで傑と2人、私の家に帰る。今日はこのまま傑はお泊りして、明日一緒に実家に帰る予定だ。

暖房のスイッチを入れながらコートを脱いで、なんとなくテレビの電源を点ける。コーヒーでもいれようかな。そう思って振り返ったところで、ジャケットを脱いだ傑がどこかぼんやりとしているように見えて私は首を傾げた。


「どうしたの?」

「ああ…いや、これで雪が降ってくれたら完璧だったのになって思って」

「今年は暖冬だからね。雪が少ないって毎日テレビで言ってるよ」


何気なく窓に近付き、少しカーテンを開いてガラス越しに空を見上げる。反射でハッキリとは見えないけれど雲はなく、雪は降らないけれど星は綺麗かもしれない。あとでベランダから見てみようかな。そんなことを考えていると傑がすぐ後ろに立っていることに気が付いた。鏡のように反射する窓ガラス越しに目が合う。


「姉さん、今日は楽しかった?」

「もちろん!傑と一緒にいられて良かった」

「そっか。それなら私も良かった」

「…うん?」

「ほら、姉さん、クリスマスが嫌いだろう?だから少しでも姉さんに喜んで欲しかったんだ」


嫌いだってハッキリ言ったことはないけれど、やっぱりバレてるよね。理由が理由だけに少し目を泳がせながらも、傑の気持ちが嬉しくてだんだん顔がにやけてくる。10点の札を持っていたら全力で掲げたいくらいだ。私は首を仰け反らせるようにして傑を見上げた。


「ありがとう。今日は本当に楽しかったよ。傑のおかげで、人生で1番楽しいイブだった」

「……………うん」

「………傑?」


なんだかさっきから様子が可笑しい。家に帰ってくるまでは楽しそうにしていたのに。逆さまに見える傑の顔が少し歪んでいるように見える。慌てて体ごと振り返ろうとすれば、それより先に首筋に傑の右手の指が触れて、私は動きを止めた。

傑の指は私の首に掛かる細いチェーンをなぞって、ペンダントトップを指先に乗せる。傑のピアスとよく似たペンダントで、一昨年のクリスマスに互いに贈り合ったものだ。


「これ、ずっとつけてくれているね」

「う、うん、毎日つけてるよ。だって傑とお揃いだもん」

「私が他にもお揃いの物が欲しいって言ったらどうする?」

「普通に嬉しいよ」

「………指輪でも?」


傑は指輪が欲しいの?ほとんど反射的に言おうとした言葉が、一瞬の迷いを持って喉元で止まる。ペンダントに触れていた傑の右手が私のお腹に回り、左手が私の左手を掴んでいた。その男の人らしい指先が、私の左手の、薬指の根本をなぞる。その意味が私には1つしか浮かばないけれど、そんなはずはない。

首を傾げながら顔を上げると、逆に傑の顔が私の肩にうずめられる。でもその直前に見てしまった。苦しそうに歪んで、泣きそうな傑の表情を。


「す、傑、どうしたの?」

「クリスマスプレゼント、なんでもいいって言ってくれただろう…?」

「うん。ペアリングが欲しいなら今度、」

「違うんだ」

「え?」

「私はもっと……姉さんの、もっと特別が欲しい」


肩口から聞こえるくぐもった声。傑が何を悩んでいるのか、何に苦しんでいるのかわかってあげられない。お腹の上の傑の手に、私の手を重ねながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「傑は…私の特別だよ?誰よりも1番大切だと思ってる。そういうことじゃ、ないの?」

「私も、そうだと思ってた。姉さんにとって私は特別だって。でも違うかもしれないって、気付いたんだ」


違わない。間違いなく傑が生まれた時から私にとって傑は特別で、誰よりも何よりも大事な人だ。後ろめたさを持って言うなら、知っていた起こり得ることを傑に話せなかった私は、自分が1番大切なのかもしれないけれど。困惑しながら黙って傑の言葉を待つ。


「……姉さん、誰とも付き合う気はないんだってね」

「え、あ、誰からそんなこと…ああ、私の友達か……」

「どうしてそう決めてるの?」

「それは…昔から私が何より最優先にするのは傑と決めているから……1番大事にできないってわかってるのに付き合うのは失礼でしょ…?」


私の友人は私がブラコンだと知っているし、面白半分に傑にあれこれ余計なことを吹き込んだ子がいるのも知っている。私にとっては最愛の弟の命が懸かっているのだから真剣なことでも、周囲にとってはそうじゃない。そして傑にとっても。

だから彼氏作らない宣言はさすがに気持ち悪いだろうと思って、あんまり傑の耳には入れたくなかったし言いたくもなかったんだけど。ドン引きされてたらどうしよう。おそるおそる傑の様子を窺おうと身じろげば、私のお腹に回された両手にぎゅっと抱き締められる。引いては、ないのかな。


「やっぱり……」

「傑?」

「姉さんのそれって、逆に言えば、恋人の方が大事ってことだよね」

「…え?」

「恋人ができれば姉弟よりも優先させるのが当たり前。誰だってそうだ。姉さんにとってもそう。だから私を優先させるために誰とも付き合わないって言うんだよ」


ちょっと混乱してきた。ゆっくりと傑の言葉を頭の中で噛み砕く。つまり例えば今日みたいなクリスマスの約束なら、弟よりも恋人を優先させるのが世間一般的だ。友達と弟ならば、弟を優先させてもブラコンで笑い話にはなる。だけど恋人よりも優先させれば多くの人は、そんなブラコンと付き合うのはやめてしまえと言うと思う。そういう価値観の話で、私にとって弟は特別じゃないということなのだろうか。

じゃあつまり傑が欲しい“特別”ってどういうこと?傑を最優先にするために彼氏を作らないんじゃなくて―――。


「彼氏がいるうえで傑を優先させて欲しいってこと……?」

「そうじゃない」

「ええ……」


違った。私は昔から「傑が1番大事!だからごちゃごちゃ面倒臭くなりそうな彼氏はいらない!一生処女独身上等!」とあっさり割り切ってるつもりだ。だから今の傑みたいに深く考えすぎたりしない。真面目すぎるとでも言えばいいのだろうか。だから“彼”も。そこまで考えたところで私は思考を打ち切って、傑の手の甲を軽くとんとんと叩いた。


「傑、お願い。お姉ちゃん、どうしたらいいか教えて?」

「…………姉さん、引くよ」

「引かない」

「……私のことが嫌いになる」

「なるわけないでしょ。何があっても大好きよ」


お姉ちゃんの愛情の深さを舐めてもらっちゃ困る。耳元で静かに響く傑の呼吸音。この時すでに私の頭の中にはある可能性が過ぎっていた。私が最初に、そんなはずはないと、否定してしまった可能性が。


「私の、恋人になって」


そっか。最初に私の薬指をなぞった傑を思い出しながら瞼を閉じる。私のお腹をホールドし続ける手に触れれば、いつもの温もりが嘘のように冷たい。傑の全神経が私に注がれているような気がした。

傑の中には元々恋人が弟よりも特別だという意識があったのかもしれない。それが血の繋がりがないと知ったことで、この願いに行きついたのだろうか。つまり姉の“特別”になる手段が“恋人”なのであって、一般的にいう恋愛感情を私に抱いているのかわからない。形だけの恋人になるなら簡単なことだけれど。


「…あのね、傑。傑のお願いごとは、私が叶えてあげられることはなんでも叶えてあげたいと思ってる」

「……………………」

「でも恋人って、ほら、姉弟と違って…他にも色々と、ある…じゃない…?」


一般的に姉弟ではしないけれど、恋人がすることは色々ある。手を繋ぐことだってこの歳の姉弟がすると可笑しく思われるけれど、恋人では普通のことだ。傑がそういうことじゃなくて“恋人”というポジションになりたいだけなのか。それとも。

ああ私は何を考えているんだろう。脳内で思わず頭を抱えていると、不意に傑が顔を上げた。お腹に回っていた手が離れる。かと思えばその手は私の肩を掴んで、ゆっくりと私を反転させた。当然傑と向き合う形になる。

傑は静かに薄く微笑んでいた。もう後戻りはできない。腹は括った。そんな表情だったかもしれない。多分私は困り果てた顔をしていたと思う。傑の指が私の髪を耳にかけた。


「………試してみようか」

「え?」

「恋人しかしないこと。私と、姉さんで」


私の髪に触れていた指が今度は頬に触れる。頭がもう現実を処理しきれていないのか、指1本動かせない。ただ目を見張る私の顔を、ゆっくりと傑が覗き込んだ。


「今から姉さんにキスするけど」

「…へ………」

「無理だと思ったら突き飛ばして。逃げて。そうしたら絶対にもう2度とこんなことしないから」


目の前には傑がいて、後ろは窓。だけど追い詰められているわけじゃないから少し動けば簡単に避けられる。傑が私に触れているのも頬だけ。片手で引き離せる。なのに手足どころか指1本動かせない。ゆっくりと近付く傑の表情がどこか知らない人に見える。触れる瞬間、私は反射的に目を閉じていた。

ただ触れるだけ。まるで羽根が掠めたような感触だった。だけどそれでもキスはキス。唇が離れると同時にゆっくりと目を開けば、すぐ近くに傑の黒い瞳があった。


「…1回目はなかったことにできる。でも2回目は言い訳できなくなるよ」

「…………、」

「私のこと、拒絶しなくていいの?」

「わ、たしが…すぐるを……?」


頭の中は真っ白だった。だけどその言葉にだけは反射的に反応する。私が傑を拒絶するなんてありえない。例え傑が私のことを嫌いになっても、殺されることになったとしても、私が傑を嫌いになったり否定することだけはありえない。

だから反射的に小さく首を振る。すると目の前の傑の眉間にぎゅっと皺が刻まれた。頬に触れていた指が、今度は私の下唇をそっとなぞる。その表情は苦し気にも切なげにも見えた。再び近付く気配に、今度は自分の意思で瞼を閉じる。


「…………っ」


今度はしっかりと唇が重なっていた。逃げないことを、受け入れていることを、互いに確かめるようなキス。どれくらいそうしていたんだろう。不思議な気持ちになっていると、唇が離れて瞼を開ける。けれど傑の表情を見る前に私はぎゅっと抱き締められていた。なんだか自分の存在が酷く曖昧だ。私は今なんなのだろうというぼんやりとした感覚。


「…何度も何度も、一時的な気の迷いだって言い聞かせてはいたんだよ」


頭の上から聞こえてくる傑の声は落ち着いていた。後悔も後ろめたさも感じられない。ただ静かに事実だけを告げる声。いつから悩んでいたんだろう。こまめに連絡を取っていたはずなのに全然気が付かなかった。傑の温もりに包まれたまま、ただ言葉に耳を傾ける。


「今日だってこんなつもりじゃなかった。本当に、姉さんに喜んで欲しかっただけなんだ」

「うん」

「でも姉さんが悟と過ごした方が良かったんじゃなんて言うから、その方が姉さんにとっては“当たり前”なんだろうなって考えて」

「…う、ん」

「これが恋人だったなら一緒に過ごすことが当たり前で、来年のことだって考えられるのに。姉弟は親友よりも軽いのかもしれないって思ったら、もうどうしようもなく姉さんの“特別”が欲しくなったんだ」

「…………!」


ざわり。私の胸の内で何かが蠢く気配がした。ぼんやりとしていた意識が急にはっきりしだす。

“これが恋人だったなら一緒に過ごすことが当たり前で、来年のことだって考えられるのに”

私も傑に対して、来年は五条くんやもしかしたら彼女と過ごすんじゃないかなって考えていた。来年も今年と同じように私と過ごすことは、ないとは言わないけれど、当たり前じゃない。だけど恋人は違う。来年も一緒にいようね、って当たり前のように言えるんだ。もし、もしそんなことを傑が今、私に望んでくれているのなら。

ざわり。また私の心がざわめきだす。


「…………傑」

「なに?」

「来年も再来年も…10年後のクリスマスも、一緒にいてくれるの?」


ぴくりと傑の体が揺れる。私を抱き締める腕の力がさらにぎゅっと強くなった。10年後12月24日。その意味を傑は知る由もない。だけど私にとってはとても重要な日。“彼”と傑が同じ道を歩むわけじゃないとわかっていても、どうしても意識せざるを得ない日だから。うん、と傑の頷く声が私の鼓膜を震わせた。


「来年も再来年も10年後もその先だって、姉さんが嫌いなクリスマスは私と一緒に過ごそうね」


それだけで十分だった。鼻の奥がツンと熱くなって唇を噛む。行き場を失っていた両手を傑の背に回して、その体をぎゅっと抱き締める。傑が小さく息を呑む音が聞こえた。血が繋がっていなくても姉弟だとかそんなことはどうでもいい。昔からずっと私にとっては傑が全て。傑の幸せのためなら私は私の全てを差し出せる。だから。


「私の特別、傑にあげる。だからお願い…。ずっと、一緒にいてね」


--------------------------------





―――もしかして傑ってめちゃくちゃ私のこと好きだったのかな。



私は事情があるとはいえ重度のブラコンなのは周知の事実。だけど傑に対しては、こんなお姉ちゃんを受け入れてくれる姉想いの優しい弟だとしか思っていなかった。いや、ここはシスコンだったことは認める。だけどまさか私の“特別”でありたいと言い出すくらいだとは思わなかった。ぶっちゃけもう私より五条くんの方が傑にとっては大切な人なんじゃないのかなって思ってたくらいのなのに。

つまり何が言いたいかというと、全部私の責任だ。だって血が繋がっていないだなんて思わなかったんだもん。けれどそれを除いても距離感を間違えた。いや、傑の歩む道が“彼”と異なり始めていることを考えると結果的には正しかったのかもしれない。だけど純粋な姉心としては“やっちまった”としか言えない。

唐突にそう気が付いたのは26日の朝。目が覚めた瞬間のことだった。すでに私と傑の関係が変化してから1日以上が経っている。時すでに遅し。色々と、うん。


「……おにー…ちゃ……」


可愛い声がした方へと顔を向ける。実家の和室に並べられた4組の布団。その真ん中でプレゼントのうさぎのぬいぐるみを抱き締めたまま、頭の位置が逆になっている美々子ちゃん。そして私の下半身を横断するように横向きになって寝ている菜々子ちゃん。可愛い。寝相が悪いのも可愛い。

だけどその向こうで寝ていたはずの傑がいない。そういえば今日はもう戻らなきゃいけないって言ってたっけ。呪術師のお仕事、きっとそんなに休めないもんね。いつ出ていっちゃったんだろう。

ぼんやりと空いた布団を眺めていると、カタン、と物音が聞こえた気がした。慌てて2人を起こさないように飛び起きると真っ直ぐに玄関へと向かう。するとちょうど靴を履いている傑の後ろ姿を見つけた。やっぱり任務に向かうらしく制服姿だ。


「傑」

「ごめん、起こしちゃったね」

「大丈夫。それよりちゃんとティッシュとハンカチは持った?」

「……姉さん、実は寝惚けてるだろう」


玄関に段差があるせいで目線がいつもより近い。くすくすと笑う傑をぼんやりと見上げていると、その大きな手のひらがそっと私の頬に触れる。温かい。心地よくてまたうとうとと微睡みそうになる。


「ふふ。じゃあ行ってくるね。また連絡するから」

「ん、」


何も考えていなかった。無意識に1歩前に出て背伸びする。ちゅ、と優しく孤を描いた唇に私はそっと口付けていた。


「だいじょーぶ、ちゃんと責任はとるから」

「え、」

「だいすきよ。いってらっしゃい。気を付けてね」

「……あ、うん。いってきます」


ガチャ、バタン。なんか傑ぼんやりしてたけど大丈夫かな。朝は私より強いはずだけれど、昨日は実家のクリスマスパーティーではしゃぎすぎたのかもしれない。大喜びだった妹たちの笑顔を思い出しながら、ふわあ、と大きく欠伸をする。もう1回寝直そう。




このあと2度寝から目覚めた私は、奇声を上げながら布団に突っ伏して妹たちに心配されることになる。

なんでもいいって、言っただろう?

20210111 pixiv投稿


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