※花吐き病パロ(元ネタと設定は異なります)
数日前から妙な息苦しさが続いていた。任務続きで疲れているのかもしれない。早めにベッドに潜り込んでうとうととしかけた時だった。ごほっ、と発作のように突然咳き込んで目が覚める。同時に何かが込み上げる感覚。慌てて洗面台に駆け込んで激しく咳き込むと同時にごぽりと嘔吐してしまう。洗面台に広がる赤。吐血――それが一瞬頭を過ぎるけれど、鉄の味もしなければ固形物のような感覚がした。余韻のように咳き込みながらその赤色に手を伸ばす。
指先に抓んだそれは、血のように赤い花弁だった。
「おそらく嘔吐中枢花被性疾患……花吐き病だな」
「なにそれ」
聞いたこともない病名に眉を寄せる。白衣を纏った硝子はこめかみに指を当てながら、トントンとテーブルをペン先で叩いた。
「呪術師だけが罹患する奇病…というかほとんど呪いだよ。術師が体内を巡る呪力をうまく流せなくなって、澱んだ呪力が花弁の形になってこんな風に吐き出されるんだ」
「…どうすればいいの?」
「私の反転術式は効かない。ケースが少ないから今わかってる治療法は一つだけなんだが……」
そこで言葉を切った硝子が顔を上げる。よほど治療が難しい病なのだろうか。思わず背筋を伸ばして顔を強張らせると、彼女は真っ直ぐに私を見た。
「なまえ。花吐き病の原因は“片想い”だ」
「は…?」
「治療法は相手と両想いになるか、自分なりにケリをつけるか。要するにこうなるほど拗れた片想いをなんとかすればいい」
なにそれ冗談でしょう、と言いたかったところだけれど硝子がそんな嘘を吐くはずがない。呪いに一般常識は通用しないなんて今更だ。それに片想いが呪いとなるというのも納得はできる。発症したのが私でなければ、だが。硝子が少し躊躇いがちに片眉を上げた。
「これは友人として聞くんだけど…お前、五条と別れたのか?」
「別れて、ない」
恋人と別れてないのに花を吐く。これが何を意味するのか。フラスコに閉じ込められた赤い花弁から目を背けるように私はそっと俯いた。
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自宅に戻り熱いコーヒー片手にソファに座ってぐりぐりとこめかみを揉む。けほん。喉に絡んでいた花弁を吐き出し、煩わしく思いながらそれをソーサーに置く。血と紛うような真っ赤な花びら。
花吐き病は両想いになるなりケリをつけるなりして完治すれば、その証として白銀の百合が排出されるらしい。硝子が調べた限りではこの病は直接死に至るものではないそうだ。けれど発作的に咳き込むため、花弁で窒息死する可能性はある。それから任務中、呪霊との交戦中に発作が起きれば命取りになりかねない。硝子からはひとまず数日休養を取るべきだと言われ、手続きを進めることになっていた。
問題は、悟とどう話をするべきかだ。
――――なあ、俺と付き合わねえ?
学生時代に悟が突然そんなことを言い出したのは、きっと気まぐれかアイツなりに人恋しかったからだと思う。青天の霹靂のような提案だったけれど、悟に密かに想いを寄せていた私に断る理由はなかった。すぐに飽きられるかもしれない。きっと浮気されるんだろうな。自惚れそうになる私を諫めるようにそんなことを考えながら、「別にいいけど」なんて澄ました答えを返した日を私は鮮明に覚えていた。
そんな風に始まったから特に少女漫画みたくイチャイチャベタベタすることはなかったけれど、それでもそれなりに恋人らしく過ごしてきたとは思う。その距離感が心地良かったのかもしれない。気が付けばもう十年。お互いに適齢期にはなった。だけどこの先を想像できたことは一度もない。きっと花吐き病のことを打ち明けても、打ち明けなくても、私が別れ話を切り出せば悟はあっさり受け入れるのだろう。去る者を追うアイツは想像できなかった。
――ピーンポーン
鳴り響くインターホンの音にハッと我に返る。立ち上がってモニターを覗いた私は数秒固まった。悟だ。忙しいアイツがアポなしでやってくるのはいつものことだけれど、よりによって今。居留守の選択肢が一瞬頭を過ぎるけれど、私が在宅していることを疑わない様子でモニター越しに手を振っているアイツを見ていると無視はできなかった。念の為ソーサーの花弁を蓋付きのゴミ箱に捨ててから玄関に向かう。
「……………悟」
「やっ!……あれ、顔色悪いね?」
「ちょっと体調崩してて……だから悪いんだけど……」
玄関の扉を半分ほど開けて、ハッキリとは言わないものの帰って欲しい旨を伝える。目隠しのせいで表情のわかりにくい悟が、まじまじと私の顔色を見ている気がした。
「そっか、それなら仕方ないな。でもトイレだけ貸してくんない?」
「ああ、うん。どうぞ」
いつ咳き込むかわからないから少しでも早く帰って欲しいけれど、さすがにここで断るのは不自然だし可哀想だ。頷いて体を引くと悟が自分で玄関の扉を押さえながら中に入ってくる。靴を脱ぐ彼に背を向けてリビングに戻りながら、私はさっとあちこちに視線を滑らせた。大丈夫、花弁は落ちていない。悟がトイレの扉を開ける音を聞きながら、ソファに座って少し冷めたコーヒーで渇いた口を潤した。
話さなければいけないのはわかっている。私が花吐き病となった“原因”を考えるならばなおさら。だけどこんな突然に切り出せそうにはなかった。任務のことも考えると悠長にしているわけにはいかないけれど、せめて明日。悟の都合がつかないようであれば今夜でもいい。どうしても心の準備をする時間が欲しかった。
「あー、すっきりした!」
「トイレの感想なんていらないんだけど…」
満面の笑みでリビングにやってくる悟に呆れた表情を向ける。このまま帰ってくれるだろうか。お茶一杯分くらいは休んでいくかもしれない。動揺を押し隠しながら悟の一挙一動を意識していると、彼はソファの前のローテーブルを挟んで向かい側に立った。
「あのさ、ついでにもう一つスッキリさせておきたいんだけど」
おもむろに悟が宙に拳を突き出す。ゆっくりと開かれた手のひら。そこからテーブルにはらはらと零れ落ちた数枚の赤い花弁に、私は愕然とした。
「なまえ、今日硝子のところに行ったんだろ。じゃあこれ、何かわかるよね?」
どうして悟がこれを。この言い方からしてもうこれが何かわかっているようだ。私は硝子にしか話していないのに。でも彼女が勝手に悟に話すとは思えない。だけど、それならどうして。私を見下ろす悟は相変わらずの目隠しと、うっすらと孤を描いた口元のせいで感情が読めない。動揺で震える体を抑えるように私は両手を握った。
「これはお前が先週僕の家に泊まりにきたとき、ベッドに落ちてたんだよ」
「なんで……」
「なんで黙ってたかって?花弁からはお前の呪力しか感じなかったから呪詛を受けているわけでもなさそうだったし、こっちで調べてから教えてあげた方がいいかなって思ってさ」
軽い口調で告げられる事実が頭の中をぐるぐると巡る。この花弁の意味を知った悟がどう結論付けたかだなんて、聞くまでもない。悟は口元に笑みを浮かべたまま、わざとらしく首を傾げた。
「で、相手は誰?」
「……聞いてどうするの」
「相手によっては僕がお膳立てしてやってもいいよ。こんなので窒息死はさすがに可哀想だし」
悟のお膳立てなんて碌なことにならないのはわかりきっている。いや、そんなことはどうでもいい。私は呆然とへらへらと笑う悟を見上げる。睨みつけているように見えたのかもしれない。悟はひょいと肩を竦めた。
「もしかして僕がブチギレるかと思った?まさか。心変わりしてる相手に怒ったところで気持ちが戻るわけじゃあるまいし」
悟の言っていることは正論だ。他の人を好きになった恋人に怒りをぶつけたところで多少留飲は下がるかもしれないけれど、恋人の心が戻ってくることはない。去った心を取り戻したいと思わなければなおさらだろう。その理屈を頭が納得すればするほど、私の心は冷えていく。
「お前が浮気なんてできる器用な性格じゃないのも知っているしね。だからこそそこまで拗らせたんでしょ?もしかして相手は既婚者だったりするのかな。花さえ吐かなけりゃ僕のことキープしておくつもりだった?」
この瞬間私は、冷たく凍りついた心は限界を超えれば沸騰するのだと知った。冷静に話をするという選択肢が頭から消え失せる。気が付けば私はソファから立ち上がり、マグカップを悟に向かって投げつけていた。
「帰って!出て行って!」
「なにヒスってんの?珍しいね。図星だった?」
「丸っきり的外れだからキレてんのよ!!」
床やテーブルに飛び散ったコーヒーと割れたマグカップ。けれど悟は軽薄な笑顔こそ引っ込んだものの一滴も濡れていない。そりゃそうだ。悟相手にこんなこと意味はない。今更何をしても、何を言っても仕方ないなんてわかっているのに。準備もなく踏み荒らされた心のまま、叫ぶのを止められなかった。
「あんたは昔から私の気持ちなんて何一つわかってない!帰って!!」
頭が熱い。脳が沸騰したのかと思うくらいだ。思考が真っ白でただただ目の前の男にこの場から消えてほしくて仕方ない。何を考えているのかもわからない、突っ立ったままの悟を力づくでも追い出そうとソファから一歩踏み出す。その瞬間に胸の奥から込み上げた不快感に私は顔を歪めた。
「げほっ!ごほっ、ごほっげほっ…!!」
ごぽり。止まらない咳と喉を通る異物感。息苦しさから思わず蹲る。手で口を押さえてもそれを押し戻すかのように口内から溢れる花弁。それがコーヒーで濡れた床に落ちていく。苦しい。気持ち悪い。生理的な涙を浮かべながら何度も咳き込み、何度も赤い花を吐く。
「つらそうだね」
他人事のように呟いて目の前にしゃがみ込む悟。実際他人事だ。彼が悪戯に赤い花弁を指で抓んでじろじろと観察する仕草を見せるから、また頭の奥が熱くなる。
「さわらないで…かえって…!」
「ねえ、どう的外れなの?僕が何をわかってないって?」
「うるさい…っ」
悟の手から花弁を叩き落とそうとするけれど、逆に阻まれたのは私の手だった。無限によって触れる事すら許されない。明確な拒絶。ずきんと心臓が引き裂かれるように痛い。またげほりと花を吐きだすと同時にぱたぱたと涙が零れ落ちた。
「私ばっかり…。どうせ好きなのは私ばっかりよ…」
「なまえ?」
フローリングの上で花弁を押し潰すように手を握る。もう頭も心もわけがわからないくらいぐちゃぐちゃだった。こんなはずじゃなかったのに。箍が外れてもう何を口走ってしまうか自分でもわからなかった。
「ねえ、悟」
「……何?」
「あんたが最後に私に好きって言ったの、いつか覚えてる?」
「は?…そんなの覚えてないけど、わざわざ聞くってことは一年前くらい?」
「残念でした。覚えてないんじゃなくて覚えるものがないのよ」
だって私、一度も言われたことないもの。
自嘲の笑みを浮かべながら吐き出したその声は思ったよりも弱々しく掠れていた。悟がどんな顔をしているか想像するのも怖くて、ただ涙で滲んだ視界に赤の散らばる床を映し続ける。
「付き合ってから今までずっと好きの一言もない。これは私セフレと変わらないなって思ってたら、たまに恋人扱いしてくるから離れられなくなって」
学生の頃は悟の気まぐれで付き合ったようなものだから、好きなんて言われなくて当然だと思っていた。むしろ言われたら勘違いしてしまいそうで言わないでいて欲しいと思っていたくらいだ。私と悟の気持ちが釣り合っていないことなんて承知の上。けれど付き合いが長くなればなるほど欲が出てきてしまった。
悟が少しでも私のことを彼女だと思ってくれているのなら、一度でいいから好きだと言って欲しいだなんて。いっそ他の女の影の一つでも見せてくれたら諦めがついたのに。うまく隠しているのか痕跡一つ見つからないせいで、もしかしたら私だけなんじゃないかと自惚れそうになった。
情で繋がっているだけ。面倒臭くなくて都合のいい女なだけなのだろう。でももしかしたら。一度だけでいい、冗談めかしてでもいいから言って欲しい。そうしたら私はもっとうまく私を騙せるから。そんな風に私が思い悩んでいたことなんて悟が知る由もない。言っていないんだから。言いたくもなかった。
「わかってるわよ。こんなことで何年も悩んで馬鹿みたいって。でも言ったら全部終わっちゃうかもって思ったら踏み出せなくて、こんな花まで吐くまで拗らせて、どうせならこれをきっかけにケリをつけなくちゃいけないって思ってた。だけど結果は打ち明けるまでもなくあっさり心変わりを決めつけられて終わり。こんな惨めなことってある?」
あは、と乾いた笑みが零れると同時に涙が花弁を濡らす。悟が私の花吐き病を知って心変わりを疑うのは当然だと思っていた。きっと硝子もそう思ったに違いない。だけどせめて一言でも責めてくれたらよかったのに。悟は愛着の影すら見せずに私を突き放した。今更私にこんなことを言われたってどうでもよくて、きっと面倒なだけだろう。
「つまりなまえは、僕に愛されてる自信がなくて花吐いたってこと?」
そんなどうでもいいこと、わざわざ確認してなくても。口を開けば身勝手な恨み言をぶつけてしまいそうだった。愛されている自信なんてあったこともない。それを正直に認めたくもなくて私はただ静かに項垂れた。
「もういいでしょ…帰って…。あとは自分でなんとかするから」
ここまで粉々に砕け散れば、花を吐くほどの未練を抱く余地もない。全身が沸騰するような激情が過ぎ去れば、残ったのは指一本すら動かせないほどの虚しさだけだった。さっさと一人にして欲しい。今日くらい好きなだけ泣かせて欲しい。
目の前でしゃがんでいた悟が立ち上がる。けれど私の視界に映った彼の足は玄関に向かう動きを見せず、ぶれたのは私の視界の方だった。体が浮いたかと思えば何故かソファに転がされている。ぎしり、と覆いかぶさるように乗り上げてくる悟を見上げて私は激しく動揺した。何を考えているの。
「悟、なに、どいて」
「無理」
混乱したまま両手で押しのけようとするけれどびくともしない。逆に大きな片手一つで両手を押さえつけられてしまう。その瞬間に嫌な想像が頭の中を巡るけれど、いくらなんでもそんな愚行を犯す男ではないはずだ。悟が空いている方の手で目隠しを首まで下ろす。彼は青い瞳をぎらぎらと輝かせ、楽しそうに笑っていた。何を考えているのかまるでわからなくて、怖い。
「ほんとはさあ、どうしてやろうかって考えたんだよね」
「なに、」
「お前がその男とうまくいかないように仕向けようかとか、いっそ僕に縛り付けてしまおうかとか」
困ったような顔を作りながら悟は私の下腹部をすりすりと撫でる。その意味を理解する余裕もないまま呆然とする私を見下ろして、悟は目を細めた。
「ま、そんなことしても意味ないってわかってるから潔く身を引いてやるつもりだったんだけどね。完全に逆効果でウケる」
悟の端整な顔が近付いてきたかと思えばこつんと額がぶつかる。その状態でくすくすと笑うものだから吐息が吹きかかってくすぐったい。呆けた私を捉える二つの青があまりにも優しくて、空っぽになったはずの心が揺さぶられる。
「ごめんね。全部僕が悪かったね」
「え……」
「どうすれば僕はお前に信じてもらえる?」
そんな言い方じゃ、まるで。悟の言葉をようやく脳が理解し始める。期待してもいいのだろうか。自惚れてもいいのだろうか。今まで恋人として過ごしてきた日々は無意味じゃなかったと思ってもいいのかな。臆病な心が溶けて涙が零れる。それを悟が指先で優しく拭うからぽろぽろと溢れ出して止まらない。
「さ、さとるは、」
「うん、なあに」
「私のこと、どう思ってる…?」
「好きだよ。ずっと昔から大好き。女はお前だけいればいい」
砂糖を溶かしたみたいに甘い声。言葉の一つ一つに胸が震える。涙腺がぐずぐずになって大きくしゃくりあげると悟は可笑しそうに笑った。
「子供みたいに泣くじゃん。可愛いな」
宥めるように大きな手のひらで髪を撫でられる。いつの間にか自由になっていた両手を悟の首に回して私は縋るようにぎゅっと抱き着いた。
「もっと、言って」
悟との距離が縮まってゼロになる。ちゅ、と唇が触れる合間に何度も何度も囁いてくれる悟。空虚でバラバラになりそうだった心が繋ぎ合わされて満たされていく。私の中から溢れ出しそうになるそれを、短い呼気の合間で私も何度も何度も口にした。
「んぅ、」
言葉どころか呼吸もままならないほど深くなる口付け。苦しいけれど気持ち良くて嬉しくて幸せ。頭が熱と酸欠でぼんやりとし始めたところでゆっくりと悟が唇を離した。青い瞳を劣情で染めながら悟は楽しそうにペッと何かを口内から吐き出す。
それは白銀に輝く百合の花だった。
嘘でもいいからなんて嘘
20210517