26時のスクラップヘヴン


午前二時。
安っぽいスポットライトみたいな街灯に照らされ歩くイルーゾォはどうしてこんなことになっているのだろうと考えずにはいられなかった。
自分はあの日ポンペイでウィルスに感染して死んだ筈だ。
それなのにこうしてここで生きている。多分、確実に。
今しがた買ってきた牛丼の入ったビニール袋がガサガサと音を立てながら揺れるのはリアリティーを帯びているくせに、遠い異国の地でイタリア人の彼が母国語を話しても意味は通じているらしく買い物も日常生活も不便さを感じないのは現実味がない。
その違和感は自分自身なのかもしれないとイルーゾォは思う。
この世界に存在すること自体がイレギュラーなのだと解ってもここからどうすることも出来ない。
夜道を独りで歩き、安アパートの階段を昇る。外に剥き出しの階段は昇るとカンカンと靴音が深夜の街に虚しく響いた。
二階の角部屋のドアに鍵を差し込み回せば、砂を噛んだような音を立てて解錠される。この音が不愉快で仕方ない。油を注すくらいしたらいいのに、と思う。
狭い玄関には脱ぎっぱなしのパンプスが転がっていて、その先は大量のゴミ袋が占領している。そもそもここはイルーゾォの自宅ではない。他人の家に上がることすら躊躇う潔癖症気味の彼にとってここはゴミ屋敷と呼べるほどで本来ならば近寄りたくもない場所だった。
昨日イルーゾォが見兼ねてゴミを捨てたが、家主はたった一日たりとも清潔さを保てない。
イルーゾォはその事については触れずに、ゴミ袋をかき分けてリビングのゴミ袋の隙間に座る女に声をかけた。

「飯、買ってきたぞ」

「……何?」

「何でも良いっつったから、牛丼」

「えー……牛丼ならいらない」

「……お前が何でも良いっつったんだろうがよ」

「だって牛丼って……この時間にあり得ない。それに蒸気でご飯がべちゃべちゃになってるの好きじゃない」

「何なら良かったんだよ」

「イルーゾォが考えて」

「……マック?」

「絶対イヤ」

「コンビニのスパゲッティ?」

「そんな気分じゃない」

「カレー?」

「バカじゃないの?どれもイヤ!もう食べたくない!」

「そーかよ」

ナマエが勢いよく立ち上がり、まだ口を閉じていないゴミ袋へ乱暴に牛丼を捨てる。イルーゾォは食べ物を捨てる行為を見ても罪悪感だとか怒りだとか、そういう感情を何も思わなくなったのはいつからだっただろうとぼんやりと思う。
最初の頃はわざわざ買いに行かせたことも食べ物を拒否され捨てられることも腹を立て言い合ったりもしたが、段々とそれすらなくなって今では僅かにうんざりとした気分だけしか残らない。
イルーゾォの腹立たしさも嫌悪感もきっと少しずつ食べ物と一緒にこの女に捨てられたのだろう。

「……イルーゾォだって私のことなんか好きじゃないでしょ」

「……なんでそうなるんだよ……」

「ほら。また溜め息ついた。やっぱり嫌いなんでしょ」

「ナマエが嫌いだから溜め息ついた訳じゃあねぇ」

「やっぱり。溜め息、ついてるじゃん」

「……溜め息くらいつくだろ」

「そうね。そうよね」

ナマエはそれっきり黙ってイルーゾォから目を離し、塗りかけだったネイルの刷毛を動かすことに集中する。
狭い1LDKの部屋が彼女の王国だ。
ゴミ袋を積み重ね、飲みかけのペットボトルは冷蔵庫に入れられることなくリビングに置かれている。
買ってから一度も着られていないタグ付きの洋服を積み重ね、誰にも見せることなどないネイルなど丁寧に塗るのだ。
ナマエにとってここにあるものは全て必要であり不要なのだと以前死んだ魚のような目で話したナマエの顔をイルーゾォは忘れられないでいる。いらない筈のものを捨てられない気持ちはイルーゾォも何となく解る気がした。
ナマエの横顔を見つめながら、こんなにも不潔な部屋で生活している(これを生活と呼ぶならば、の話だが)のにナマエの身体から女性特有の甘い香りがすることを不思議に思わずにはいられなかった。




初めてイルーゾォがこの部屋に来た時もやはりナマエはゴミの中で暮らしていて、彼女の姿見から転げるように現れたイルーゾォにナマエは驚くこともせず「お腹、空いてる?」と一言尋ねただけだった。
その質問にイルーゾォが頷けばナマエはテーブルに置いてあったコンビニの袋を漁りながら「アップルパイ食べたいから、メロンパンでいい?」とメロンパンを差し出した。
生まれて初めて見るメロンパンを珍しそうに食べるイルーゾォの様子にナマエは笑い、やっと何者なのか質問した。
その中でイルーゾォはここが十数年先の日本であることを知り、ナマエはイルーゾォがイタリア人の暗殺者だったということを知った。
イルーゾォのスタンド、マン・イン・ザ・ミラーも何故かナマエの部屋の鏡にしか能力を使えず、見知らぬ異国においてイルーゾォは彼女の部屋と反転した彼女の部屋を自由に行き来しつつも不自由さを感じながら生活するようになった。
それはつまり他人の自宅で寝起きすることも掃除されていない部屋で生活することも、イルーゾォがどんなに嫌悪感を抱いたとしてもこのゴミ屋敷以外行く場所など何処にもないという決定的な事実である。
ゴミが散乱している部屋のひとつしかない女のベッドに寝るわけにもいかず寝起きは塵芥を許可しない鏡の世界でしているが、イルーゾォはこの女を放っておけない。
それは保護欲だとか父性だとかそういうものでは一切なく、ただこの女があまりにも無力だからだ。
殆ど外出もせずに暮らすナマエは自分ひとりでは風呂と排泄と睡眠することしか出来ないくせにその性格は尊大かつ不遜で、イルーゾォは自分よりも我が儘な態度を取る女が堪らなく腹立たしい。だがナマエに「あなたなしでは生きていけないわ」と囁かれると征服欲にも似た恍惚が襲い、イルーゾォの理性はどろどろに溶かされるのだった。
元同僚に自立している女を自らの手で堕落させ何もかも自分の好みに塗り替えて自分なしでは生きられないようにする男がいたが、イルーゾォは端からナマエのように堕落している女が手っ取り早く好きだった。
だからゴミ屋敷に住んでるような我が儘な女を引っ掛けるんだ、と同僚の声が聞こえて来るが、脆くて無力な女が自分に縋ってくる心地好さはお前も知っている筈だろうと心の中で答えれば幻影である金髪の男は一瞬で消え去る。
イルーゾォはその快感の為だけにナマエを利用しているが、ナマエとて己の快感の為だけにイルーゾォを利用している。そのことが尚更イルーゾォの罪悪感を希釈させた。
ナマエは我が儘を聞いてくれるイルーゾォのことが好きで、そのままの自分を愛してくれる人間が欲しい。それは別にイルーゾォでなくても構わないし、たまたまナマエの前にイルーゾォが現れただけだ。ナマエの我が儘に耐えられなくなって姿を消したとしてもナマエはまた別の寄生先を探すだろう。
イルーゾォとナマエは同じ位の依存度で相手を利用し、その事に気付いていながらも抜け出せない。
やはりここは地獄なのだ、とイルーゾォは思った。





閉めきられたカーテンの所為で時間の感覚が解らない中でぼんやりと目を醒ます。
イルーゾォが起きてすぐにすることは鏡越しにナマエの姿を確認することだ。童話のプリンチペッサのようにあどけない寝顔を見る時が最も安らかな目覚めであり、ナマエが起きている時は機嫌を推し量ることに慎重になる。
今日のナマエはまだ寝ていたが泣き疲れて蹲る姿に、イルーゾォは昨夜喧嘩したことを思い出した。
昨夜はどちらも感情が噛み合わない夜で、ナマエは激しくイルーゾォを罵りイルーゾォもまたナマエを強く詰った。

「私のことなんか愛してないくせに!」

「もううんざりだ!何が面白くてこんなゴミの中にいるんだ!」

「私がこんな女だから自分が優位に立てるのが嬉しいだけよ!」

「俺のことをとやかく言えるのか?ナマエだって俺のことを散々好き勝手振り回したくせに!」

「もう私たち終わりだわ!いいえ、最初ッから始まってなんかなかったんだわ!もう出て行って!こっちこそうんざりなのよ」

「そうだな!その方がいっそのこと清々するさ!」

そこでイルーゾォが鏡へ入ろうとした背後で、かちゃんと音がし、振り向けばナマエは切れ味の悪そうな鋏を構えて立っていた。咄嗟にナマエの手から鋏を奪い、部屋中のありとあらゆる刃物や凶器になり得るものを鏡の中へ許可するとイルーゾォはナマエを睨み付ける。

「死ぬにしても殺すにしてもあんな錆び付いた鋏じゃ無理だ。諦めな」

イルーゾォはそう言い残してナマエをそのまま残して鏡の中へ消えた。
ことのあらましを思い出したイルーゾォは引き入れた刃物を踏まないように気を付けながら鏡へと近付いて、ナマエのいる世界に戻る。

「……ナマエ」

名前を呼びながら涙の跡が残る目元を指の腹でなぞれば、身動ぎしてナマエが目を開けた。

「……イルーゾォ……」

「泣いて寝たのか?」

「嘘よ」

「泣いてたのが?」

「出ていかないで。駄目。お願いよ、何処にもいかないで」

ナマエがイルーゾォに抱きつく。イルーゾォはしがみつくナマエの背中に腕を回しながら、その言葉が昨夜の喧嘩の続きなのだと気付いた。

「愛しているわ、イルーゾォ。愛しているの」

「……俺も愛している」

本当は愛していないのにそんな言葉を使う馬鹿なナマエのことを愛している。──そんな気持ちには気付かないナマエはイルーゾォの言葉に心底安心したように微笑んで、捨てられないごみを指差した。

「これはわたしとあなたよ。……そう。私たちなのよ。いらないくせにいつまでも捨てられずに溜まっていくの。それでいつか押し潰されて窒息して死ぬんだわ」

「……死ぬときは俺が殺してやるよ。俺が何者なのか忘れたわけじゃないだろう?」

「ふふ、そうね。──やっぱりあなたなしでは生きていけないわ、イルーゾォ」

ナマエの囁きが福音のように響いてなけなしの理性を溶かしていく。
やはりここは地獄に一番近い天国なのだとイルーゾォは思った。
それでも。
早くここから追放されることを待ち望みながら、心地好い泥沼が底無しでありますようにと願わずにはいられなかった。






モドル


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