色にでりけり
バールのテーブルに分厚い書物を広げて背を丸めながらペンを走らせる姿を見つけて、ブチャラティは声をかけた。
「Ciao,ナマエ」
「あ……Ciao,ブチャラティさん」
「ここ良いかい?」
「どうぞ」
ブチャラティが空いている椅子を指し示すと、ナマエは慌てて本やノートを退かす。
ナマエは近くの大学に通う日本の留学生だ。ゴロツキに絡まれているところをブチャラティに助けられたことがきっかけで顔を見るとこうして何かと気にかけられている。
「また難しい本を読んでいるんだな」
「レポートの提出があって。いつも上手くまとめられないので今のうちからやらないと間に合わないんです」
「テーマは?」
「百人一首です」
「百人がかりで一人の首を取る話か?」
「物騒な発想ですね」
「ふむ、違うのか」
「恋とか季節とかを詠んだ詩のようなものですよ。ブチャラティさん」
ペラペラと本のページを捲るブチャラティにナマエは微笑んだ。何か意味ありげな表情にブチャラティが追及しようとしたところで電話が鳴った。
「すまない」
「どうぞ。気にせず」
ナマエはブチャラティの電話を聞かないように再び本へ目を落とす。
「……Pronto?……ああ、すぐ戻る」
ブチャラティが電話を切り立ち上がると、ナマエも顔を上げた。
「もう行かないとならない」
「そうですか」
「邪魔して悪かった」
「いいえ」
「ナマエに会えて良かった」
「私もです」
「Arrivederci,ナマエ」
「Arrivederci,ブチャラティさん」
数日後、公園のベンチに見慣れた丸い背中を見つけてブチャラティは近付いて、声をかけようとして止めた。
ナマエの隣にフーゴが座っていて二人で一冊の本を覗き込んでいた。
そのまま立ち去ろうとしていたブチャラティに気付いたフーゴが呼び止める。
「ブチャラティ?」
「え?あ、Ciao,ブチャラティさん」
「Ciao,ナマエ。フーゴと一緒だなんて珍しいな」
「この前のレポートのことで賢いフーゴさんの助言を頂いてました」
「僕が助言するなんて必要ないくらいですよ」
「フーゴさんにそう仰ってもらえると自信がつきます」
「僕の言葉でナマエが安心するならいくらでも」
「……悪いな、ナマエ。これからフーゴと仕事があるんだ」
「あ、はい。フーゴさん、お忙しいのにありがとうございました」
「いいえ。僕が必要な時はいつでも」
「では、私はこれで。Arrivederci.」
ナマエが公園を出ていくと、それまで浮かべていた柔らかい笑顔をすっと真顔に戻したフーゴが「それで?」とブチャラティに尋ねた。
「仕事ってなんです?今日は僕、オフですよね?」
「……悪い……」
「もしかして嫉妬しましたか?チームリーダーの恋人であるナマエに粉をかけたりしませんよ」
「恋人じゃあねぇ」
「じゃあキープしてるってことですか?」
「そういうんでもない。……おい、フーゴ。俺のこと何だと思ってるんだ?」
「天然の人たらし」
「おい」
「ふふ、すみません。さっきの仕返しです。でもね、ブチャラティ。彼女は善良な女性でいつか日本に帰るべき優秀な学生なんです。あまり関わるのは控えた方がいい。彼女の為にも、あなたの為にも」
「……そうだろうな」
フーゴの言い分は最もだ。ブチャラティはギャングでありナマエは一般人で本来ならば関わることすらない。深入りすればナマエの身に危険が及ぶことは容易に想像できる。
助けたことがきっかけだが、ナマエの姿を見れば声をかけていたのはブチャラティの方で、もしかしたらナマエからしてみればギャングである自分と話すことすら嫌だったかもしれない。
今ならまだ引き返せる。
ブチャラティはそう思い、自分の恋心に蓋をした。
それからブチャラティは暫くナマエから距離を置いた。
遠くから後ろ姿を見つければ悟られないようにその場を離れ、ナマエから声をかけられても「やぁ」と簡単に挨拶を済ませて忙しそうに別れるように努めた。
そうしている内にナマエも何かを諦めたように挨拶すらしてこなくなり擦れ違い様に軽く頭を揺らされる。
それが会釈だと気付いた頃にはもうそれすらなくなっていた。
だから背後から走ってきたナマエに呼び止められた時、ブチャラティは心底驚いた。
「……久しぶりだな、ナマエ」
「……お久しぶり、です、ブチャラティさん……」
ナマエが息を整えて、落ちてきた眼鏡を押し戻す。
久しく見ない内に少し痩せたようだ、とブチャラティは思った。
「大丈夫か?」
「すみません、どうしてもこれをお渡ししたくて」
ナマエはがさがさとバッグから閉じられた紙の束をブチャラティに差し出した。
ブチャラティがそれを受け取ると、ナマエはほっとしたように息をつく。
「これは?」
「以前話していたレポートのコピーです」
「それをどうして俺に?」
「私の、ブチャラティさんに対する気持ちが書いてあります。ご迷惑かと思ったんですが、最後に伝えたくて」
「最後?」
「はい。今月末に日本へ帰るんです」
ナマエの言葉にドキリとした。風が吹いてレポート用紙をパラパラと捲っていく。
「この国でブチャラティさんに会えて良かった」
「……待ってくれ。勝手に終わりにしないでくれ」
「……先に終わりにしたのはブチャラティさんの方ですよ。私を避けていたでしょう」
ナマエの言うとおりだ。
自分から先に離れた癖にナマエが離れていくのは嫌だなんて虫の良い話だ。
「ごめんなさい。今の言葉は忘れてください。私とブチャラティさんの間に何かが始まっていた訳でもないのに」
「……ナマエ、必ずこれを読むと約束しよう。だから帰る前にもう一度会ってくれないか?」
「……Si.」
「良かった」
「Arrivederci,ブチャラティさん」
「Arrivederci,ナマエ」
ブチャラティが任務の合間に少しずつ読んでいたナマエのレポートを読み終えたのは、ナマエが日本へ帰る二日前だった。
連絡先すら交換していなかったブチャラティはナマエの通う大学の近くのバールへ向かった。
そこへ行ってもナマエに会えるとは限らない。いつも背中を丸めて座っている席は空席だった。
そこから大学に行き学生たちに尋ね、漸くナマエの行き先が解った頃には陽が傾いていた。
ネアポリスを一望できる高台にナマエがいる。
暮れていくネアポリスの街並みと海を眺めるナマエの後ろ姿が見え、長い黒髪が潮風に乗ってなびく。
「ナマエ」
「Buona sera,ブチャラティさん」
まるでブチャラティが来ることを知っていたかのようにナマエは落ち着いていた。
「読んでくれましたか?」
「ああ。大分時間がかかってしまった」
「難しかったでしょう」
「よく書けていたと思うよ」
「ふふ、教授みたいなことを言うんですね」
ナマエの微笑みが潮騒に溶けていく。
彼女の輪郭を夕陽が縁取っていてキラキラと輝いていた。
「……ナマエの俺に対する気持ちが書いてあると言っただろう」
「Si.」
「まさか、ナマエの気持ちが俺と同じだったなんて驚いたぜ」
“今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな”
レポートを何度も読んで覚えた和歌をブチャラティが諳じると、ナマエは首を横に振った。
「……嘘です。同じな筈ないです」
「俺だって君のことを諦めようとした」
ブチャラティの言葉にナマエはぐっと下唇を噛む。
「……諦めようとして逃げた俺とはっきりケジメをつけたナマエとじゃあやっぱり同じとは言えないよな」
「最初から手が届かなかった。それだけです」
「なぁ、ナマエ。俺が逃げずに今もう一度手を伸ばしたら、君はこの手を掴んでくれるか?」
「……なにを言っているんですか?」
「好きだ」
情熱的な言葉も花束もない。ブチャラティのそんな告白を聞いてナマエの黒い瞳が揺れた。
「情けない男だと笑ってくれていい。逃げたくせに諦めきれずまだナマエのことが好きなんだ。前よりもずっと好きでたまらない」
「そんなの、私だって……」
ナマエの瞳から大粒の涙が溢れるのを受け止めるようにブチャラティは腕を伸ばしてその華奢な身体を抱き締める。
「好きです」
「俺は愛してる」
太陽が水平線に沈んでいく、その消えていく光の中で二人はキスをした。
一年後。
ネアポリス郊外の高台にある古びた一軒家のテラスには二つのデッキチェアが並んでいる。
ブチャラティはそのひとつに寝そべるように座り、海からの風をそよそよと受けていると、サイドテーブルの上の携帯電話が鳴った。
「Pronto?」
受話器越しに聞こえる懐かしい声にブチャラティの頬が緩む。
ブチャラティはうんうん、と頷きながら立ち上がって柵まで歩いていく。
そこから街へ続く街道を見下ろすと、白いワンピースが坂道を登ってくるのが見えた。
ブチャラティが手を振ると、あちらでも振り返してくる。
再会を約束し、空港まで迎えに来るよりも待っていて欲しいとナマエに言われてこうして待っていたが、ブチャラティの我慢ももう限界だった。
「もう待てないぞ、ナマエ」
バタバタと自宅を出る音に受話器の向こう側でナマエが笑うのが聞こえた。
モドル
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