朝起きた時から何だか喉が痛いと思って市販の風邪薬を飲んでから出社したが、喉の痛みは引くことはなく寧ろ悪化し昼休みを待たずに上司に促され帰路についた。
ゾクゾクと寒気の走る背中を丸め、熱のせいでぼんやりとする頭で飲み物と簡単な食事を買ってアパートへ向かう。
病院は運悪く午前診察のみの日で午後は休診である。まずは温かくして寝るに限る。
アパートのエレベーターは上で止まっているらしく中々下へ降りてこない。何度もボタンを押している内に関節痛まで出てきてふらついた。

「おっと、」

「……グラッツェ……」

「随分と顔色が悪いね。大丈夫かい?」

非常用階段へ通じるドアから出てきた男性に支えられて顔を覗き込まれ、何とか頷く。

「あまり大丈夫じゃあなさそうだが……」

「エレベーターが、来なくて、」

私の噛み合わない返事に彼はエレベーターの表示板を見上げた。そして携帯電話でどこかへ電話をかけ始める。

「フーゴ、エレベーターを下へ降ろしてくれ。……ああ、それでいい」

私がぼんやりそれを聞いていると、電話を済ませた彼がすまなそうに眉を下げた。

「不便をかけてすまない。今、降りてくる」

モーターの音と共にエレベーターが降りてきてドアが開く。

「……グラッツェ」

「お大事に、シニョリーナ」

エレベーターの中までついてきて来られたらどうしようかと思っていたけれど、彼はそう言い残して私から離れた。
内心ほっとため息をついて顔を上げる。良く見もしなかったが、ものすごい美人だった。美人だからと言ってこの男性が悪漢ではないとは限らないのだが。
取り敢えず無害そうだし今は早く眠りたい。上昇するエレベーターの壁に寄りかかって少しの間目を瞑った。




ふわり、と意識が浮上して目を醒ます。
帰宅し食事もそこそこに薬を飲み、泥のように眠ってからどれくらい経ったのだろう。
真っ暗な部屋の中、手探りでランプのスイッチを点けた。テーブルに置かれた時計が深夜の3時を指している。
たっぷり寝たお陰で熱はいくらか引いているようだ。幾分かスッキリした頭でベッドから出た。
汗をかいたので水も飲みたいし新しいシャツに着替えたい。
冷蔵庫から取ったサンペレグリノを飲み、ボトルを持ったままリビングのソファに座る。
そこには畳まれていないシャツが重なるように置いてあり、その中から一枚引き抜いて匂いを嗅ぐ。
大丈夫。これは洗ったやつだ。
汗で濡れたシャツを脱ぎ、ついでに寝るのには邪魔な下着も外す。
その時カツンと革靴の音が響いてハッと顔を上げると、どういう理屈でなのか解らないが、正面の壁から昼間ホールで会った男が現れた。
昼間と同じ不思議な柄の白いスーツを着た彼もまた私同様に何故か驚き、パッと目を逸らした。

「……その、早く服を着てくれないか」

「……え、あ、ギャア!!!!!!」

上半身もろだしだった事を忘れていた私は慌てて先程引き抜いたシャツを被る。

「まさかこんな時間に起きているとは……いや、その、すまない……」

自宅に侵入してきて明らかに不審なのは彼の方なのに、彼は私の身支度が済むまで背中を向けてくれていた。
私が一方的に彼に裸を見せたような気がしてくる。

「……こちらこそ、まさか壁から強盗が入ってくるなんて思ってないから……」

「オレは強盗じゃあない」

「…………」

「勿論君をどうこうしようという輩でもない」

「それじゃあ何が目的なの?」

「……君、隣の部屋の男が何者か知ってるかい?」

私が首を横に振ると、彼は腕組みをしながら言葉を選ぶようにして話を続ける。

「ちょっとしたガサ入れでね。君の部屋は俺にとっては通り道として都合がいい」

「ガサ入れ?あなた、警察の人?」

「君は俺の事を知らないかい?」

「生憎とテレビを見る暇もないほど忙しいの。有名人?」

「まぁこの街ではね、ある意味そうかな」

「ふぅん?ていうかさ、有名人だからってひとの部屋の中を勝手に歩かれちゃあ困るんだけど、この部屋に入ったの今夜が初めてじゃあないわね?」

「君の生活は尊重していたつもりだ」

「全ッ然尊重なんかしてないじゃあないの!!」

「そう言えば大分調子が良くなったんだな。熱はもういいのかい?」

「はぐらかさないで!あなた、名前くらい言いなさいよ!有名人は名乗らないなんて決まりでもあるわけ?」

「オレはブローノ・ブチャラティ」

「ブチャラティ……?ギャングみたいな名前ね」

確かそんな名前のギャングがこの街にいた気がするわと彼の顔を見た。微かに苦笑したその顔に私の背筋に忘れていた寒気がサーッと走る。

「……私、殺される?」

「何でそうなるんだ。言った通り、君の生活を尊重する。勿論命もな。だから黙ってこの部屋を通らせてくれ」

「ドウゾ……」

「グラッツェ。出来ればこの事は他言無用で頼みたい」

「それは勿論」

私が力いっぱい頷くとブチャラティさんは隣の部屋に面している壁から出ていった。しっかり見てもやはり理屈が解らないが解らなくていい。彼が私の命と生活を尊重すると言うのだから、私から何かするのはとても危険だ。
この時の私はそう思っていて、まだ何も知らなかった。
翌日、病院からの帰りにアパートの前で私の帰りを待つブチャラティさんの姿を見るまでは。




「チャオ!」
「私の生活に配慮して頂ける約束では!?」
「ギャングなんでな。約束はたまに違えるんだ」
「狡い!!」



答え合わせは夜更けだけ


ワンライ「尊重」






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