バールのテラス席に見知った顔を見つけてアデレードは声を掛けようと彼女の背後に回ったところで、手元にある読みさしの本に落ちた影に気付いた彼女が振り返る。
ぱちりと開いた大きな黒目がちの目がアデレードを捉えている。
「Ciao,私のコーデリア・グレイ」
「やぁ、こんにちは。アイリーン・アドラー」
互いの事をミステリー小説に出てくる女探偵と女スパイの名で呼び合うようになったのはアデレードが彼女──みほりのことをコーデリア・グレイと称したことから始まっている。
だがその事を当事者以外に知るものはリゾットのみであり、今のようにアデレードの後ろにぞろぞろと付いてきていたブチャラティたちには何のことかさっぱり解らないのも無理はないのだ。
「コーデリア・グレイ?」
「アイリーン・アドラー?」
「探偵小説に出てくる登場人物の名前ですよ」
「また他所の女に変なあだ名を付けてやがるのか」
ナランチャとミスタの問いにフーゴが解を与える。アバッキオは従姉であるアデレードの変な癖に呆れ溜め息をついた。
「皆さんお揃いで」
「ちょっと野暮用よ。あなたが退屈してしまうほど単純なの。ブチャラティが出ていって、あとはレオーネたちが暴れれば大抵のことは済むのよ」
「貴女は?退屈しのぎで汚れに行くとは思えない」
「私は彼らが暴れているのを見るのが好きなの」
「高尚な趣味をお持ちで」
「Grazie.貴女こそ誰を待っているの?」
「ご存知」
「ああ……リゾット」
「でもこの分だと来ないかもしれない」
みほりはそう言って立ち上がると、読みさしの本をアデレードに渡した。
「もし良かったら。暇つぶしに。貴女には喧嘩を見るのも推理小説を読むのも大差ないだろう」
「Grazie.……みほり」
「何かな?」
「今度会うときはお得意の推理を披露して頂ける?」
「推理は見世物ではないのだが」
「バーレスクを見ているようで圧巻よ」
アデレードの称賛にみほりの眉間に思わずしわが寄る。それを気にするようなアデレードではない。愉快そうに微笑み返す。
「観客がいないと盛り上がらないでしょう、探偵さん?」
「どんな事件の裏にも必ず女がいるんだよ。それもとびっきりの悪女がね」
「フフフ」
「アデレード、そろそろ行こう」
「Si.……それじゃあまたね、みほり」
「Arrivederci,アデレード」
ブチャラティに促されてみほりと別れたアデレードは一冊の本を携えて歩き出す。
隣にはいつの間にかブチャラティが並んでいた。
「君は専門書以外に娯楽物も読むのか」
「Si,最高に悪くて最高に美しい女が出てくる話は大好きなの」
「君以上に美しい悪女はこの世のどこにもいない」
「見識の幅が狭いわよ『坊や』」
彼女の手を取り懇願するようにキスを落とすブチャラティを本で軽く叩いてアデレードは不敵に笑った。
耽美な事件簿
ベイカー街,221B