猫の目のような細い三日月が空に架かっている。
コツコツと石畳を打つ足音はひとつだけで、ひんやりとした夜の街に溶け切らずに微かに響く。最近隣に並ぶ革靴の音は今夜は鳴らない。
前方に広がるミッドナイトブルーのインクを垂れ流したような闇。壁の一部がゆらりと動いて、浮浪者でも潜んでいたかとハリがちらりと目を向けると、影の中から出てきたのはアデレードだった。
そう。まさしく。文字通り、影の中から出てきた。
「Buonasera.ハリ」
「Buonasera.アデレード」
アデレードはハリと目を合わせて、キュッとその紅い口唇を吊り上げる。こんな闇の中にいてもその毒々しいまでの紅は滲む事はない。
「今夜はひとりなのね」
「彼の予定なら、私よりあなたの方が詳しいだろ」
ハリの夜の散歩の相手はアデレードのチームのメンバーだ。フーゴが今夜何処でどんな仕事をしているか、アデレードが知らない筈はない。お互いに皮肉にも聞こえる言葉に同等の質量で返す。それくらいでアデレードの機嫌を損ねたりはしないとハリもよく解っている。
「フフ、それじゃあ今夜は私と一緒にどう?」
アデレードがそう言うと、彼女の足元に黒い毛並みを持つ獣が纏わりついた。じっと目を凝らすと、それはハリが初めて見るアデレードのスタンド、シャドウ・デイジーであった。
ベルベットのような毛並みの黒豹は自在に影を移動出来、周囲の影の範囲と比例してその体格を変える。今、ハリの目の前に姿を現したデイジーは軽く1000ccのバイク程度の大きさで、背がアデレードの腰の高さまである。
金色の目でじっとハリを捉えている様は、まさしく自然界の動物そのものであり、無機質なスタンドとは到底思えなかった。
「デイジー、ハリに挨拶を」
アデレードに言われたデイジーが彼女の足元から離れて、ハリへと近付く。ハリの周りをぐるぐると回ると手の甲に額を擦り寄せて来た。ハリがおそるおそる撫でてみると、デイジーは大人しく目を伏せる。
「綺麗な子だね」
「Grazie.彼女、あなたの事が気に入ったみたいだわ」
ハリの手元からデイジーの毛の感触が消えて、おや?と思うと足元から姿を現して跨がるような姿勢になった。
「おっと」
「フフ、乗り心地はどう?」
「悪くない。あなたに似て中々悪戯っ子のようだね、デイジーは」
「これくらいで悪戯だなんて、その内言っていられなくなるわよ」
アデレードはひらりとデイジーに跨がると、腰にハリの手を回させる。
「振り落とされないよう気をつけて」
「まさか、そんな事……ッ!」
ある訳ないだろ、と言うハリの言葉は風に吹き飛ばされた。影のある場所なら自由自在に駆けていけるデイジーは道だけでなく壁だろうと難なく走っていく。
「なんか思ったよりかなり速いぞ!?」
そして今は夜。シャドウ・デイジーのパワーをフルに生かすにはうってつけだ。どんどんスピードは上がっていく。
先程アデレードの細い腰にほぼ強制的に回された手に、ハリは力を込めて彼女にしがみついた。それに気付いたのだろう、アデレードの身体から振動が伝わってきて、笑っているのが解る。今この状況を楽しんで笑っているに違いないとハリはアデレードの笑顔を思い出して、全くいい性格しているなとつくづく思う。
前を見れば長い銀髪を夜空に彗星の尾のように靡かせている。
何処かの建物の屋上まで来て、やっとデイジーが止まった。
「今夜の散歩はどうだった?」
「これが散歩って言うのかい?どちらかと言えばツーリングじゃあないか。でも、まぁ楽しかったよ」
「それは良かったわ」
アデレードが手ぐしで髪を整える。それに倣ってハリも自分の前髪を直した。
「夜の女王だな、あなたは」
ハリの言葉にアデレードはぱちりと瞬きする。
「いや、さっきその子に乗るあなたを見てそう思ったんだ」
「あなただってそうでしょう?」
「私が?」
「夜を連れてくるのはあなたよ、ハリ」
暗に自分のスタンドの事を言われて、ハリはドキリとした。
「あなたにも、いつか安心して眠れる夜が来ると良いわね」
そう言い残して、アデレードは影に消える。
ひとり残されたハリの頭上では夜が明けようとしていた。
アルテミスの夜
オリオンを求めて