偉大なる航路の海は厳しく、天候は移ろいやすい。海軍か海賊でもなければその海を渡るものは少ないが、無いわけでもない。月に一度の定期船でごく近くの島へと出かけていた名前も全くの一般人であったが、訳あって海を渡っていた。はずなのだけれど。

「…っ、はぁ…、うわー、何も見えない…」

海楼石を施していた筈の定期船に、何故か海王類が襲いかかってきたらしい。丁度甲板へ出ていて海へと投げ出された名前は、その辺りに浮いていた樽に捕まって海に漂っていた。運良く剥がれ落ちた海楼石のコーティングを見付けたので、それで身を隠しながらの漂泊である。兎にも角にも命はあった訳だけれど、このままではそれもいつまで保つか分からない。
こんなにも心細い思いは人生で二度目だ、と名前は誰にも届かない溜息を吐いた。



名前は、前世の記憶があった。というよりは一度目の人生の途中でうっかり間違って別の人生を始めてしまった、という感じだ。眠りに落ちて目が覚めたら狭くて暗いところに蹲っていたのである。その時の名前の混乱ぶりと心細さはもう相当なものであった。しかも、それだけではなく、名前は赤子として誰かのお腹の中から出て来た。眩しい世界に驚いて、それから劈くような自分の泣き声に驚いて。物心がつくまでには流石に受け入れて第二の人生を歩み始める決心をしたのだけれど、前の世界の記憶は未だに根強く名前の中に残っている。まだこの世界が現実であるとは信じ切れない名前であった。まるで漫画みたいな世界観に、どこかで見たことのあるような話の溢れる日常。偉大なる航路という何やらとんでも無い場所に生を受けた名前は、しかし未だにそれをどこで見たのか思い出せず今日も生きていた。

名前が島を出たのは、母に言いつけられたお使いの為だった。どうやら父親は海賊(海賊!)であったらしく、母を孕ませてまた海へ出てしまったらしい。何て無責任な父親だと思わないことも無かったけれど、母はそんなに気にしていないようなのでまあいいのだろう。そして老人だらけの偉大なる航路の片田舎の島で母と二人静かに暮らしていたのだが、どうしても必要なものがあり、なおかつ島にはそれがなかったのだから仕方なく島の外へ買いに出たのだ。名前と母は灯台守をしており、五十年に一度取り替えなければならない部品の替えがちょうど切れてしまっていたのだということ。一年以内には帰っておいでよ、というのはここが偉大なる航路だからなのだろう。何事もなければ二ヶ月では帰ってこられる道のりを何故母が一年と言ったのかが今やっと分かった。イレギュラーが常識なのだ、この海は。

「…誰か、助けてー」

ぽつりと呟いたそれがあまりにも棒読みで、自分で言っておきながら名前は何だか笑えてきてしまった。こんな命の危機にも焦りが湧いてこないのは、やはり自分がまだこの世界の人間であると完全には認められていないからなのだろう。

いっそこのまま死んでしまえば元の世界に戻れるだろうか、なんてことを考えた時。遙か遠くに船影が見えた。ここまで来てしまえばもう自棄だ、死ぬまでは生きてみよう。名前は大きく手を振った。

助けた船が赤髪海賊団であるということ、この世界がONE PIECEという漫画の世界であることを知るまであと少し。


祥子
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