「遠慮なんてしなくていいよ、ほら、飲んで」
「………いや、あの、…はい」
大柄な人も多い海軍の客を意識してのことか、やや造りの大きい酒場。…名前の記憶が正しければ、海軍御用達の、それこそセンゴク元帥とか大将とかが使うような酒場のはずだ。遠征から帰るなり休む間すらなく連れ出されたのがつい先程のこと。名前はものすごく萎縮しながら、隣で常と何ら変わりない様子でだらけている上司の名を呼んだ。
「…あの、クザン大将」
「ん?何、話す気になった?」
「流石に敷居が高すぎて、全くお酒の味が分からないのですが」
「あらら」
隣に座り、黄金色の酒をくいっと煽るクザンは気の抜けた声を漏らして、それは大変だと呟いた。全く問題に思っていないような声である。人はまばらだが、名前がちらとしか見たことのないようなお偉方までちらほら居るのだから、もう一刻も早くこの店を立ち去りたいのが本音だ。名前の休日の使い方について尋問する為だけにこんな店に連れてくるなんてほんとに頭おかしいんじゃないのかこの人、そうは思っても口に出さないのが部下の心得である。
「ここじゃ緊張しすぎて酔うに酔えません。うっかり口を割るなんてこともありそうにないのでもう出ましょう」
そしてあわよくば帰らせて欲しい。
「そう、じゃあ普通の店に行けば口を割る訳ね」
「………お酒の飲み方くらいは私も心得ておりますので、そこはクザン大将の手腕に掛かっているかと思われます」
「大丈夫、二軒目は一般海兵御用達のところだから」
どうやらこのまま家へ帰るという選択肢は無いらしい。明日も仕事だというのにどうしてくれよう。
*
一応、ぎりぎりのラインは死守した。朝起きると何故か自室のソファに上司がいたけれどそれはこの際もうどうでもいい。
「…何も言ってない、よね…うん」
かなり酔った記憶はあるが、記憶が飛んだりはしていない。名前は時計に目を遣って、思わず頭を抱えた。出勤時間まで一時間を切っている。シャワーか朝食のどちらかは諦めなければならない。
「………シャワー浴びよ」
クザンは放置して、名前は服をぽいぽいと脱ぎ去って風呂場へ向かった。この酒臭さをどうにかしたかった。勢いよく水を流し、頭からシャワーを浴びた名前には、ひとりリビングに残されたクザンの独り言は聞こえていなかった。
「………目の前で着替えちゃう訳ね、名前ちゃんは」
俺のことはこれっぽっちも意識してないと。なるほど。普通酒の席の後に男と同じ部屋に居たらもっと焦るとか恥じらうとかするものでは無いのだろうか。…薄々気が付いてはいたが、クザンはあるひとつの事実を認めざるを得なかった。どうやら彼女は男に興味が無いらしい。
「…あ、起きてらっしゃんたんですかクザン大将」
風呂場から出て来た名前はもう海軍の制服をきっちりと身に纏っており、どうやらそのまま出勤するようだった。
「あー…さっき起きた。ってか俺も一応仕事なんだけどねェ。何で起こさないかな」
「大丈夫です、クザン大将なら社長出勤でも許されます。それでは私は行って来ます。鍵はそこに置いてありますので後は頼みました」
そのまま今にも外へ出て行ってしまいそうな名前に流石にクザンは目を丸くした。見ず知らずというわけではないが仮にも男を置いたままで家を空けるとは。
「…え、本気で置いて行く気?見られて困るもんとか無いわけ?」
「え、まさか人が居ない間に勝手に乙女の部屋を物色するつもりなんですか」
これには流石にクザンも言葉を失った。信頼されているのだと思えばまあ嬉しくなくも無いが、もう少し警戒心を持つべきである。
「………わざわざ探す気はねェけど、あったら見るかもねー。日記とかね」
さてどう反応するだろうか、少しばかり探りを入れたクザンの言葉に対しても名前の反応は実にあっさりしていた。
「ああ、日記帳ならそこの引き出しの中です。軽く十年分はありますから読むのは大変だと思いますがご自由にどうぞ。それでは本気で時間がやばいので行って来ます」
「…あ、そ。…行ってらっしゃい」
クザンはもう色々と諦めて、毅然とした様子で仕事へ向かう名前の背中を見送った。行ってらっしゃいなんて、家族じゃあるまいし。
とは言ってもここにはクザンの体格にあった着替えがあるわけでも無いので(あったら色々と問いつめなければならないところだ)、テーブルの上に置いてあった鍵を手にする。しかし、先程名前が指さした引き出しとやらに思わず足が止まる。
「……………ご自由にどうぞ、ねぇ」
許可はあるのだからここで引き出しを開け、その中身を見ても乙女の部屋を勝手に物色したことにはならないだろう。
鍵をポケットに入れると、クザンはベッドサイドに備え付けられている小さな棚の引き出しをそろりと開けた。…名前のサイズに合わせた部屋なのだから当然だが、ベッドも棚も小さく、乙女の持ち物であることを示していて、何だかとてもいけないことをしているような気になった。
「……うわー、本気であるし」
五、六十冊のノートがそこに鎮座していた。一番下にあるものなどはもう結構古びていて、十年と言っていた年月を確かに感じさせる。というか本当に膨大な量だ。仕事は確かにきっちりしているが、私生活ではものぐさだと踏んでいたのに。どうやらそうでも無かったらしい。
ご自由にどうぞ、と言っていた名前の言葉を思い出して、クザンは妙な罪悪感を押し殺して一番古いであろうそのノートを開いてみた。
2003/12/31
Imi ga wakaranai kedo toriaezu otituitakara nikki tteiuka toriaezu joukyou wo seiri.
Kokono moji ha douyara eigo rasii. Demo nihonngo ga wakaruhito mo iru mitai dakara ro-maji de kaiteokeba tabun darenimo kaidokusarenai to omou.
Joukyouha mada wakaranaikedo, kokoha wannpi-su no sekai rasii.
Dameda, watasi ikiteikeruki ga sinai.
「………何これ」
使われている文字に見覚えはあったが、その羅列は意味をなしていなかった。少なくともクザンの理解できる限りでは。…まさか暗号で十年分日記を書いてただなんて。流石に想像もしていなかった。日付以外、全く何を書いてあるのか分からない。
「やるな、名前ちゃん…」
一気に色々なものが削がれた。ふとベッドからアルコールとはまた違った女の子の柔らかい匂いがしてきて、クザンはふらふらと引きつけられるようにそこに寝っ転がった。流石に犯罪かとも思ったが、部屋の主に危機感が無さ過ぎるのが悪い。帰ってきて俺を見付けて少しくらい焦ればいいよ。クザンは半ば自棄になって目を閉じた。
祥子