エレンはしばらく医務室の扉の外で呆然としていた。ミカサとアルミンはとっくに部屋に戻っていた。彼女に庇われたお陰で無傷だったエレンだけが勝手に彼女の傍に留まって看病のようなものをしていただけで。
熱に浮かされていたのだろうと思う。開拓地に行きたいと彼女は言った。
『だって、空が見られるならそんなに変わらないから』
まるで幼子のように舌足らずな口調でそう言った彼女の涙に潤んだ目を思い出す。どういう意味なのかはよく分からなかった。空なんかどこからでも見えるのに、
………ああ、そうか、あいつは地下街の出身だった。
『でも、もう、どこでもいい。どこかに行きたい』
普段の剣呑な様子はどこかへ形を潜めていた。ただただ、本心を吐露しているようだった。自分から問い掛けた癖に、俺は何かいけないものを見ているような気持ちになった。
『ここへ来たのだってそう、…ここに行け、行かないなら殺すって、そう言われたから……』
思わず息を飲んだ。それは、脅しだ。一体、そんなことを、誰に?
『誰に言われたんだ、そんなこと』
エレンの問いに、名前はしまった、というような顔をした。そこで彼女はやっと自分の迂闊さに気が付いたらしい。詳細を明かす気は無いようだった。
潤んだ目と、幼子のように頼りなげだった言葉とを思い出して、思わずエレンは口元を手で覆った。
「何なんだよ、あいつ……」
いつも冷静に状況を分析してなにがしかの答えをくれる幼馴染みは、そこにはいなかった。
*
「…名前が?ふむ、そんなこともあるものなのだな」
下から上がってきた、些細な報告。それは名前訓練兵が同期生を庇って代わりに怪我をし、高熱を出して寝込んでいるというものだった。
もう少し時間が掛かると思っていたのだが、とエルヴィンは満足そうに目を細めた。荒療治ではあったが、どうやらきちんと結果は出ている。
その様子を見ながら、リヴァイはコーヒーを啜った。
「他人を庇って怪我なんざ、壁外じゃ真っ先に死ぬタイプじゃねえか」
「大事なのはそこじゃない。あの野良猫が、誰かを庇ったということだけで大きな進歩だ。まあ、怪我をしたのはいただけないがな」
手紙でも送ってやろう、と紙とペンを取り出したエルヴィンに、リヴァイは反論するでもなくそうかと肯いた。手紙が届いた時の名前の表情が、もう既に分かるような気がした。
*
手紙を読み終えた名前は、そのたった一枚の紙切れをずたずたに引き裂いてしまいたい衝動に駆られた。自分のする行動が逐一報告され把握されているという時点で既に気にくわないのに、更にこんな風にいちいち口を挟まれては、窮屈どころの話では無い。
手紙は、名前の成長を喜んでいるという旨のよく分からない褒め言葉らしきものが一行、そして残りは次に怪我をするというようなヘマをやらかした暁には直々に見舞いに行くという、脅しのような文章だった。
つまりは、怪我をすることすらも許さないと。
親愛なる、と書かれた書き出しの言葉に吐き気がした。何がディアーだ。従順なるの間違いじゃねえのか、と。
「…くそったれ」
手紙を握りつぶすことすらできず、最初に与えられた文箱に丁寧にそれをしまう自分が一番滑稽だと、名前は唇を噛み締めた。
祥子