名前はエレン・イェーガーのことが嫌いである。ついでにいえばアルミン・アルレルトのことも嫌いである。しかし何故かミカサ・アッカーマンのことはそうでもない。但しミカサ・アッカーマンは名前のことが嫌いである。

これらの事実は、104期の訓練兵であれば誰もが知っているものであった。
だからまさか、誰も想像していなかった。あの名前が、そんな事をする日が来ようとは。





それは、審査を間近に控えたとある立体機動訓練の日のことだった。全員が同じスタートラインを出発し、森の中を縦横無尽に縫って次々と的を切り裂いていく。もう何度か経験のある訓練で、訓練兵は誰もが既にその難しさと危険性を知っていた。

開始してから暫く、ほぼ先頭を走っていた名前は異変に気が付いた。辺り一帯の木が、まるで全て枯れてしまったように脆くなっている。下手に刺すとそのまま崩れる木さえあった。ちらりと後方を見遣れば、名前の様子に異変を感じたのか、同じく先頭集団であったミカサやアニ、ベルトルト、ライナーは避けるように迂回している。ちっ、とひとつ舌打ちをして名前も同じく方向転換を試みた。

と、その時。
迂回をしている先頭組に気付いていないのか、何の躊躇も無く最短距離である方向、すなわち現在名前の居る辺りへと突っ込んできた馬鹿がいた。

「…っエレン!そっちは駄目!」

「何言ってんだ、こっちの方が近道―――っ!」

ミカサが叫んだが、間に合わない。エレンは案の定脆くなった木へアンカーを突き刺したらしい。名前は馬鹿め、と内心で嘲笑を漏らした。当然自助努力と自己防衛が前提とされている訓練である、手を貸すつもりは欠片も無かった。そして己の安全を確保すべく前方へと視線を滑らせる。

「何、だ、この木…っ!…うおっ!?」

苦戦しているようではあるが、彼とて実力者ではある。どうにかするだろう。そう思って視線すら向けていなかった名前は、耳ざとく、木の崩れ落ちる音を聞いた。みしり、そう一旦音がしてしまえば後は早かった。エレンがアンカーを突き刺した木が、名前の方向へと倒れ込んで来た。

避けられないことは無い。前方にアンカーを突き刺せばすぐに木の下から抜け出せる。しかしちらりと後方へ視線を遣った名前は思わず目を丸くした。かの努力家で成績優秀なエレン=イェーガーが、あろうことか、逃げ出すどころかワイヤーを木に巻き込まれて転落しかけていたのである。

「………エレンっ!!」

切羽詰まったミカサの声が耳に届いた。迫り来る大木と、為す術も無くそれに巻き込まれようとしている憎らしい少年が落ちていく姿が、やけにスローモーションに目に映った。

「…くそっ、」

アンカーをどこに突き刺すべきか、名前は理解していた。当然、己の身を守る為に、前方へ突き刺すべきだ。

それなのに、次の瞬間には、名前は後方へとワイヤーを向けていた。

「―――エレン!!」

最後に聞こえたのは、当然ながら自分の名を呼ぶ声などでは無く、少女の懇願するような悲鳴―――憎らしい少年の名前を呼ぶ声だった。





額にひやりとした感触が触れて、名前は意識を浮上させた。しかし目を開けてみても視界に映るのはぼんやりとした影のようなものばかりで、名前は自分がどうやら高熱に犯されているらしいということに気が付いた。

「名前?起きたのか?水飲むか?」

視覚は霞んでいたが、聴覚は正常に作用していた。聞きたくもなかった男の声に、名前は思わず顔を顰めた。しかし拒絶の言葉を吐くだけの体力すらも無かった。何たる不覚だ、と名前は内心で盛大に舌打ちをした。こんな失態、地下だったなら既に命を落としていてもおかしくない。誰かが自分を助けてくれるなんてそんなことは幻想でしかないのだ。ずっとそう思って生きてきたのに、何だ、この有様は。

何も言えずにただぼんやりと目を開けているだけの名前に、誰かの手が触れた。後頭部に手が回され、少し頭を持ち上げられる。手を振り払いたくてもそんな力も入らなかった。口元に冷たく固い感触が宛われ、ほぼ無意識に流れ込んでくる水を嚥下していた。

「………さわ、るな……」

「おま…第一声がそれかよ…」

ようやく声を出すことが可能になった喉からそうひねり出すように紡げば、エレンは少しばかり呆れたように溜め息をついた。しかし素直に手を引っ込めてくれたあたり、少しは思うところがあるのだろう。

「お前、何で俺を助けたりなんかしたんだ?」

「……………いっていることの、いみがわからない……」

「覚えてないのか?お前、俺を助けて代わりに木の下敷きになって骨折したんだよ。他にも大怪我負って…熱はそのせいだって、医官が言ってた」

少しずつ状況を把握する。そうか、私はこの餓鬼を助けた為にこんなことになっているのか。

「……その、悪かったな…」

ぽつりと少年が漏らした言葉の意味が分からなかった。

「…なぜ。…わたしが勝手にしたことで、おまえがしたことではないのに」

熱に浮かされたせいで舌っ足らずな言葉に、エレンは目を丸くした。しかし名前にはエレンが謝る意味も、驚く意味も分からなかった。地下ならば当然のことだ。自分の行動に責任を持つのは全て自分で、たとえそれが他者の為であったとしても最終的に決定するのは自分なのだから。

「お前、良い奴だな」

「いみが、わからない………」

もう何もかも意味が分からなかった。ここはあそことは何もかもが違いすぎる。クリスタ・レンズとかいう少女の行為も、目の前の少年の言葉も。
いっそエルヴィンやリヴァイの方が力でもって従えるという分名前にとっては理解しやすかった。

「なあ。お前、前に、ここに居たくて居る訳じゃないって言ってただろ」

視界は相変わらず淀んでいて、エレンがどこにいるのかをはっきりと捉えることができないまま名前は何度か瞬きを繰り返した。

「お前は何で、ここにいるんだ?」

少年の声は透明で、すっと名前の胸に入り込んできた。押しつけがましくもない。打算も何も無い。ただ単純に尋ねているだけの声。

「……なんで?なんでいるかって?……そんなの、死にたくないからに決まってる……」

こんなこと、言うべきではない。言っても何も変わらない。同情などされたいとは思わない。…それなのに、熱に浮かされた名前の口は言葉を零すことを止めなかった。一人称を改めなければ、こんな時なのにそんなことを考えてしまう自分がいっそ可笑しかった。

「それじゃ、お前はどこに居たいんだ?」

これは夢なのかしれない、名前はそんなことを思った。自分の深層心理を現したような質問だった。透明な声は相変わらず名前の心の中にすっと染みるように入り込んでくる。

「………………開拓地に行きたい」

開拓地というものの存在を知ったのは、ここへ来た後のことだった。地下街に戻りたいとはどうしても思えなかったが、開拓地にならば行ってもいいと思えた。地下街もここも同じくらい最悪でどっちも名前にとっては酷い場所だったが、空を見ている時間だけは気に入っていた。開拓地で労働を強いられようとも、いつでも好きなときに空を見上げることができるのだと思えば地下よりは十分ましだと思った。そして、ここよりも。

はっと息を呑むような音が聞こえた。ぼんやりとした視界ではエレンの表情までは分からないが、彼はどうやら焦っているようだった。何故、と自問して、頬を伝う熱い雫に気が付いた。

「……名前、」

泣き顔を見られたのだと気付いても、思っていたような惨めさは訪れなかった。高熱に浮かされているせいかもしれない。全てが夢幻のような気がしていた。そこにエレンが居ることもいつのまにか忘れ去って、名前は子供のように泣きじゃくった。熱に浮かされて言った譫言をエレンに聞かれているという意識もどこかに消え去っていた。

どこかへ消えてしまいたい。名前は強く強くそう思った。思っているだけでは何も叶わないとは知っていたけれど、今このときばかりは、誰か自分の心を読んで願いを叶えてくれたらいいのにと、そんな夢みたいなことを本気で考えた。


祥子
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