馬鹿なことを言った。言っても今更どうにもならない、馬鹿なことだ。
「くそ…っ…!」
苛立ちはどうも収まってはくれそうになかった。しかもあの騒ぎのせいで、ここで唯一と言っていい胸くそ悪くない時間である食事時を、逃してしまった。
早いところエルヴィンから与えられている訓練メニューでもこなして眠ってしまおうと、名前は早足に訓練場へと向かった。
空腹も惨めさも、別段今に始まったことじゃない。明日の朝には何かにありつける、それが確定しているだけここはあの場所よりもマシだ。
「あ、えっと、名前……?」
ふと耳に響いた柔らかな声色に、名前は立ち止まった。いつもならそんなことはせずに振り切って目的地へ向かうものだった。このときなぜ立ち止まってしまったのかは自分でも分からない。
「………誰だ」
声を掛けてきた少女を睨み付けると、少女は僅かに萎縮したように肩を竦ませ、しかし立ち去ることはせずに名前の方へと近寄って来た。建物の陰、他に人が訪れる様子はない。見たところ少女は華奢な部類で、名前をどうこうできるとも思えなかったが、名前は少しばかり警戒して距離を置いた。
「あの、私…クリスタ。クリスタ・レンズ」
「用件は」
「その…ご飯、食べてなかったと思って」
はい、とごく穏やかな仕草で差し出されたのは、半切れほどのパン。押しつけがましくもなければ企んでいるようでもないその仕草に、思わず受け取ってしまった。
「…………何の、つもりで、」
名前は声が震えないように努めながら、パンを握りしめた。微笑まれながら食べ物を差し出されるなんてことは初めてだった所為だ。
地下街にいた頃は、食べ物は奉仕と引き替えだった。交換条件も聞かないうちに受け取ってしまうなんて浅はかなことをしてしまった。
恐る恐る匂いを嗅いでみるも、特に変わったところは無い、何の変哲も無いパンだ。
「だって、お腹空くでしょう?名前って訓練の他にも何かやってるみたいだから…」
「何故知っている、いや、それよりも…」
こんなことをして、お前に一体何の利がある。
そう聞こうとした言葉は、少女のふわりとした微笑みのせいで口に出すことも叶わなかった。
「気付いてないかもしれないけど、私、あなたと同室なの」
「…たかがそれだけで」
「ふたつ隣に寝てるんだけど、やっぱり、気付いてなかった…よね」
笑みはそのままに、少しばかりしゅんと項垂れた少女。その様子に何故だか名前は焦りというものを覚えた。
焦り?この自分が?何故?ありえない。
「余計なことを、」
「迷惑だった?」
吐こうとした拒絶の言葉もあっさり遮られる。正直迷惑ではないし、食べるという欲求を満たすのに手段など選んでいられる訳もないので、名前は押し黙った。
「いや、」
何だ、この少女は。調子が狂う。
言うべき言葉は多分分かっていたけれど、それを言う機会に恵まれたのは初めてだったので、名前はどう言って良いかわからず口ごもった。
手元のパンを一口囓る。ごく普通のパンだ。
「見返りに、私に何をしろと?」
質問と行動が後先になってしまったと、名前は少しばかり己の迂闊さを悔いた。しかしもうパンは喉を通って胃に入ってしまっている。返せと言われても不可能で、要求されたならそれを飲むより他に無い。
「そんな、別に見返りとか…!さっきも言ったけど、本当に、その…いつも近くに居る子だし、いつも頑張ってるの見てるから…」
少女の真っ白な頬が少しばかり赤く色づいている。別段弁解するような事をしたわけでもあるまいに、何故この少女はそんなにも焦っているというのか。やっぱり何か企みでもあったのか。
焦りたいのは、こっちだ。
もし、見返りを求めていないという少女の言葉が真実ならば、名前は初めて他人の親切というものに触れたのだ。こんなことをされたのも、こんな気持ちになったの初めてだ。焦りたいのは、こっちの方で。
「強いて言えば私の自己満足なの。だから、気にしないで」
そう言って笑う少女に、名前はいっそ恐怖さえ覚えた。
何故人にパンを与えて自分が満足できるのか。名前には分からない。他人の為にパンを余分にもらうことは認められていないから、この半分だけのパンは、恐らく彼女が自分の分を削ったものであるはずなのに。
自分の顔が赤くなっているのが分かった。熱い。
一体なんだ、この感情は。こんなものは知らない。知らないのに。
今が夕方で良かったと心底思った。夜目が利く名前と違って、クリスタの方からは恐らく名前の表情は見えていない。
こんな情けない顔なんて見られたら、それは、きっとエルヴィンに力で組み伏せられるよりも酷い屈辱に違いない。
「それじゃあ。特別メニュー頑張って、ね」
それだけ言ってクリスタはくるりと背を向けてしまった。
にっくき奴と同じ、金色の髪。それがまるで聖なるもののようにも見えるのはどうしてなのか。
「……っ、お、おい!」
呼び止めると彼女は素直に振り向いた。
呼び止めた後で、名前は自分の行動に狼狽えた。何で呼び止めたりなんかした。彼女は親切でパンを持ってきた、自分はそれを受け取った、それ以上に一体何がある。
「あ…と、…手間を掛けさせた」
言うべき言葉を、名前は確かに知っていたのに。
出て来たのはそれが精一杯で、しかしそんなぶっきらぼうな言葉にもクリスタは嬉しそうに笑った。
彼女が去ってしまった後で、残りのパンを囓ってみた。材料はいつもと変わらないはずで、時間が経っている分むしろ普段より固くなっているはずのそのパンはしかし、今まで食べた食物の中で一番の幸福を名前に与えた。
貪るように食べきった後で、名前ははっとそんな自分に舌打ちをした。
クリスタ・レンズ。地下には絶対にいない人種で、だから自分は戸惑ってしまっただけだ。断じて絆されてなどいない。
ふわりと笑った顔を思い出す。押しつけがましくも下卑てもいない親切を思い出す。
あれが例えば同情に満ちていたのなら、その手を振り払うのも容易かっただろうに。
彼女のことは、どうも、好きにも嫌いにもなれそうにない。
祥子