噂というものは、悪気があろうと無かろうと、酷く心地の悪いものである。特に名前にとっては、噂というものは不快と苛立ちを生む厄介なもの以外の何物でも無かった。
やれ地下街出身の野蛮児だの未来の人類最強だの、果ては既に一個師団に匹敵する能力を持っているとまで噂された名前は、入団から三日目にして既にノイローゼ気味であった。
エルヴィンのもとから離れられるのは嬉しい。けれどこの視線は、何とも鬱陶しい。
しかし鬱陶しい視線を蹴散らす事すら叶わない。どうせ何か少しでも危害を加えようものなら罰されるのは名前なのだから。
早く終われ。胸の中でそんなことを何十編も唱えながら、名前はひたすら耐えていた。
「なぁ、お前地下街出身なんだってな」
「…あ?」
そんな最中だった。ある一人の少年に話し掛けられたのは。随分と直球でものを聞いてくるその少年に、名前の不快指数は一気に跳ね上がった。
「ちょっ、エレン!そんな言い方って無いよ…!」
「………何か用か?」
「あー、あの、僕、アルミン・アルレルトだけど…覚えてない?」
「覚えてない」
金髪の、育ちも物わかりも良さそうな少年。生憎覚えなければいけない顔のリスト(エルヴィンやリヴァイ、ハンジがこれに入る)の中には入っていない顔である。アルミンとかいうその少年は少しばかり傷ついたような顔をしたが、それでも名前を責めることは無く、そう、とだけ呟いた。
「んなことより、お前、次の兵士長候補って話は本当か?」
「は?兵士長って何だ。知らん」
「兵士長を知らない訳無いだろ、とぼけんなよ」
「とぼけてねぇよ。…俺は今機嫌が悪いんだ、お前等を殴る訳にもいかねぇんだからとっととどっか行け」
「はぁ?その言い草はねーだろ!」
ああくそ、もう、殴っていいかこいつ。
「エレン、エレンの言い方も悪かったよ。あの…気を悪くしたならごめん、今度また気が向いた時にでも、」
取りなすように曖昧な笑みを浮かべて名前とエレンとの間に割って入った少年、アルミンに、名前は何故だか苛立ちを覚えた。言葉尻を飲み込むように睨め付けて、苛立ちを交えて言い放つ。アルミンに向けて。
「…アルミンとか言ったか。俺は、こいつに不快だと言ったんだ。………気が向くことなんか無いからもう話し掛けるな」
苛立つ。苛立つ。苛立つ。苛立ちのままに放った言葉は、どうやらまたアルミンを傷つけたようだった。
「だったら文句も俺に言え!俺はエレン・イェーガー、こいつはアルミン・アルレルトだ。覚えてろよ!」
「エレン、それ何か違うと思う…」
高らかに宣言するように謳われた名は、確かに暫く忘れられそうも無かった。ここまで苛立ったのは初めてだ。エルヴィンやリヴァイが相手ならこうも心は波立たない。何が違うのかと分析して、ああそうだこいつらは弱いからこんなにも自分を苛立たせるのだと気付いた。強い者に従う分にはまだ良い。しかし、自分よりも弱いものになど。
「…俺に命令するな」
このままこいつらの顔を見ていたら、言いつけを破って殴ってしまいそうだった。それを避ける為にもこれ以上の会話は無用。これ以上何かを言われる前にと、名前は早足で歩き出した。
「…エレンに何かしたら、許さない」
二人の傍を通り過ぎると、鋭い目つきの少女にそう言われた。知るか。関わってきたのはあいつらの方だ。
三人から大分離れてみると、頭に浮かぶのは二人の少年よりも、一言しか喋っていない少女の顔の方だった。名前すら知らないのに一体何故なのかと少し考えてみて、すぐに理由に思い当たった。
リヴァイに似ているのだ。飼い慣らされた気高き獣のような強さを秘めたあの目が。
*
部屋に戻ると、名前宛の手紙が届いていると同室の少女から恐る恐る一通の封筒を差し出された。大仰に調査兵団の紋章が蝋で捺印されたその封筒には、エルヴィン・スミスの名があった。
内容は、形ばかりの心遣いと労い、そして殆どが叱責にも似た注意換気、あるいは命令だった。
馬に乗りこなせるようにすること。問題を起こさないこと。一人称、二人称はきちんとしたものを使うこと。上司への言葉遣いを覚えること。同期と仲良くすること。
命令ならば名前に従う以外の道は無い。逆らう気は無かったし、この程度ならば成し遂げるつもりもあった。最後のものを除いては。
…………仲良くしろ?
それは一体名前に何を求めているのだろう。殴らない、以外に友好を示す手段を名前は知らないというのに。
今日一日を振り返り、名前はうんざりとした。乗馬、まだ巧くいかない。問題、起こしていないが起こしたいとは幾度も思った。一人称、俺。上司、俺より弱い教官なんかクソ食らえ。同期、話し掛けるなと突き放したばかりだ。
まるで見透かしたかのようなエルヴィンの言葉の数々に、名前は喚き散らして何もかもを壊したくなる衝動に駆られた。ここにエルヴィンがいる訳でもないのに、どこまでも名前はエルヴィンに支配されていた。一体どこまで飼い慣らせば気が済むのか。もう逆らう気力など無いというのに。
祥子