「…アイツか、噂の…」

「リヴァイ兵長と同じ出身の…」

「…人類最強二号だって?その割にチビのみそっかすじゃねぇか…」

遠巻きに聞こえる声は名前の耳に届いていたが、それに反応して言い返すことは、まして反撃をすることなどは、名前には許されていない行為であった。身長のことに限って言えば人類最強の男にそう劣るという謂われもないのに、言い掛かりなど幾らでも思いつくらしい。どうやら三年の訓練を経たばかりの兵士には名前は酷く目障りであるようだった。

いっそ掴みかかってでも来ればいいものをと、名前は僅かに眉間に皺を寄せた。そうすれば正当防衛で反撃してやるのに。

名前は苛々していた。こんなにも自分の思い通りに何も出来ない生活というのは初めてで、集団行動だか規則だか知らないが、酷く不自由で鬱憤が溜まっていた。しかしそんな最中、遠巻きに名前のことをこそこそと言っていた奴らに囲まれようとも、すぐに殴り倒したりはしないだけの賢さくらいは名前とて持っていた。こちらから兵団のものや兵士を傷つけたりすればどんな目に遭うかはもう身を以て体感していた。

「お前だろ、名前っていう新入りは」

「訓練兵にも所属しなかったってな。俺達が色々教えてやるよ」

にやにやと下卑た笑みは酷く見覚えのあるものだった。地下で名前のことを非力な子供だと勘違いした奴らはどいつもこいつもこんな笑みを浮かべて近付いてくるものだった。
もちろん付いていく義務は無かったし、そんなつもりも無かったが、名前はひとつ失念していた。集団における個人の無力さというものを。

「ほら、ちゃんと立てよ」

「何でお前みたいな弱っちい奴が調査兵団になんかスカウトされたんだ?」

降りかかる暴力に暴力で返すことは容易い。しかし判断を誤れば後でもっと酷いことになると知っていたので、名前はひたすら受け身を取って耐えた。何を勘違いしたのか、数人の兵士達は完璧に自分たちの優位を確信したような顔で名前の腕に触れてきた。

「…いい加減、十分か?」

ひたすらに俯かせていた顔を上げて男達を睨みあげ、ぼそりと呟く。男達は怪訝そうに眉を顰め、は?と間抜けな声を漏らした。ふ、と息を吐いて臨戦態勢に移る。

「もういいよな?ここで反撃したって正当防衛だろ?なあ、…鬱憤が溜まってたんだ、相手しろよ、先輩方ッ!」

溜めていた何かが弾けた。名前は軽く笑みさえ浮かべながら、気安く触れてきた掌を振り払った。ただそれだけの動作で兵士は地へ転がった。嗚呼、血が騒ぐ。ぞくぞくと背中を這い上がる高揚感。力でもって他者を征服する、生物の本能としての快感。

「何だよお前急に…ッ」

「うるせぇ。こっちはここまで我慢してやったんだよ。そっちだって散々殴っただろ?…安心しろよ、殺しはしないから」

名前の言葉に何を悟ったのか、数人掛かりでねちねちと名前をいたぶっていた若い兵士たちはひ、と短く声を漏らした。

久し振りに、思う存分暴れてやろう。その為にこちらだって傷を負わされたのだと、正当防衛を主張できるように我慢してやったのだから。

「なぁ、ほら、立てよ」

たったひとりのやせぎすの少女に、五、六人の兵士は怯えていた。しかし今更逃がしてはやらない。獅子には負けても、犬の群れ如きに負けるほど落ちぶれてはいないのだから。

「掛かって来いよ!」

名前は目を鈍く光らせて、その小さな体で男達に飛びかかった。





「それで…?言い訳は?」

この上なく冷たい目で見下ろされて、名前は微かに肩を震わせた。鼻から流れる血が気持ち悪いが、それを拭っている余裕など無い。ちなみに顔面に強烈な蹴りを見舞ってくれたのはかの人類最強の男で、その間エルヴィンはといえば冷酷な支配者の顔をして自分の駒が駒を仕付けるのを眺めていただけだった。

「…正当、防衛だ」

久方ぶりの喧嘩に、血が騒いだのは本当だった。しかし兵士の中に名前以上の怪我を負っているものなどいない。それなのに、喧嘩の現場を発見したエルヴィンは名前ひとりを残して他の兵士を帰らせた。

「…正当防衛…?何を言っている、忘れたか。お前の心臓は誰のものだ?」

「……………エルヴィン、団長の」

「聞こえないな。もう一度はっきりと、その口で言え」

命令は冷徹で、絶対だった。

「………私、名前の心臓は、調査兵団団長、エルヴィン・スミスのものです」

続きを促す瞳に、名前は己の感情を殺すように苦心しながら口を開いた。そうでもしないと今でもあがいてこの男に飛びかかってしまいそうだった。力の入った拳を、振り上げる代わりに強く強く心臓へと叩き付ける。少し息が詰まった。

「………申し訳、ありませんでした」

折角痛みに耐えて作った正当防衛の理由はどうやら全くの無駄であったらしかった。つまりはこういうことなのだ。幾ら理不尽な目に遭おうとも、名前はそれを甘んじて受け入れなければならず、反抗は許されないのだと。名前を庇う者などここにはおらず、全ては名前に力が無いのが原因であるのだと。

満足そうに名前から離れたエルヴィンの背中がふと目に入った。そこに描かれた自由の翼とかいう紋章が、名前には何かとてつもなく皮肉なもののように思えた。
自由なんて、ここへ来てからいちばん遠ざかったものであるというのに。

「戦闘技術より、集団生活に難があるようだな」

エルヴィンは大仰に、失望を表すように溜息を吐いた。それからくるりと振り向いて、絶対的な支配者の声で名前に命じた。

「…明後日、新しい訓練兵の入団式がある。お前には訓練兵団に所属してもらう」

名前が異を唱えることなど全く考えていないような声音だった。当然のように名前に拒否権はなかった。


祥子
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