どうせ警戒して寝付かないだろうと思ってね。名前を気絶させた後に事も無げに言ったエルヴィンの言葉はどうやら正しかったらしい。傷だらけの体が疲れていない訳は無いのに、眠りに就いてたかだか二、三時間で名前は目を覚まし、部屋の隅で何もかもを警戒するように身を丸めていた。
「えーと…寝てていいよ?」
ハンジの言葉にもにべもない。近付けば飛びかかってきそうな様子に、ハンジは苦笑した。この野良猫が懐いてくれるようになるまで、一体どれくらい掛かる事やら。先は長そうだ。仕方なく書類を捌いていくことにするものの、背中にものすごく視線を感じる。そのくせハンジがちらとでも後ろを振り向けばすぐに視線を逸らすものだから、何だか名前が可愛く思えてきた。
「名前」
「……………………はい」
ものすごく出し渋ったような声で、それでも名前は返事をした。よっぽどエルヴィンが怖かったんだろうなあ、なんて思いながらハンジは少しだけ笑った。
「寝たくないって言うのなら私はそれでも構わない、だけどそれで体調がいつまで経っても整わなかったら叱られるのはどっちだと思う?」
これには、名前は返事をしなかった。まあ当然の道理で言えばこの場合責任は管理者であるハンジに降りかかるが、あのエルヴィンの様子では名前とて叱責は免れまい。一体どんな徹底的な教育が待っていることやら、考えただけですこしげんなりする。
「別に私はあなたをどうこうするつもりはないよ。巨人を倒してもらうにはあなたには元気でいてもらった方が都合がいいしね?」
という訳でどう、眠る気は無い?
そんなハンジの提案に、名前は心底、目の前のこの人物は何を言っているのだろうかと思案していた。集団生活、規律の遵守、上官への従属。どれもただ力のみがものを言う世界では必要の無かったもので、それらはすなわち名前の理解の範囲を超えていた。
「…俺が倒れて困るってんなら、それこそ万々歳だ」
「………………そう。そう来るかぁ」
名前の言葉にハンジは少しだけきょとんとした後、可笑しくてたまらないとでも言うように笑い始めた。その言葉に名前がハンジを睨み付けると、ハンジがゆらりと立ち上がって名前の方へにじり寄ってきた。
「つまりあなたは、エルヴィンの言うことしか聞く気は無いと。そういうことだね?」
きらん、眼鏡の奥で光った眼はエルヴィンのあの青い目に比べれば恐るるに足らない、はずなのに。
「けど忘れてないかなあ、エルヴィンは私の言うことを聞くようにってあなたに命じたんだ。それを破ったときのあなたへの対処は私に一任されてる。………巨人以外をいたぶる趣味は無いんだけど、」
ちょっと、言うこと聞いてもらおうかなあ。
そう言ったハンジの、巨人以外をいたぶる趣味は無いという発言は絶対に嘘だと、名前が気付くのはそれから間もなくのことだった。
ハンジからしてみれば名前は本当に只の野良猫のようなものだった。急に上官に世話を頼まれたから面倒を見ざるを得ない、少しばかり扱いに困る預かりもの。年下の女の子を喜んでいたぶる趣味は勿論ない。しかしハンジに与えられた命は、名前を従順にさせ、集団生活に馴染ませ、兵士として最低限使えるように仕付けることだった。
*
「…………六時間は眠ること。それより速く起きてきたら、そうだな、あなたは私の研究に付き合ってもらうことにしようかな。…仕事じゃなくて、趣味の方のね」
十数分に及ぶ格闘の後、ハンジの方も無傷という訳にはいかなかったが、もとより大けがを負ってろくに休息も取っていない名前をベッドに組み敷くのは決して不可能なことというわけではなかった。ハンジの言った言葉の意味を名前は恐らくろくに理解していないが、それでも睡魔に負けたのか疲労に負けたのかそれとも何か折り合いがついたのか、急に大人しくなってこくりと肯いた。
「…返事をするときは、声に出す。これはもう言われてることだろ?それと、さっき言いそびれたけど俺ではなくて私って言おうか」
「………はい」
「ん、よろしい。じゃ、おやすみ、名前」
返事は無かったが、今はこのくらいにしてやろうかと思うハンジはエルヴィンよりは幾分か人間味のある上司であったので(この意見は人によって分かれるが)、取り敢えずは名前に毛布を掛けて寝かせてやるのだった。
祥子