「…だから行かねェって言ってんだろ!」

人類の為に戦わないか。衣食住と身の安全は保証する。そう突然手を差し伸べられたのが今日の昼前の事。そして今、もうそろそろ地上では日も沈みきった頃だろうというのに、男はいまだに諦めていないらしかった。全く、しつこい男ほど厄介なものはない。

「今一度よく考えてみてくれ。悪い話じゃないと思うが」

「どう考えても何回考えても、壁の外なんかに出るのは悪い話だ」

「しかし、どうせここでも碌な生活はしていないのだろう」

エルヴィンとか言っただろうか。名前はまず、男のそのナリが気に食わなかった。いかにも地上でまっとうに生きてきた人間のような、清潔そうな洋服ときっちり分けられ整えられた髪型。そしてその喋り方も気に食わなかった。いかにも条理を弁えた大人の振りをして、しかしその裏に絶対の自信を持っているのが透けて見えている。何より名前が気に入らなかったのはその瞳だ。眼力がある、とでも言えばいいのか。兎か獅子かと言えば間違いなく獅子の部類に入る、狩る者の瞳。見ていると言いようのない不安に駆られる。地下街を這うように生きてきた名前はどちらかというと狩られるものの部類に入るからかもしれなかった。

「…壁の外と比べりゃ天国さ」

「そうは思っていない目をしている。燻っているのならば、私に命を預けてみないか」

「俺の命は俺のものだ、頼むからとっととどっかへ行ってくれ」

これ以上あんたと話していると気分が悪くなりそうだ。

「…困ったな。ではこういうのはどうだろう」

取引をしよう。そう言った男の手を振り払わなかったこと、もっと言えばその時にさっさと逃げ出してしまわなかったのが俺のいちばんの間違いだったのだ。けれどそれに気付くのはもっとずっと後のになってのこと。

エルヴィンが口にした提案に、名前は間の抜けた声を漏らした。

「…は?」

「だから、私と勝負しよう。君が勝ったら、諦めて帰ると誓う」

馬鹿にされているのだろうか。そんな見え透いた話。

「その取引に乗る俺の利点が見当たらない。他を当たれ」

「何だ、負けを認めるのか?勝負をする前から?」

「…そんな見え透いた手に乗るとでも?」

「…参ったな、駄目か。リヴァイはこれで一発だったのだが」

男は、全く参ってはいないような顔をしてそう宣った。どこにそんな自信があるのかは知らないが、名前が己に従うのを信じて疑っていないような瞳だ。

「もう少し気位の高い猫かと思っていたのだが。どうやら違ったようだな」

「…何が言いたい」

「君はもう少し、ものを分かっていると思っていた」

「煽ってるつもりか?口説き文句にしちゃ色気が足りねぇな」

「いや何、個人的な感想を述べているだけだ」

男は嫌味なくらい、というか実際嫌味なのだろうが、爽やかに笑って見せた。飽くまでも紳士的に。

「野良猫はどこまでいっても野良猫ということだね」

僅かな苛立ちが名前の中に生じた。駄目だ、ここでこいつの取引なんかに乗っちまったらそれこそこいつの思う壺だというのに。

「………で?どうする?戦うか?それともこのまま尻尾を巻いて巣へ逃げ帰るか?今一度改めて聞こう。取引に、乗るか?」

暫し、男と名前は睨み合った。裏路地の埃っぽい空気を二、三度吸っては吐き出して、名前は挑むように口を開いた。

「イエス。………なんて言うとでも思ったか?」

男の瞳が僅かに見開かれた。少しは出し抜けたらしい。へっ、ざまあみろ。

「明らかに分の悪い取引なんかに誰が乗るかってんだ」

「…ふむ。状況判断能力も悪く無いか。…ますます、欲しいな」

男は口元だけを持ち上げて笑みのようなものを形作った。だがしかしその瞳は未だ獰猛な肉食の獣のように名前を捕らえていて、全く笑っていない。何やら先程までとは違う様子に、名前はどうやら分が悪くなったようだと判断した。たん、と傍にあったゴミ箱の蓋に手を付いて、長屋の屋根に飛び乗る。

「野良はさっさと尻尾巻いて帰ることにするぜ、っと」

そう言って名前が屋根の上を駆け出すのと、男が「リヴァイ」と口にするのとはほぼ同時だった。貧しい町のトタン葺きの屋根ではあの男の巨体は支えられまい。そう思っての行為だったのに、ふと振り返ってみると、小柄な男が追いかけてきているではないか。どうやら素直に帰してはくれないらしい。


祥子
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