僕はシガンシナ区を初めて訪れた時、人や建物はこんなにちっぽけなものなのかと思った。僕の顔を呆然と眺めている姿はなんとも滑稽で、これからその顔がくずれるのかと思うと背中がぞくぞくした。
壊された壁の中で慌てる人たちを、僕はアリのようだと思って見ていた。
でもその中に、馬鹿みたいに騒いでいる奴らの中に、一人だけ美しく生きている少女を見つけたんだ。僕はその子から目が放せなくなって、その場に立ち尽くしていた。
彼女の大きな瞳が、僕を捕らえて。
「ベルトルト、集中しないと怪我をしてしまう」
下の方から聞こえた声に意識が現実に引き戻される。
ああ、そうだった。今は対人格闘の訓練中で、僕は名前の相手をしていて。
「体調が悪いなら少し休んだ方がいいんじゃない」
「…いや、大丈夫だよ。続けようか」
心配そうな瞳で僕を見上げてくる名前は僕の頭を刺激した。
君を初めて見たとき、僕はすぐに分かった。君は、瓦礫の下のモノにお母さんお母さんと縋り付いていた、あの時の。
「私のこと、嫌い?」
そう言われるまで、自分の顔が歪んでいることに気がつかなかった。
僕は自分でも知らないうちに、あの日のことを引きずっている。最初は罪悪感なんてなかった。僕は僕の使命を果たしただけで、それが僕ら人類のためであると信じていたから。ライナーもアニもいて、僕に怖いものなんてなかったから。
でも、でも訓練兵になって、僕は“被害者たち”に出会って、巨人を憎む人たちに出会って、いったい何が正解なのか分からなくなった。僕は、“加害者”なんだろうか。毎日同じ場所で寝泊りしている彼らは、僕を見たら巨人だと罵るのだろうか。
「…嫌い、だよ」
君のお母さんを、人を殺したのは僕だ。そんな僕が君を好きになるはずなんてないし、それを知った君が僕を好きになるはずなんてない。だから、嫌いだ。
「そう。でも私は好き」
たまに復讐されているんじゃないかと思う時がある。君のその訴えるような目も、誘うような魅力的な唇も。僕はそれに溺れて、堕ちて、終わりに向かうんだろうと。
自嘲気味に笑っていると、不意に視界がくらりと傾いた。名前に足払いを食らわされたのだ。気づいた時には遅く、僕の体は仰向けで堅い地面に倒れ込む。その後すぐに、名前は僕の上に跨って喉元に木製ナイフを突き立てた。
「言ったじゃない。ちゃんと集中しないと怪我をしてしまうって。」
僕の目を真っ直ぐに見詰めたまま、彼女は静かに言った。背中の痛みに唸るしかない僕はできる限りの力で名前を睨んだ。そんな顔もできるのね、にやりと笑う。
「不意をつくなんて、狡いんじゃない」
「実戦において、狡いなんてもの、通用しないわ。油断した貴方が悪い」
上から見下ろされることに納得がいかなくて、僕は力づくで名前を引っ張り体勢を逆転させる。僕が上に覆い被さっている状態なんてあまり褒められたものじゃないけれど、対人格闘の時間は別。
僕を見詰める名前は驚いた顔のまま固まっている。その表情はやっぱりキレイで、あの時が自然と脳裏を過ぎった。僕も、動けなくなる。
「ベルトルト、退いて。…皆が見てるわ」
「君も、周りの目を気にすることがあるんだね。驚いた」
「少なくとも、この体勢はね」
触れてみたい、そう思った僕はより一層白い名前の頬に指先を滑らせた。くすぐったいのか、名前の肩が小さく跳ねる。すべすべとした肌触りはもちろん男のそれより柔らかくて、触っていて不快な気持ちになることはなかった。そのうち、白かった頬は赤く熱を持つ。
「やめて。変な期待はしたくないのよ」
困ったように眉を下げる名前の表情は初めて見るもので、存分に頭を刺激された。
「期待って、何を期待するの」
「ベルトルトが自分から私に触れるなんて、それだけでも大きな一歩だわ」
未だ火照っている顔を歪めて僕に拘束されている腕を解こうともがく。彼女の細い腕が僕に敵うはずもなく、すぐに力果てた。それを見計らって、僕は唇を名前の耳元まで寄せた。
「僕は君が嫌いだ。これ以上傷つきたくないなら、もう近づくべきじゃない」
言われることを予想していなかったのか、元々大きな名前の瞳がさらに開かれた。その中に映る僕はなんとも酷い顔をしている。情けない顔だ。相手を傷つけるようなことを言っておいて、自分で傷つくなんて、なんて馬鹿なんだろう。でも彼女を近づけるのも、馬鹿なことだ。
「………なんで」
その先の言葉は言わなかった。ただゆらゆらと瞳が動くばかりで。
僕は名前の上から退くと彼女の手を引いて起き上がらせた。倒れてしまった為に二人とも砂だらけだ。それをパンパンと払えば砂が空気中に舞って、目に入ったのか目頭が熱くなった。
(僕を見詰める君は、あの日の君と同じ。)
愛子