ザァ―――…と、雨の降る気配に名前は固く閉じていた目をぱちりと開いた。
「………っ、しまった……」
ここは高い木の上。地下街で嫌なことがあって何もかもから逃げ出したくなる時はいつも高いところに上ってやり過ごしていたから、つい癖でそうしてしまった。しかしひとつ誤算があった。…地下街では、雨が降ってくることなどなかったのだ。
下りられるだろうか。だんだん濡れてくる木肌を感じながら名前は地面を見下ろした。流石に病み上がりでここから飛び降りたら無事ではいられないだろう。しかし枝もろくにない。幹に足をかけたら滑ってしまうのは予想がついた。
なんて失態だ。雨なんてものは全く考慮に入れていなかった。ああもう、地上にあがってから自分は馬鹿なことばかりしている。
「おーい、名前―――!」
ふと耳を澄ませば、遠くから自分の名を呼ぶ声まで聞こえてきた。あのクソガキに違いない。まだ声は遠くにあるが、こんなところを見られでもしたら、それこそ耐えられない屈辱だ。
どうにかしなければ。でも、どうしたらいいのだろう?
寝る前のエレンの言葉もまだ完全には消化し切れていない。そもそも地上に来てからのさまざまなストレスもまだ抱えたままだし、エレンを庇った時の体の傷も癒えていない。
「名前、か?」
もう、だめだ、そう思ったまさにその瞬間に真下からそんな声をかけられた。
「…ッ!?」
名前はびくりと肩を震わせた。その拍子に濡れた木肌に足を取られて、ずるりと体が滑った。どうにか枝にしがみついたが、心底肝が冷えた。
いや、それよりも。幾ら動揺していたとはいえ、こんなに近くにいる人間の気配が、声をかけられるまで分からなかった。そちらの方が深刻な問題だった。自分は本当に腑抜けになってしまったのだろうか?人間の気配など、全くしなかったというのに。
「おれはライナーだ。…分かるか?」
ばくばくと激しくなる鼓動を落ち着けようと深く息を吸いながら、名前はどうにか首を横にふった。名前がその男を知っているかどうかがこの状況においてそんなに大事なことだとも思えなかったが。
「お前を探してくれってエレンに頼まれててな。…もしかして、降りられないのか?」
その質問を肯定するのはかなり屈辱的だったが、どうせ返事をしようがしまいが降りられないのは誰から見ても明らかだった。名前はわずかに首を縦にふった。いっそのこと泣き喚いてしまいたくなった。だが、これ以上の醜態など晒せない。
「そうか。…………じゃあ、飛び降りろ。受け止める」
「………は、…なんだって?」
ライナーとかいう男の言った言葉の意味が分からなくて、名前は思わず意地を張ることも忘れて間抜けに聞き返していた。
「だから、その枝を離せ。俺が受け止めるから」
「…そんなこと、できるわけ…」
「エレンとミカサにそんな姿を見られたいのか?」
遠くではまだエレンが自分の名を呼ぶ声が響いている。ライナーにまで声が掛かっているということは、ミカサやアルミンも当然自分を探しているのだろう。正直なんで自分がそこまでして探されているのかは理解できないが。そして、エレンと名前の仲が悪いということは104期の人間なら誰でも知っていた。
「…っ」
これは、大きな借りだ。名前は脳内で、こんなところをエレンに見られる屈辱と、ライナーというよく知りもしない他人に助けられることとの重さを天秤に掛け、瞬時に判断を下した。これはとても大きな借りになるが、それでもエレンに見られるよりはましだ。
この自分が、こんな醜態を晒して、挙げ句の果てには他人に助けられるなんて。地下では到底考えられないことだったのに。
もうどうにでもなれ。そう思って名前は飛び降りた。下で腕を広げて待っているライナーめがけて。
「…っ!」
永遠にも一瞬にも思える落下のあと、名前はがっしりとした腕の中にしっかりと捉えられていた。数秒、まるで抱き合っているかのような体勢のままで衝撃を逃す。
それはとても不思議な感覚だった。自分の身体のすべてを、体重のすべてを、投げ出して受け止められた。傷ひとつつかなかった。ライナーはどうやら彼自身のその大きな体で衝撃をほとんどすべて受け止めてしまったらしかった。
「っ、名前、………だいじょうぶ…か?」
「……なん、で、…怒りもしないんだ」
ライナーの目線がこちらへ向けられるのが分かった。自分の声が震えているのが情けなくてしょうがなかった。勝手にあんな高い木へ上ってしまった自分のことを詰る言葉が来るだろうとばかり思っていたのに、だから名前は顔を上げられずにいたのに、ライナーの声は穏やかだった。
「………正直お前は意地でも下りてこないんじゃないかと思ってたからな。無事に下りてきたならもうそれでいい。だけど心配かけたことは謝れよ」
今度こそ涙が溢れた。勝手に逃げ出して勝手に自分じゃ降りられないような場所へ行って、自分のしたことなのだから当然自分ですべて責任を取らなくてはならないのに、その責任まで丸投げにして彼に受け止めてもらったかのようで。
「な、泣い…!? おい、名前…!?」
だめだ。今離れたら泣き顔を見られる。…泣き顔を見られるのは、いやだ。それしか考えられなかった名前は、今の自分の体勢も考えずにライナーの服に顔を押し付けて泣いた。ひどく動揺しているライナーになど構っている暇はなかった。
ああ、久しくこんなに泣いたことなどなかったせいだ。声の殺し方も忘れてしまった。
「うっ、うっ、うああああ―――っ!」
―――まさか、この世界に、自分を受け止めてくれる腕があるなんて思っていなかったのだ。知らなかったのだ。パンをくれる人間がいるとも思わなかったし、教官に叱られた後に慰める声があるなんてことも知らなかったし、喋ったこともないのにわざわざ自分を探しにくるような人間がいるとも思っていなかった。心配なんてものをされるとも、全く考えてみたこともなかったのだ。
「ライナー!名前はそこか?…って、…もしかして、そいつが」
「言っておくが俺が泣かせた訳じゃない!…たぶん!」
「そいつ、本当に名前なのか…?」
数人分の足音と、今会いたくなかった少年の声が近づいてきた。顔を覗きこまれるような気配がして、どうにもしようがなくて目の前の布に顔をうずめれば、ライナーは庇うように腕で名前を抱き込んでくれた。エレンには見られたくないということを察してくれたらしかった。
「女子の泣き顔なんて覗くもんじゃないだろう。エレン、お前結構な人数に声かけてただろ?もう見つかったと知らせたらどうだ?まだ探してるやつもいるだろうし」
「あ、ああ…そうだな。ミカサ、アルミン、手伝ってくれ」
そして、数人分の足音と少年の声は去って行った。
ライナーは腕の中の名前を見下ろして、ふぅ、とひとつ溜め息をついた。
本当は、下りてきたら説教のひとつでもかまそうと思っていた。今までも名前はエレンやミカサとたびたびつっかかっては訓練兵内部の秩序を乱してきたし、一度どこかでしっかり言っておかなければならないと思っていたから。
『っ、名前、………だいじょうぶ…か?』
『……なん、で、…怒りもしないんだ』
『………正直お前は意地でも下りてこないんじゃないかと思ってたからな。無事に下りてきたならもうそれでいい。だけど心配かけたことは謝れよ』
けれどあの時叱れなかったのは、名前の震えている姿が、いたずらが過ぎて怒られるのにおびえる子供のようだったからだ、とは本人にはとても言えないけれど。
きっと、これからは訓練兵内の空気ももう少しよくなるだろう。ライナーはそう確信した。
祥子