医務室が空だったのを不審に思って名前の姿を探していると、教官室から出てくるのを見付けた。自分のせいで怪我をさせてしまった事もあり、エレンは名前に声を掛けようと近付いた。しかし、いつになく荒っぽい足取りと、何かを堪えるように張りつめた雰囲気に声を掛けることを戸惑っていると、あっという間に彼女は物陰へと消えてしまった。

何があったというのだろう。教官に酷く怒られたのだろうか?だが彼女がそれくらいであんなにも肩を張りつめるとは――まるで、泣くのを堪えているような姿になるとは思えなかった。

『ここでなら、暴れても……』

やっと探し当てた彼女は、まるで泣いているようだった。息は荒く、何かを堪えるように自分の体を押さえつけていた。

「………名前?」

思わず呟いた彼女の名前が、思いの外大きく響いたことに自分でも驚いた。どうやらこちらに気付いたらしい彼女の瞳が、今まで見たことがないほどに見開かれた。

「………なん、で…」

その顔が、一瞬泣きそうに歪んだかと思うと、次の瞬間には見慣れたあの鋭い眼差しがこちらに向けられていた。

「どうしたんだよ、お前。…あ、教官室に行ってたんだろ?教官に怒られたのか?」

いつもだったらそんな名前の態度に反発してエレンも突っ掛かって行くところではあるが、先日見た泣き顔が浮かんで、何となく穏やかな気持ちになった。ミカサやジャンを越える程の立体機動の才能を持っていても、憧れの兵長に見いだされた希代の新兵であっても、日頃どんなに愛想の無い態度を取っていたとしても、彼女だって涙の出る普通の少女なのだ。

「気にすんなよ、俺だって怒られたことくらいあるし、むしろ怒られない奴の方が珍しいくらいなんだから」

「お前に、何が分かるというんだ」

鋭い眼差しに射抜かれた様な気がした。声は地を這うように低く、囁かれた程度のものだったが、怒鳴られるよりもむしろエレンの胸を衝いた。

「何が分かるって…お前だって見てただろ、俺が初っぱなの立体機動で恥晒したの。俺だって結構傷付いたんだぜ。でも、怒られるのも失敗するのも当然だろ。俺のあれは機械の故障だったけど」

「だから何なんだ?お前が叱られたのと、今おれ…私に言葉を掛けるのとに、どんな関係があるっていうんだ」

「は?何言ってんだよお前。慰めてやってんだろ。励まし合う友だちとかいなさそうだもんな、お前。別にこれからは俺とか、あとアルミンも多分、」

「何だと…?」

エレンの言葉の何が名前の気に障ったのかは分からないが、名前は俄かに頬を紅潮させた。怒りにか、それとも羞恥にか、握りしめすぎた拳がかたかたと小さく震えている。

「名前…?」

「慰めなど要らない!馬鹿に…馬鹿にするなっ!」

そして名前はくるりと背を向けて、逃走するようにその場を走り去った。

「は…?何だよあいつ、意味わかんねぇ…」

怪我をしているはずなのにほぼ全速力で走っていった名前を、エレンは呆気にとられて思わずすんなりと見送った。確かに軽口を叩きはしたが、何もあんな顔をすることはないだろうに。

しかし、放っておくわけにもいかない。エレンはとりあえず名前の走り去った方向へと足を向けた。





「―――ってあいつ足早ェよ!どこまで行ったんだ!」

探すこと十数分。名前の影も形もそこにはなかった。いつの間にか雨まで降ってきて、予定されていた野外訓練は延期になってしまった。おかげでサボることなく探せるのはいいが、一人ではいい加減埒が明かない。

「…こうなったら…」

エレンは野外を探す足を止め、一旦屋内へと戻った。





馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするな―――!

頭の中でリフレインする『慰めてやってんだろ』という言葉を掻き消すように、名前はひたすら手を固く握りしめながら走り続けた。

自分を負かしたエルヴィンやリヴァイに言われるのならばまだいい。それは強者が弱者に掛ける言葉だ。だが、なぜいくら立場が同じとはいえ、恐らく本気を出せばすぐにでも殺せるような少年にまで下位に見られなくてはならないのか。

我慢は幾度も限界を迎えていた。その度に抑えていた何かの箍が外れた。仕置きをするならすればいい。もう耐えられない。耐えがたい屈辱だ。

『なぁ、慰めてやろうか?』

『ほらこっち来いよ、こんな最低な世界なんだぜ?慰めてやるっつってんだろぉ』

不意に、地下にうじゃうじゃといた下卑た男たちの言葉が思い出された。女・子供と見ればすぐにそんな風に声をかけ、薄汚い路地裏で薄汚い言葉と手をうごめかしていた男どもの言葉が。

―――嗚呼、汚い。汚い。それが許されるのは強者のみだ。私に向かってそんな言葉を、吐くな。

「……はっ、はぁっ、はぁ…っは、ああ……ふ、は」

喉のあたりが締め付けられるようだった。息ができない。たったこれくらい走っただけではこうはならない。汚らしいものを思い出したからこうなったのだ。こうなった時の対処法を名前は幼いころからすでに知っていた。

どこか人のいないところへ行き、目を固くつぶって全てから逃避する。一時的に全てをシャットアウトする。そしてしばらくすればまた生きられるように、生きるために動けるようになるのだ。

地下街でならば大抵誰も到達できないような高い建物の上に上り、その排気口のそばでうずくまっていたものだった。けれどここではそれはできない。あたりを見回した名前の目に、訓練で使う巨大な森の巨大な樹が映った。

…あそこでなら、何に悩まされることもなく眠れるだろうか。



祥子

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