海軍には暗号解読課というものがある。海軍の裏切り者として手配書が回るようになった頃、クザンは、昔そこに在籍していた元部下を訪ねてシャボンディへと来ていた。今ではドレークのもとで海賊をやっている元部下であった。
酷く驚いた顔をされたけれども、戦争を映している映像電伝虫がひとつ残っていたらしく、事情を知っていた彼には割合快く“お願い”は聞いてもらえた(脅しておいて快くも何もあるか、というのは彼の現船長であるドレークの言葉である)。
「ばれたら殺されっかなァ…」
手にしているのは、名前の部屋から勝手に持ち出した十数冊のノートだ。何故彼女が未来を知っているのか、ゆっくり話し合う時間も無かったのだから、緊急事態ということで許してもらえるといいのだが。
そして、優れた解析官であった元部下のお陰で暗号は割とすぐに解けた。26の子音と5つの母音の仕組み、文法さえ分かってしまえばあとは地道に読んでいくだけである。
そして解読した日記には、クザンの知りたかった全てのことが載っていた。名前の過去、未来を知っている理由、そして率直な名前の心情すらも。まさか解読されるとは彼女とて夢にも思っていなかったのだろう、日記には見るのに罪悪感を抱いてしまうほど露わな彼女の思いが全て書き連ねられていた。
クザンは、サカズキといずれ戦わなければならなくなることを知った。
そして、最早サカズキに情けを掛けられる理由も無い今、彼女の知る未来とは違った結末を迎えてしまうかもしれないことも。
けれどもし自分が死んだら彼女は泣くだろう。全く素直では無かった彼女だけれど、全く思われていない訳ではないということは分かる。
『あなたを巻き込むつもりなんてなかった。それなのに…』
そう言ったときの悔しそうな、不本意そうな表情をよく覚えている。自分のせいでクザンが死ぬなんてことになったら泣くどころでは済まないかもしれなかった。彼女を泣かせることは本意では無いのだが。
*
「いやー…やっぱ無理かも…名前ちゃんごめん」
「何をぶつぶつ呟いとる、クザン…!今更もう何を言っても遅いんじゃけェ、おとなしくわしに殺されんか!」
「それはちょっと…幾ら俺でも、そこはめんどくさがってらんねェんだよなァ」
どうにか逃げ回ってもうすぐ一年と半年が過ぎようかという頃のことだった。サカズキに見付かって、どうせ民間人や周囲への被害とかそういうものを全く考慮しない男が相手だったので人の居ない島に誘導して、名前が日記に書いてあった通りの展開になったのは。
そして、何やかんやで右足と左腕を途中まで溶かされ、まさに絶体絶命の危機が訪れたその瞬間。襲い来るマグマの右腕を、勢いよく飛来してきた何かが途中で止めた。
「その勝負、ちょっと待ったァ!!」
ああ何だかこの光景は一年半前に見たなァ、だなんて呑気な感想が浮かんだ。
*
「へぇ、そんじゃ惚れた女の為にやったけどその女はついてきてくれなかったってワケ」
「あーまあそんな感じ」
「ちょっと待て仮にも元大将が何でそんな馴染んでんだよッ!!」
上から順にサッチ、クザン、エースである。力一杯突っ込んだエースにサッチはからりと笑った。
「お前、真っ先に飛び込んで助けた癖に何言ってんだァ?」
「うるせェ!助けられっぱなしってのが嫌だっただけだ!」
その周りにも何やかんやと人が集まっている。一年半前の恩返しに、と白ひげ海賊団が駆けつけてくれたらしかった。まあ一応それも計算に入れて派手に立ち回り、動向は知られるようにしてあったのだが。何せ一対一でまともに戦って勝てる相手ではないのだ。日記にあった『氷とマグマで氷が勝てる訳ないでしょうが』という名前の有り難いお言葉のお陰である。
ちなみにサッチとエースは日記に出てくる頻度がいちばん高かった。示唆はしたもののきちんとサッチが助かるかどうか、名前はどうも随分気に掛けていたらしい。こうして生きていると伝えたら少しは怒りも収めてくれるだろうか。
「意外と迎えでも待ってんじゃねェの?その名前チャンって子も」
「あー…希望的観測ってやつね…」
「何だァ?世紀の大将様が随分弱気じゃねェか」
最初は恐る恐る遠くから窺っていた他のクルー達も、偉大なるオヤジであるところのエドワード・ニューゲートが警戒を解いたと見るや否やまとわりついては末っ子を助けた礼だの名前を落とすコツだのを言い交わし始めた。
ちなみにエドワード・ニューゲートが警戒を解いた理由は、“女一人の為にやったってんなら納得がいくから”だそうだ。意味が分からないが、正直重傷を負った身で更に白ひげを相手にするのも疲れるので助かった。
そして馴れ合わない程度にクルー達と交流をしている内に、当然話は何故エースを助けたのかということになり、その流れで名前のことまで知れ渡ってしまっていた。
「名前チャンは青雉に惚れてるに1000ベリー」
「じゃあおれァ大穴で名前チャンはエースに惚れてるに2000ベリーだ!」
賭まで始まっている。休息が取れるなら何でも良いと思っていたが、この喧噪の中ではろくに休めそうにもなかった。かといって部屋に戻る為に誰かの手を借りるのも気が向かない。思わず溜め息を吐くと、「てめェらうるせェぞ。一応怪我人なんだ、安静にさせとけよい」という特徴的すぎる言葉と共に誰かが歩いてくるのが分かった。誰かというかマルコである。
「あー…不死鳥マルコ………礼は言うべきか?」
「要らねェよい。それより何か要るモンはあるか?生憎だが船を歩き回らせる訳にもいかねェんでな」
警戒が解けたと言ってもついこの間まで相容れぬ宿敵同士だったのを完全に何のわだかまりもなく打ち解けた訳ではなかった。そして最低限の警戒の役目を担っているのがこのマルコという男であるようだった。
別にいいんだけどね、と前置いてからクザンはだるそうに言葉を続けた。
「海賊船ってのは酒しか飲まないわけ?さっきから水っつって出てくんのが酒ばっかなんだけど。それともこれが酒に見えるのはおれだけか」
「あァ?…水みてェなもんだろい、そんな薄い酒」
とは言いつつも彼は水を取りに立ち上がってくれた。同時に周囲から人が引けて、ふっと息を抜く。エースを助けたのは完全に個人的な下心なのであんまり恩義を感じられてもクザンにとっては居心地が悪いだけだった為、マルコくらいの距離感の方が良かった。とはいえ彼も例に漏れずしっかりと「末っ子を助けてくれて感謝する」と礼をしてきたのではあるが。
「ほらよい」
「ああ、サンキュー」
「で、名前とはデキてんのかよい」
さらりとそんなことを聞かれてクザンは思わず水を飲もうとしていた手を止めた。聞かれた内容自体はさっきから話題にされていることなので今更動揺したりはしないが、さっきまで警戒心溢れる鋭い目つきでこちらを睨んでいたマルコがまるで世間話でもするかのようなノリでその質問をしたことには少々動揺した。
「同じ飛翔系だしねい、目を付けてたんだが」
「………あー………博識な知人ってのはあんたのことか…」
「は?」
「いや……こっちの話」
いつだったか急に能力を扱えるようになっていた名前の言葉を思い出してクザンは頭を抑えた。あの時はまだ名前はがっつり海兵であったというのに。
「残念ながら目を付けてたのは俺のが先だ。俺が食べさせたからなァ、悪魔の実は。悪いが諦めてくれ」
「別に横から攫うつもりは無ェよい」
可笑しそうにマルコは笑ったが、言葉には呆れが含まれていた。そんなに大事なら何故傍に置いておかないのかと。そんなことはクザンだって思っているのだが。
「名前はまだ海軍に居んのかよい」
「あー…らしいね」
「攫うってんなら協力は惜しまねェがどうする」
「………人さらいってねェ」
にやり、といかにも海賊らしいあくどい笑みを見せたマルコに、クザンは思わず溜め息を吐いた。しかし、そういえばその手段があったのだ。
「何言ってんだ、もう立派な札付きだろうがよい」
「まァ、それもそうだな」
攫う。攫ったところで攫われてくれるような女でもなければそもそも男である自分がそういう対象になるのかすら分からない女が相手であるせいでみすみす一年半も離れたままであったが、攫ってしまえばとりあえず距離は近くなるんだろうな、とクザンは思った。
確かに頼まれた訳では無かったにしろ、仮に名前の話を聞いて行動を起こしたクザンについて来なかったどころかちゃっかりと海軍に居続けているような女である。心の距離は限りなく遠いような気もしたが、とりあえず人肌が恋しくなって久しい。面倒なことは攫ってから考えようか、とクザンは水を一気に呷った。
「俺も限界だしね、色々と」
咽せるような酒の香りではなく、そろそろ名前のあのあまやかな香りを嗅ぎたいのだ。
祥子