「お二人はいま暇ですよね」
ずいっと顔を私たちに寄せたサシャは何かを企んでいるようににやりと笑った。私とマルコはお互いに顔を合わせて、まあ、とつられるように呟く。
「水浴び、しません?」
悪い顔をして今日の教官の予定を報告するサシャは、日頃の訓練から解放される休日にうきうきしているようだった。遠くの方ではコニーがバケツを持ってサシャを呼んでいる。また水浴びなんてするの?そう言おうとしたけれど、それはマルコの言葉にかき消された。
「たまにはいいね。名前、やろうよ」
たまには。マルコの言葉に違和感を覚えて、私は開いていた口を閉じた。そう、だよね。水浴びなんて、私たち、一度もしたことないよね。何やってるんだろう、私。行こうよ、と手を差し出すマルコはいつも通り、変わったところなんてない。「…あり、がと」マルコの手をとった私の声は、ひどく乾いていた。
あの日――初めてマルコと話をしてから、私はマルコやジャンと過ごすことが多くなった。最初はジャンが苦手だったけれど、間にマルコがたっていてくれたし、それに心のどこかで彼は優しい人なのだと感じていて、次第に打ち解けていった。感じていた、よりもわかっていた、の方がしっくりくるかもしれない。それくらい、私は二人のことをよく知っていた。話したことなんて無かったはずなのに、二人をとても距離の近い存在だと思っていた。でもそれを二人に話してしまうのは、なんだかおこがましい気がして。
ジャケットを脱いでシャツの袖を捲る。ブーツを脱いで裸足になれば、地面の熱を直接感じた。サシャとコニーだけだと思っていたけど、水場には沢山の人が集まっていた。その中にはライナーやベルトルトの姿もあって、驚いた。
これ、サシャにかけようぜ。なんて悪い顔をするコニーは一番大きなバケツいっぱいに水をくんだ。零してしまいそう、そう心の中で思った矢先、コニーは手を滑らせて、バケツの中の水は派手な音をたててコニーに降り注いだ。やっぱり馬鹿だ、ユミルやサシャはそんなコニーを見て声をあげて笑った。
「はは、コニー、たんこぶできてるよ」
目尻を下げて笑うマルコの横顔に、胸が暖かくなった。目が合って、一瞬驚いた顔をして、それから優しく笑う。それだけのことなのに、私の心臓はドキドキと大きく鳴った。エレンやアルミンとは違う、ミカサとも違う、マルコにだけ向けられている特別な感情が、私の中にある。知っているようで、知らない感情。生まれて初めてのことに、私は戸惑っていた。
「濡れちゃったな。タオル、取ってこようか」
その場を離れようとするマルコの腕を、私は思わず掴んだ。マルコが驚いて振り返る。私も、自分の行動に驚いていた。マルコに、離れて欲しくなかった。傍にいて欲しかった。どうしてそう思ったのかは、私にもよく分からない。
「名前?」
「…あ、えっと。タオルなら、ジャンが持ってきてくれると、思う」
「ジャンが?」
なんの根拠もないのに、私は咄嗟にそう答えた。マルコが、びっくりしている。何か言わなきゃ、そう思うのに言葉が出てこない。でも手を離すことも、出来ない。私もマルコも困り果てていると、ジャンが三人分のタオルを持ってマルコの肩を叩いた。「何してんだ?」私とマルコの頭にタオルをかぶせたジャンは私たちの顔を交互に見詰めた。「何も、ないよ」ジャンの登場に我にかえった私は、マルコの腕を放した。
胸がざわざわと音をたてる。私たちは兵士になるためにここにいる。ちゃんと訓練をして、将来それぞれのやり方で巨人と戦う為に、人類の為にここにいる。でもこの訓練兵団は、とても平和だ。私たちはこれから巨人と戦うということを忘れてしまうくらいに、平和。こんな日々がずっと続けばいいのにと願ってしまう。でも、この平和は長くは続かない。きっといつかは巨人が襲撃してきて、私たちは戦わなければならなくなる。こんなつかの間の平和は、幻にしかすぎない。
「名前はすごいね」
顔をあげたら、マルコは興奮してように笑っていた。ジャンも少し驚いているみたいだ。首を傾げたら、マルコはほら、とタオルを突き出した。
「本当にジャンが持ってきてくれた。名前の言う通りだ!」
「なんで分かったんだよ?」
嬉しそうな二人を見ていると、自分の考えていることがちっぽけに思えた。たとえ束の間だとしても、今は今で、未来は未来だ。この先何が待っていようと、私たちがいま幸せなことに変わりはない。それに、巨人が襲う未来がない可能性だって、あるんだから。
「なんでだろ?わかんないや」
こうして三人で笑っている、それだけでいいなんて考えた自分を恨む日が来るなんて、この時は思いもしなかったんだ。
愛子