「ここ、空いてるよ」
座学の講義前、空いている席がなくて困っていた私に声をかけてくれたのは、一番後ろの席に座っていたマルコだった。苦手なジャンがその隣に座っていたけど、教官が来てしまったので私は失礼しますと一言だけかけて、マルコの隣に座った。
立体機動訓練のあとの座学は、いつも決まって眠たい。キース教官の厳しさから解放されることもあって、どうしても気が緩んでしまう。それが一番後ろの席だとなおさらだ。落ちてくる瞼を必死に持ち上げながら、私は休憩時間にしていた考え事の続きを再開した。
一週間くらい前から、ずっと頭にもやがかかっているみたいにはっきりとしない。起こる出来事や皆の言葉はどこか知っているようで、小さい頃に呼んだ本をまた読み返しているような、不思議な気持ちになる。すべてが分かるわけじゃないし予想ができるかと言われれば違うのだけど、やっぱりどこか見覚えがある。でもそれを感じているのは私だけ。アルミンやエレンに相談してみたけど、取り合ってはくれなかった。
(気のせい、と言われればそれまでなんだけど…)
瞼はどんどん落ちてくる。このところ毎日同じ夢を見てしまうから、まともに眠れなかった。地震と悲鳴と真っ赤な血が、頭にこびり付いて離れない。教官の声が遠くなる。ペンを走らせる音やページを捲る音が小さくなって、私は目を閉じた。
わいわいがやがや。楽しそうな食事風景の中で、私はひとり涙を流した。憲兵団になれなくて悔しい。彼に会えなくなるのが辛い。こんなにも好きなのに、私の唇は震えるだけで声を出してくれない。しょっぱい味が口の中に広がる。
「名前、そんなに泣かないで」
私の頭を撫でてくれる優しい手。私はその手が大好きで、やめてほしくなくて、また俯いた。涙がポロポロとこぼれ落ちていく。好き、好き、大好き。もっと頭を撫でてほしい。抱きしめてほしい。キスをしてほしい。放してほしくなんかない。ずっと一緒にいて、私の傍にいて。このままあなたと一つになってしまえたら、それさえ願ってしまう。
「名前、約束しよう」
すぐ近くに聞こえた声に、私は顔をあげた。私には眩しすぎるくらいに、あなたは笑ったんだ。
「名前」
突然肩をゆすられて、私ははっと目を覚ました。皆の視線を感じて、一気に目が覚める。
「お前、また居眠りしていただろう」
遠くに見える教官が私に向かって大きな声で言った。最初は何が何だか分からなかった。ああそっか、今は座学の講義中で、私は居眠りをしていて…。
「す、すみません…」
じわりと汗が滲む。教官は謝ればすぐに許してくれた。ドキドキと心臓が激しく脈打つ。
眩しいくらいの、笑顔。そんな笑顔、知らない筈なのに。どうしてこんな夢を見るの。
「ごめん。もう少し早く起こせば良かった」
ちょんちょんと肩をつつかれて、私は隣を見た。申し訳なさそうな顔をしたマルコが私を見詰めている。どこまでも優しい瞳。ざわざわと心が騒いだ。マルコ、ぽつりと出た言葉は小さくて、彼には届かなかった。
曖昧とした夢の記憶の中で、ひとつだけ覚えていること。私の頭を撫でてくれたのは、マルコだった。私とマルコはあまり親しくない。話したのだって何回かしかないし、頭を撫でられたりするような仲じゃない。なのに私は、マルコに縋りたくて縋りたくて仕方がなかった。私の、知らない感情。
「名前」
声を潜ませて、マルコは私を呼んだ。その声に、私はビクリと肩を揺らす。今までだって何度も名前を呼ばれてきた。そう、思うのに。私の中にそんな記憶はなくて。どうしてそう思うのか、私にも分からない。
「な、に」
「名前はいつもミカサたちと一緒にご飯を食べているだろ?それで、もしもしよければなんだけど、今日僕たちも一緒に食べていいかな」
マルコの奥で、ジャンが私を睨みつけている。前は私を嫌っているから睨んでいるんだと思っていたけど、今はそうじゃないって知ってる。あれは、ただの照れ隠しだ。ジャンはミカサが好きで、ミカサと一緒にご飯を食べたいから、私を誘っているんだ。―――前は?
「……あ、うん。もちろんいいよ」
自分の中に知らない自分がいる。そう感じ始めたのは、もうずっと前からだった。
愛子