さざ波の音だけがあたりを支配する小さな丘で。夕焼けに混じって、小さくメロディーが流れてきた。聞いたことのない、しかし郷愁を掻き立てるような、胸をかきむしられるような、そんな歌だった。声の主は決まっている。ベックマンは気配を殺して音の元へと向かった。
ゆうやけこやけで日が暮れて、やあまのお寺の鐘が鳴る
おててつないでみなかえろ、からすと一緒に帰りましょう
風にはためくやわらかな布地が、彼女の細い体の線を浮き出させていた。海賊の体と比べれば、あまりにも細く柔らかで、消えてしまいそうな体。
後ろ姿があまりにも儚く見えた。寂しいのか。そう口をついて言葉が出そうになった。けれど人がいることに気付いたら、歌は止んでしまう気がした。どうせなら最後まで聞いてやろうとベックマンは煙草を握り潰してその場にそっと佇んだ。
子供が帰った後からは、まあるい大きなお月様
小鳥がゆめをみるころは、――――
子守歌のような、わらべうたのような、切ない響き。歌が不自然に途絶えたのと同時に、燃ゆる太陽の最後の一片が海の向こうへとぷりと沈んだ。代わりに、満月とまでは行かない月がその存在を主張し始める。
「…ベックマンさん?」
手摺りにもたれ掛かって、視線は海へ向けたまま名前が小さく呟いた。こちらを見てもいないのに、どうやら気付かれていたらしい。
「…ああ、そうだ」
「ふふ、やっぱり。煙草のにおいがすると、思いました」
名前はこちらを見ない。ベックマンは少しばかり名前との距離を詰めた。泣き出したならすぐに涙を拭ってやれる距離、気付かれたくないのならすぐに離れてやれる距離で。
「ちょっと感傷に浸ってたんです」
「そのようだな」
「なんか、ちょっと、無性に寂しくて。…歌ってたら誰か気付いてくれるかなあ、とか、気付いてくれるとしたら誰だろう、とか…考えてたんですけど、…最後の歌詞、忘れちゃってて、より寂しくなりました」
相変わらず名前はこちらを見ない。口調は平坦で、特に感情的になっている様子も無い。
「…ベックマンさんが、来てくれましたね」
返答を求めているようでは無さそうだったので、ベックマンは適当な相槌を打ちながら煙草を一本取り出した。
「……あの、今から言うのは、独り言なので…適当に聞き流してくださると嬉しいんですけど、」
肯く。火を置いてきてしまったので、煙草は銜えるだけに止めた。
「かえりたい、ところがあるんです。………あ、火、無いんですか」
話の腰を折って尋ねてくるから何事かと思えば、名前はどこに持ち歩いていたのか、ライターを取り出して寄越してきた。有り難く受け取って話の続きを促す。その間にも、名前は顔をこちらへは向けなかった。
「…こことは別に、かえりたいところがあるんです。…別に自分の境遇を悲観的に思ってる訳じゃ無いし、輪廻転生なら受け入れなくちゃいけないのかなっても思うんですけど、…というか、受け入れて今の人生を楽しまなくちゃいけないんですけど、それでも、」
また、リンネテンセイ。それが名前を苦しめているのなら、リンネテンセイとやらを殴り飛ばせば早いのでは無かろうか。ベックマンはそんな物騒な考えを抱いたが、リンネテンセイがそもそも何であるのかすら分からなかったので、取り敢えず名前の話を聞くに留めた。
「………かえりたい…っ…」
思えば、母親が死んだというのに名前は一度も泣いていなかった。微かに震えるその細い肩に、触れてもいいのか駄目なのか。まるで分からない自分がガキ過ぎて情けなかった。
もっと歳を重ねればこの劣情への対処も分かるだろうか。あるいは己の青ささえ笑って酒の肴にできるのだろうか。どうでもいいから今この時をさらりと受け流せるだけの、震える一人の女の肩を支えてやれるだけの余裕が欲しい。
「あたっ…頭では、わか、分かってる、のに…っ…この世界でも、ひとりじゃないし、シャンクスさんとか、ベックマンさんたちがいるって、分かるのに…っ、この気持ちをどうしたらいいのか、分からない…っ…、大声で泣き喚きたくなる…っ!悲劇のヒロインになりたい訳じゃないのに、こんな風にまたうじうじして、でも、そんな自分もイヤで、」
しゃくり上げる声は、大声で助けを求めて叫んでいるように聞こえた。
「向こうの世界のこと、もう、ほんとはあんまり覚えて無くて、歌の歌詞も、もう、覚えてなくて、でも、忘れちゃったら、もう二度と、思い出すまで分からないままで、きっと私しか知らないことがいっぱいあって………“小鳥がゆめをみるころは”のつづきも、もうどんなに知りたくても思い出すまで分からないままで、」
喉が震えていた。喉だけでは無い。肩も、唇も、声も。
「この世界には、私と繋がってるひとももういないし、…繋がりがあるって言い切れるものとか、人が、あまりにも少なくて…私、この世界に居ていいのかなって、思って。そんなの答えはイエスに決まってるんですけど、こんなことで悩む必要もないって、頭じゃ分かるんですけど、…実感が欲しいんです、わたしはこの世界と繋がってるんだっていう」
独り言だと言った。ならば声を掛けるのはルールに反するだろうか、そんなことをちらりと思いながらベックマンは口を開いた。
「おれは、どうしたらいい」
名前は驚いたように、初めてこちらを向いた。その瞳は濡れていて、頬はうっすらと上気している。少々目の毒な光景だ、とこんな時なのにそんなことを思いながらベックマンは返答を待った。
名前はどうも、大分躊躇っているようだった。それがベックマンには酷くもどかしく感じられた。躊躇ったりなどしなくていい。二の足を踏んで立ち止まっているくらいなら、こちらへ倒れ込めば良い。絶対に受け止めてやるのに、と。
「ことばを、」
名前は微かに笑みを浮かべさえしながらそう切り出した。無理をしているのは明らかだったけれど、作り笑いというわけでも無さそうな微笑だった。そう、それはベックマンも知っている、オンナという生き物の顔だった。
「ことばをください。そうしたらきっと生きていけるから」
オンナは言葉を欲しがる生き物だ。そして海賊は欲しいものを欲しがる生き物。
やっと欲しいものを口にした女にベックマンはふっと微かな笑みを返した。
「そんなものでよけりゃあ、幾らでもくれてやる。…抱きしめても、いいか?…名前」
そっと震える肩に触れる。拒絶されては困るからと許可を求めた。何も言わずに抱きしめてやれるようになれば恐らくその時やっと一人前だと胸を張れるのだろう。
名前は何も言わずにこちらを振り向き、ベックマンが作った僅かな距離を詰めた。言葉は無かったけれど、それが了承の意だった。
祥子