誰もが予想していなかった、名前ですら予想していなかったクザンの裏切り行為に、海軍は騒然とした。当然サカズキは激怒し、センゴクはあまりの衝撃に言葉も出ないらしかった。驚いたのは白ひげの方も同じだったらしいが。

結果としてエースと白ひげは死ななかった。氷の道で白ひげの退路を作って彼らを逃がし、その後も少しだけ留まって黒ひげの相手をしてから、クザンは海の彼方へと消えた。ように見えた。だが別れる直前、クザンが無声音で名前に告げた言葉の通りなら、彼はまだ海の向こうへなど行っていない。

(部屋で待ってるから)

“誰の”部屋かなど聞くまでもない。案の定、何とかサカズキのシャツの胸ポケットから脱して自分の部屋へと駆けつけ、鍵を取り出すのももどかしくドアノブを回せば、ひんやりと冷たい感触が手に伝わった。

「あ、おかえり名前ちゃん。見られっとまずいから、ドア」

言われなくともドアは速攻で閉めた。いつものだらけた様子で勝手に人の家のソファにくつろぐ上司…否、上司だった人物を睨み付ける。

「………誰が、手を出して欲しいと言いましたか」

自分でも思ってもみなかったほど、低く地を這うような声が出た。ああ、どうやら自分は思ったより怒っているらしい。この元上司が勝手に自分を助けて勝手にお尋ね者になって勝手に面倒事に巻き込まれてしまったことに。

「あなたそんなに白ひげに執着ないでしょう。彼らを救ってあなたに一体何の利があるっていうんですか。……あなたを巻き込むつもりなんてなかった。それなのに…」

「…ああ、それだ、それ」

「は?」

相変わらず指示語の多い男だ。あれとかそれで一体何を伝えられると思っているのか。思いっきり冷たい声を漏らした名前に、クザンは微かに笑った。一層怒りが募る。何故この状況で笑う。

「俺は多分、巻き込まれたかったんだよなァ、名前ちゃん」

「…………な、」

「あーそうだ。そうそう。それでだ。はー、すっきりした」

意味が分からない。意味が分からない。全くもって意味が分からない。巻き込まれたかった?普通面倒事には巻き込まれたくないものだろう。勝手にひとりですっきりしているクザンを余所に、名前は困惑していた。

「まあ、つまり、アレだ」

困惑して碌に言葉も出てこない名前の様子にクザンはもう一度笑って、徐に立ち上がった。

「名前ちゃんがあんまりにも危なっかしくて見てらんねェから。思わず手出しちゃったじゃねェの」

「………私のせいですか、私が悪いんですかコレ」

頭の中は未だにぐるぐるとしていたものの、クザンの言葉に取り敢えず言葉を返す。混乱している筈なのにいつもの軽口のやり取りのような言葉が出て来たのだから人間の頭は凄い。けれど違う、私はこんなことが言いたいんじゃない。というか勝手に飛び出したのはそっちの方じゃないか。

「で、おれはもう行くけども」

「……私は残りますよ」

混乱している割にはしれっとそんなことを言い放った名前に、クザンは非常にビミョーな顔をした。期待を裏切られたような、しかしその裏切りもどこかで予想していたような。

「……ついてくるとかそういうつもりは無いわけね」

「私がクザン大将にお願いしたのは飽くまで私のすることを見逃すことまでです」

「ふぅん。…ちなみに、おれが色仕掛けしたらおれのお願いを聞いてくれたりする?」

今度は名前が非常にビミョーな顔をした。クザンの色仕掛け。見てみたいような見たくないような…いや、やっぱり見たくない。何が何でも見たく無い。

「………やってみないと分かりませんが、無駄だとは思いますよ。そんなことに無駄な時間を費やすよりさっさとお逃げになった方がよろしいのでは」

「無駄ねェ……おれはそうは思わないけどなァ?……名前」

すっと顔が近付いてきたかと思えば、クザンの唇が名前の唇の一センチ手前でぴたりと止まった。後頭部に手を添えられ、そのままそこで喋られると、まるでキスでもされているみたいな錯覚に陥る。加えて、いつもはふざけたことしか言わない口から紡がれる真剣な声。ずるいにも程がある。こんな時だけ、普通に呼ぶなんて。

「ふ………顔、真っ赤よ?名前ちゃん」

その大きな手のひらが悪いのだ。動けないのは悪魔の実を食べた時に刷り込まれてしまったからで、決して色仕掛けに墜ちたからではない。断じて、そんなことではありえないのだ。

「そ………ういうのは狡いんですよ!いいからとっとと逃げてください、捕まったらどうするんですか!私責任取りませんからね!」

固まってしまった体をどうにか動かして、手のひらを突き放す。クザンは思ったよりもあっさりと名前を解放して扉へ向かった。逃げるつもりはあるらしい。

扉の前で、その無駄に大きな体がくるりと名前を振り返る。

「おれが、ついてきてってお願いしてもついてこないの?」

「……………ついていきません。ここで幾ら問答をしても無駄です。私は女の子が好きなんです。あなたの恋人にも妻にもなるつもりはありません。分かったら早く、」

「じゃあ、あれだ。上司命令。おれと一緒に来なよ、名前」

「……っ、お言葉ですが、あなたはとっくに大将の位を剥奪されているはずです。何度聞かれても答えはNOです」

「…それがファイナルアンサー?本当の本当に?おれのこと、本当にどうでもいいの?」

置いていくのはクザンの方であるはずが、まるで置いていかれる子どものような表情をするクザンに名前は頭痛でも堪えるように手で頭を覆った。酷い罪悪感に、気を抜くと肯いて彼の手を取ってしまいそうだ。

「………ファイナルアンサーです。答えは、NO、です」

どうでもいい、訳がない。こんなにも名前の心を乱した男はクザンが初めてだ。自分のせいで巻き込んだ。自分のせいで本来とは違う道を歩ませた。償うならばついていくべきだとは分かっている。

(だからって、今私がついていっても邪魔にしかならない)

だからこそ酷いと言われようが恩知らずと言われようが、名前はついていくわけには行かないのだ。クザンに憎からず思われていることが分かるからこそ。ついていけばクザンは自分の身の心配だけでなく名前の心配まですることになる。だから、少なくとも、今は。

――――今は?何を言っているんだろう、私は。今じゃなければいいのだろうか。

自分の思考が自分でも分からなくなって名前が呆然としている内に、クザンは扉を開けていた。もうその大きな背は振り返らない。もうその手は名前を捕らえない。だってさっきの答えがファイナルアンサーだったのだから。

「………素直じゃねェなァ、名前ちゃん」

その言葉を最後に、扉がぱたんと閉じた。


祥子
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