『私ちょっと免職もののことしますけど、見逃してくださいね…?』
珍しく色仕掛け(のようなもの)まで使っておねだりをするから、一体どんなお願いをするのだろうかと思えば、たったそれだけ。
勝手に何かするけど見ないふりをしてね、なんて。
そんなの言われなくても今更名前の立場をわざわざ危うくするような真似をするわけが無いのに。彼女はきっと、その理由すら分かってないのだろうが。
クザンは盛大に溜め息を吐きたい気分でその日の朝を迎えた。
「そんじゃあ、まあ、うまくやんなさいよ」
「あ、はい」
総員出動の命はもう前々から出ていたから、この戦争に彼女が出陣することなど自分も彼女も疾うに分かり切ってはいたのだが。あまりにもいつも通り過ぎる彼女の様子を、流石に奇妙に感じた。今だって、センゴクに提出する最終確認の書類を受け取って出て行こうとする姿は全くいつもと変わりが無い。
「……前も聞いたけどさ、恐怖とかそういうの、無いわけ?」
あっさり部屋を出ようとしていた名前がくるりと振り向く。その拍子にさらりと揺れた茶色の髪に少しだけクザンの中の何かがずくりと疼いた。彼女はいきなりの質問に少し目をぱちくりとさせていたが、書類を抱え直すと、クザンの方にきちんと向き直った。思えば常にものぐさで適当なように見える彼女だが、そういうところはきっちりしている。そういえばいつだったかお邪魔した私室もきちんとしていた。
(って、俺は何を今こんな事考えてんだか)
もしかしたら彼女だって恐怖を必死に押し殺しているのだけなのかもしれないのに。思えば文官なのに前線に出る彼女に心情を問うなんて無神経極まりなかったかもしれない。忘れてくれ、とクザンが言う前に彼女は口を開いていた。
「そうですね……怖いと思ってもいいような状況なのは確かですが、」
扉に掛けられていた手が、考え込む彼女の顎に添えられる。言うのを躊躇っているのか、あるいは相応しい言葉を探しているのか、少しばかりの沈黙が部屋を支配した。
「私は、まだこの世界が現実であると認識しきれていないのかもしれない、ですね」
十年も経つのに、と続けられた言葉の意味がクザンには分からない。ただ、少しだけ眉尻を下げた彼女の表情が、まるで大人でも子どもでもない、例えるならば幼気で危うい年頃の少女のもののようにでも見えて、胸を衝かれた。彼女は確かもう二十代を疾うに越えているというのに何故。
「………それは、どういう、」
「っと、油を売っている場合ではありませんでした。それでは」
次の瞬間には彼女は働く大人の顔をしていた。扉が閉まるまでの間、軽く敬礼をしてから今度こそ立ち去ってしまった彼女の背を何となく目で追う。ばたんと音を立てて閉まる扉の向こうの廊下へと消えた背中は、どちらかといえば小柄ではあれど、確かに“少女”などではなく“女”のそれだ。
「…怖がってるのは俺の方、ってわけね」
明日も会えるとは限らない。生きて会えたところで彼女が五体満足でいてくれるかどうかも。それなのに、互いの無事を祈る言葉も、改まった別れの言葉も無かった。ただ、「それでは」と。全く平然と言ってくれるものだ。こちらの気も知らないで。
いつか彼女へ出した宣戦布告は、あの時は冗談交じりであったのに。まさか、彼女を失うかもしれないということが、こんなにも己に恐怖を与えるとは。
「あー…あーあ。何だっけなァ、こういうのは……」
一人になった執務室で、クザンは天を仰ぎ、手で顔を覆った。部屋の外で海兵たちがばたばたと行き来している音が聞こえる。本部全体が、戦争を控えてどこか緊張しざわついているようだった。だからなのだろう。
こんなにも胸がざわつくのは。
そう、決して、彼女が最後まで自分に弱音を漏らさなかったからではない。
*
戦場で、クザンはずっと無意識に彼女の姿を追っていた。勿論同じ格好をした海兵が多数ひしめく中、彼女だけを見つけ出せるはずもないのだけれど。しかしそれでも、打ち合わせ通りに(多少打ち合わせとは違うこともしたが)動きながらも、彼女の気配だけはずっと追っていた。
「ったく、どこに居るかくらいは教えてくれても良かったんじゃねェの…」
フォローもできやしない。まあ、元より彼女の口ぶりではフォローなど期待もしていなかったのだろうが。
酔った彼女から聞き出した話の通りならば、決着を付けるのはサカズキだ。彼女の気配を探る一方で、クザンはサカズキの気配にもずっと注意を払っていた。
そして訪れたその瞬間。
(ああ、そんなところにいたの)
マグマが弾けたその瞬間。クザンはサカズキの胸ポケットにいる小さな純白の鳥を見つけて、やっとのことで安堵の息を漏らした。
ぱきり、熱さに耐えかねて氷が溶け出す音が、一瞬だけしんと静まりかえった広場によく響いた。
マグマの腕に対抗するように作られた氷の腕が融解と氷結を繰り返して、辺りには爆煙のような水蒸気が立ちこめた。
「貴様ァ………何のつもりじゃァ、クザン!!!」
まだ無事らしい彼女の姿を見て、ずっと胸に突っ掛かっていた恐怖と不安がすっと消えていくのを感じる。同時に、小鳥の癖に目を真ん丸にして驚愕の表情を浮かべている彼女に、思わず笑いを漏らした。彼女がこんなに驚いているのを見るのはもしかしたら初めてかもしれない。
「何を笑うちょる、クザン…!!」
「あー…何でだろうなァ。…………忘れた」
一瞬でじわりと熱が滲む。サカズキの腕はどす黒いほどに燃え上がり膨れているが、シャツの胸ポケットの辺りはまだ無事らしい。真っ赤なバラの下に隠れていた頭を外へ出そうと躍起になっている名前を無声音で押しとどめる。
(良いから、そこで大人しくしときなさいや)
伝わったのかどうかは定かでなかったが、今人型に戻ったら灼熱地獄の餌食になる以外に道は無いとは分かったのだろう。名前がサカズキの胸ポケットから出てくることはなかった。
結果として、サカズキを押しとどめて白ひげ海賊団を窮地から救い、裏切り者という汚名を被ることになったのはクザンひとりだった。
祥子