「………なんつーか、あっさりした島だなあ」
上陸して町中を歩くなりそう言った赤い髪の持ち主に、名前は思わず笑ってしまった。生まれてこの方この島で生きてきたけれど、色々な島を知っている者から見れば、確かにこの島はそうだ。
「そうですね。…ふふ、あっさりしたっていう形容詞は良いですね。この島をよく表してて」
足の動かない左側にはベックマン、手の動かない右側にはシャンクスが付き添い、町中を闊歩する。もしかしてこれは結構すごいことなんじゃないだろうか、だなんて思うのだけれど街の人は全く無反応。明らかに堅気では無い人間が歩いていようがいまいがどうでもいいらしい。彼らが興味があるのは星と空と世を支配する美しい数字の羅列だけだから。
「別に歓迎を期待してた訳じゃ無ェが…他の島ではよく“歓迎”されたモンだからな」
名前の生まれ島、天文島。学者ばかりが住まう島で、人々はみな空を見上げて生きている。滅多に海賊が入ってくることなどない、グランドラインでも僻地の島なのだが、それにしたって海賊に対してあまりにも無関心・無反応。
しかし、周囲に視線を遣っていたベックマンは目敏く名前に向けられる敵意の籠もった視線を察知していた。
「確かにあっさりした島ではあるな。……その割にはやたらと嫌な視線を向けられている気がしなくもないが」
「ああ、それは…海賊だからとかじゃなくて、多分私と歩いてるから…」
「どういうことだ?普通逆じゃねェのか」
学者は基本的にこちらを無視しているが、その妻や子どもである女子どもたちは名前の方を見てはひそひそと何事かを囁いている。理由は明白なのだが、自分が嫌われ者であることを詳しく説明する気にはなれなかった。どうせ直ぐに分かってしまうことではあるけれど。
「何だ名前お前、村八分にされてんのか?」
「村八分って…うーん…まあでも、そんな感じですね」
いつでも直球なシャンクスの言葉に苦笑する。曖昧に誤魔化している内に、街を抜けて丘の上へと蛇行しながら続いている坂道に出た。
「…よし、じゃあおれは色々見てくっかな。あとはベックがどうにかしてくれるから心配すんな」
「…おれがそうすることに関しちゃ異論はねェが、あんたが請け負うな」
「だっはっは!後は任せたぜ!」
相変わらずのやりとり。何だか会ったばかりの頃にも似たような光景を見たことがある気がする。くすくすと口を押さえながら笑う名前の傍で、シャンクスはあっという間にどこかへ見えなくなり、そしてベックマンは微かな溜め息をひとつ漏らしてから、名前の前にしゃがみこんだ。
「え?」
「安心しろ。落としゃしねェよ」
向けられた広い背中。いつも通りの何を考えているか分からないポーカーフェイス。それらが何を意味するのかをすぐには理解することができず、名前は思わず間抜けな声を漏らした。
*
目の前にはしなやかに引き締まった硬い背中。たばこのにおいと、潮の匂いと、長い航海の間に覚えてしまった、この人の汗のにおい。何だか気恥ずかしくてその背中に顔を埋めれば、よりいっそう彼の匂いが強くなって、もうどうしていいのやら分からなくなった。
「すみません、運んでもらっちゃって…」
仕事場兼自宅である灯台までの道のりを、名前はベックマンに負ぶわれながら上っていた。灯台は小高い丘の上、海に崖として付きだしている。腱の切れた左足では確かにまだひとりで上ることはできないのだけれども。
ベックマンは名前の謝罪に返事を寄越さなかった。ああしまった、と名前は内心で後悔した。名前が謝罪を口にしてはいけなかったのに。
「……謝らなければならんのはこっちの方だろう」
「………すみません、そういうことを言わせたかったんじゃないんです。…じゃなくて、えっと、」
「分かってるさ。…そう気遣わんでいい」
背に負ぶわれているせいで表情が見えないことが少し残念に思われた。そのまま、残りの道のりは二人とも無口なままだった。
灯台に辿り着くと、島に着くまでの間だけという約束だったお姫様扱いがまだ続いているかのように優しい手付きで名前はそっと地面に立たされた。
「名前?やっと帰っ、て、きたの、……」
出て来た母は、恐らく一緒にいる屈強な男を見て目を丸くした。けれど腱の切れた足ではあの丘を一人で上がってくることはできなかったのだから仕方ない。事情を話すと母は呆れたように笑った。久し振りに見たせいか、灯台守の仕事をたった一人でやっていたせいか、最後に見たときより母は少しやつれていた。
「………呆れた子だね。それで?部品はちゃんと買えたんだろうね?」
「うん。運んでもらったの。この方…ベックマンさんに」
そう言ってちらりと横目でベックマンを見てみれば、彼は形容しがたい表情をしていた。自分が怪我をさせた少女の母親だ、もしかしたら何か言われることくらいは覚悟していたのかもしれない。けれど名前は母がそんなことでは動じるような人間ではないことを知っていた。
「そうかい。そこに置いときな。茶でも飲んで行くかい?」
「いや…、結構だ」
「そう。それで、その怪我はあんたが?」
「あ、お母さん違うの、これはね、」
すっとベックマンが前に立った。
「そうだ。おれの責で、怪我をさせた」
何の言い訳もせず、弁解もせず、名前に説明をする間さえ与えず、ベックマンは静かに言い切った。母は可笑しそうに口の端を持ち上げた。
「ふん。じゃ、慰謝料に腕の一本でも置いてくかい?」
「お母さん!」
「冗談だよ」
屈強な体付きにそこそこいかつい顔をしているベックマンをものともせず、母は鼻を鳴らした。
「それで?娘と部品を届けてもらったことには礼を言っておこうか。ありがとう、助かったよ。………で、あんたは他に何か用でも?」
いっそ母の方が悪人であるかのようににやりと人の悪い笑みを浮かべていた。ベックマンも少し面食らったような顔をしている。 名前は何だか無性に恥ずかしくなって、動く左の方の手で顔を覆った。
「何だい、突っ立って黙ってんならお帰り。キズモノにした責任に嫁にでも貰ってってくれるんなら歓迎するが?」
その台詞に、今度こそベックマンは張りつめていた空気を緩めて苦笑を漏らした。
「……そのつもりはねェよ。だが…娘を傷モンにして悪かった」
ふ、と一息に言い切って、ベックマンはくるりと踵を返した。慌てて追い掛けようとしてみても、動かない左足と荷物のせいで一歩も進むことができない。まさかこれで終わりになってしまうのだろうかと何とも言えない気持ちになった名前に、ベックマンは振り向かないまま声を掛けた。
「お頭の気まぐれで、ここらの探索もかねてこの島に滞在することになった。…まだ会えるから、その足で無理はするな。おれが、会いに来る」
そして、それっきり。
小高い丘の上、灯台のふもとに母と二人で残されながら、名前は火照った顔を母の方に向けられずにいた。
だから全く気付かなかったのだ。いつもパワフルで、普段ならベックマンのことについて根ほり葉ほり聞いてきそうな母が、何も聞かず、死人のような真っ白な顔でただ安堵の笑みを浮かべていたことに。
祥子