「あとふたつ島を越えたら、お前の故郷へ着くぞ」

まるで自分のことのように嬉しそうに、本当に嬉しそうにシャンクスは笑った。

「でも名前が下りちまったら寂しくなるな」

そしてそんなことをまるで何の衒いもなく言うものだから、もう名前は笑うしかなかった。

ここまで何の問題も無く来られた訳では決して無かった。名前が船に乗っていなければ抱えなくても良かった面倒ごとも少なく無かった。

それでも、笑ってこの人達が助けてくれたから。名前は、負い目だけは抱えるまいと、卑屈にだけはなるまいと、そう笑っていられた。謝罪は最後に一度だけ。お礼は笑顔で幾らでも。





気を抜いていた訳では無かった、と思いたい。
あとふたつ島を越えたら着くと聞いて、名前は自分が島を出た目的を果たすことにした。幸いこの島は大きな島で、名前の求めていた品物はあったし、今までの島でちょくちょく稼いだ路銀と、ベックマンからの少しばかりの心遣いでお金も足りた。しかし大きな荷物を抱えて人の多い大通りを歩くのは困難で、近道をしようと裏道を使ったのが間違いだった。

「よォ、お前、赤髪んとこの女だろ」

「ちょっとこっち来いよ」

しまった、そう思った時にはもう遅かった。

ああもう、何で誰かについて来てもらわなかったんだろう!ここは大きな島だからと安心していた。だから、名前のボディーガード兼荷物持ちを仰せつかった為に酒屋に行けないと悲しんでいたクルーに、大丈夫だから行って良いですよ、なんて言ってしまったのだ。彼はきっと怒られる。ベックマンに。彼は名前の拾得者である責任を今でも忘れていないらしく、何かと気を掛けてくれるのはもうデフォルトになっていた。

とはいえ、名前は微塵も心配していなかった。恐怖は少しあったけれど、助けてくれるという信頼があった。
十数分後には駆けつけてきてくれた彼に、名前は思わず頭を下げた。

「…………だから言ったんだがな、お嬢さん」

「…ハイ、今ものすごく自分の愚かさを噛み締めてます」

ベックマンは呆れたように溜息を吐いた。ついでに言うと彼は大柄な男の前に単身銃一丁で対峙しており、その大柄な男の腕の中に名前は居る。一応抵抗は試みたものの、体格が違いすぎて徒労に終わった。

「大人しくしてろよ」

「はい」

「…ッ、てめェら、人を置いて何暢気に会話なんかしてやがるッ!」

ものすごく悪党くさい台詞が耳元で響いて、首元にナイフが添えられた。つぷ、と肌に冷たい刃先がくい込んだ感触がある。あ、これはちょっと切れたかもしれないな、なんて名前がさほど気にもせず助け出されるのを待っていると、それを見ていたベックマンの眉間に皺が寄った。

「武器を捨てろ!」

ベックマンが言葉に従うのを見て、名前を捕らえている男はにやりと下卑た笑みを浮かべた。…武器が無いからと言って安全になるような人ではないのに。

「よし、てめェら、やっちまえ」

その合図で、手下の男たちが一斉に飛びかかる。船に乗り立ての頃ならば息を呑んだかもしれない、しかしもう戦闘シーンは見慣れてしまった。
絶対に大丈夫だという確信は、あったのだ。実際に、一対大勢にも関わらず優勢なのはベックマンの方だった。

「…チッ、やはり一筋縄では行かないか…女、来い!」

「え?ちょ、っきゃ…!」

押されている手下を見捨てて、男は名前を路地裏へと連れ込んだ。

「ベックマ、んんっ!」

「おっと、静かにしてろよォ?」

角を曲がる間際、珍しく焦ったような表情のベックマンと目が合ったのを最後に、何やら薬を嗅がされた名前は意識を手放した。





目を開いて真っ先に感じるのはいつだって絶望だった。今日も違う世界で生きているという、絶望。横たわった状態で目を開くと、真っ先に思い浮かべるのはいつだって元の世界の自分の部屋で。十七年もこちらの世界で生きてきても、それは変わらなかったはずだった。けれど。

その日、目を開いて真っ先に目に入った木目に名前が覚えたのは、安堵の念だった。部屋には誰もいなかったし、その部屋は名前が毎日寝起きしている部屋でさえなかったのに、それでも名前は、酷く、安心したのだ。

「お、名前ー、目ェ覚めたのか―――って、お前、何で泣いてんだ?」

そこは赤髪海賊団の医務室だった。お酒ではないアルコールの匂いが漂っている、この船で最も清潔さの保たれている部屋。確か、海に落ちていた名前が初めに宛われたのもこの部屋だった。

「どうした、どっか痛むか?怖い夢でも見たか?」

入ってきたのはドクターでは無く、年若いクルーだった。手には水の張った盥と手ぬぐいが抱えられており、名前の方を見て何故か酷く狼狽えた顔をしている。

「あー、取り敢えず誰か呼んでくっから。動くなよ!」

ばたばたと騒がしい足音が遠ざかり、お頭ー!副船長ー!と叫ぶ声がここまで届いてきた。漸くはっきりしてきた意識に目を擦って上半身を起こしたところで、名前は漸く自分が泣いていることに気が付いた。なるほどこれではあのクルーが動揺していたも無理は無い。何で泣いてるんだろう私。すぐに涙は止まって、先ほどより気分はすっきりしていた。ストレス物質が溜まっていたとかそういうことだったんだろうか。泣けば流れるものだから。

「名前!良かった、目が覚めたか!」

「……シャングスざ、ん、んん゛っ!?」

「あー、良い。良い。寝てろ」

起きあがろうとする頭をこつんと優しくベッドに戻される。何故か喉はがらがらで、上手く喋ることができなかった。横たわったままの体勢で室内を見ると、そこにはシャンクスさんだけでなくベックマンさんやドクター、他、一緒に島を回るはずだったクルー等がいた。彼らが口々に良かった、心配したんだぞ、等と涙ぐみさえしながら掛けてくれる声の中、ひとつ静かな声が響く。

「………すまん、名前」

「ぇ、べ、っぐま"んざ…?」

ベックマンは名前の傍にかがみ込んで、名前に目を合わせた。そのまま真摯な視線と声で、謝罪が降ってくる。滅多に呼ばれることの名前と一緒に。どうして、あなたが謝るの?聞きたいことは色々あるのにこの喉は耳障りな音をはき出すばかりでうまく喋ることができない。

「酷い声だな。………楽にしていろ。喋らなくていい」

傍にあった水差しからコップに水を注ぎながら、ベックマンは苦笑のような表情を零した。けれど眉間の皺はいつもより深い。

「……顔色も随分良いみてェだな。おい、他は邪魔だから出とけ。騒ぐと傷に響く」

ドクターのそんな一声で、部屋はあっという間に名前とベックマン、ドクターの三人きりになった。
ああ、おれの存在は無視してくれて良いぞ、カルテ付けてるから。ドクターのその言葉に苦い笑いを返しながら、ベックマンはベッドの傍にあった椅子に腰掛け、コップをそっと捧げ持つように手にした。ちなみにドクターは言葉の通り部屋の隅の机で静かにカルテをめくっている。別にお前を信用してねェわけじゃねェぞ?との言葉に、流石に病人を襲いやしねェよ、と返す。ベックマンはもう苦笑しか出てこない。

「咽せるなよ」

「ん、ぅ…っ!?」

口元に固い感触が当たる。反射で口を開けば、流れ込んできたのは甘く冷たい水だった。とくとくと飲み込む。名前が嚥下するのに合わせてベックマンが微妙に傾きを調整している。ベックマン手ずから水を飲ませてもらっている、その状況に羞恥心がじわりとわき上がってくる。しかし何故だか手は動かなかった。

「……ン、…っふ、は、もう、良いです…!」

まだ違和感は残るものの、先程よりは滑らかに出せるようになった声を上げてベックマンを制止する。コップはもう殆ど空になっていた。

「…あの、…えっと…」

頭が、腕が、足が、ずきずきと痛む。何から聞こうか迷った名前の額を、ベックマンの掌がさらりとなで上げた。掌の温度は酷く冷たくて心地よささえ感じるほどなのに、触れられた部分がまるで熱でも持っているかのようにざわりと粟立つ。そのままベックマンの指が、汗で額に張り付いていた髪の毛を耳へと掛けて、そして撫でるように優しく額をさすって離れていった。

「…熱はまだあるみてェだな」

「べっくま、さん、…あの、」

「ああ、今から状況を説明してやる。そのまま聞いてろ」

熱があるんだ。なら、これはきっと、熱のせい。
動悸、目眩を訴える心臓を無視して、名前は何でもないような顔をして肯いた。


祥子
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