こんな私で役に立てるなら、そんな卑屈な思いがあったのは否めない。けれど名前は本当には理解していなかったのだ。それがどういうことなのか。
「分かってんのか、お嬢さん。…お嬢さんの言っているのは、こういう事だぞ」
そう言って私の両腕を片腕で軽々と押さえつけ、鋭い瞳で見下ろしてくるベックマンさんに“男”というものを感じて、私は思わず身を竦めた。ベッドに押し倒された時点で既に酔いは醒めていた。
「あんたは言い寄る男が居たら誰とでもこうするってのか」
「そういうことじゃ、」
「無いと言い切れるのか?」
「ちが…っ」
「何が違う?どこも違わないだろう。言ってみろ」
「ベックマンさん…!」
「理性の切れた男に、こういうとき女を待ってやれる余裕があるとは思わない事だな」
その方が身の為だ、と低く低く囁いたベックマンに、脳のどこかが焼き切れた。抑える間もなく涙が溢れる。
「…よく泣くお嬢さんだな。だが、泣いたって男は止まらない。それどころかますます増長するだけだ。…分かるか?男は、女が泣いてるのを見たって、煽ってるとしか思わない」
反論の隙さえ与えず、畳み掛けるようにして、名前が知らないふりをしていた事実を突き付けてくるベックマンからは、何の感情も読みとれなかった。強いて言うなら怒りだろうか。普段から感情の現れにくい人ではあるけれど、今はよりいっそう、怖い。
「…ごめんなさい、分かりました…!私が悪かったです、言い過ぎました、分かりました、から、…離して!」
懇願するようにそう言うと、やっと両腕を拘束する力が緩んだ。すぐ様名前は腕を抜きとって、狭い室内で精一杯ベックマンから距離を取る。
「………怖がらせて悪かったな。だが、男ってのはそういうモンだ。…俺とて例外じゃ無い。覚えておけ、………名前」
いつも名前のことをお嬢さんと呼ぶベックマンの最後の言葉に、名前は自分の心臓がどくんと跳ねる音を聞いた。滅多に呼ばれない自分の名前。…ただ、名前を呼ばれただけ。それなのに。
「…こ、怖くありません!」
気付けば名前は、出て行こうとするベックマンの背中に向かってそんな事を言っていた。振り向いたベックマンは、それはそれはもう怖い顔をして、もう一度名前のもとへ歩み寄ってきた。
「………まだ、足りなかったか?」
思わず体が竦んでしまうほど、まるで仁王のような静かな迫力でこちらを睨んでくるベックマンは、正直怖い。けれどそれはそういうことではなくて。
「……それとも、虐めて欲しいのか?」
名前の腕が再び捕らえられる。まるで悪い海賊のような顔をして嘲るように口の端を持ち上げたベックマンに、体は本能的な恐怖を覚えて戦慄いた。
ベックマンは、名前がこの船で慰安婦まがいの事をしないようにと諭しているのだ。だからこうして“男”というものを名前に教えている。
「お前は、求めてきたら誰にでも足を開くつもりか。それならば俺の相手だって出来る筈だな。今ここで試してみるか」
脅すような言葉は、だがしかし本気の色を含んでいる。名前は、かちかちと鳴る歯を抑えて必死に言葉を紡ごうとした。けれどその前にベックマンが畳み掛ける。
「うちのクルーの自慰にすらあんなに怯えていたお前が、怖くないわけが無いだろう」
「あ、あれは…怖かった、です…!」
やっと言葉を発することができた名前に、ベックマンが怪訝そうな目を向けた。ならば何故、と。
「…けど、…べっく、まん、さんは…、怖く、無いです」
「…何が言いたい?怖くなけりゃイイとでも?…ああそうだ、お頭も怖くねェと言っていたな。俺や、お頭や、…恐怖を感じない奴にならそういう行為を許すのか?…なら試しに俺とやってみるか、お嬢さん?」
ベックマンは低く低く喉を鳴らして笑った。今までに見たことのないその表情に体はいよいよ強ばっていく。
「…ちが…っ、べ、ベックマンさん、だけ…、…ベックマンさんだけが、怖くないの…!」
正直その時の名前は、溢れる涙と荒い息に混乱していて、自分が言ったことの意味など熟考している余裕もなかった。だから、ベックマンが目を見開いたのを、熱に浮かされたような頭で、何故だろうと不思議に思っていた。ただ、これだけは伝えなければと焼き切れたような脳のどこかで必死にそう思っていたのだ。
数拍の沈黙ののち、ベックマンは顔をそらして苦々しげにくそ、と小さく漏らした。
「…お嬢さん、意味は分かって言っているんだろうな…?」
眉間に皺を寄せながら言うベックマンの顔はいつも通り苦労人のそれだったのに、どこか今までで一番海賊らしい顔をしていた。
「べ、ベックマンさん…?」
名前のすぐ傍まで来たベックマンの体重で、ベッドがぎしりと軋んだ。
さっきまで微かに聞こえていた筈の宴の喧噪が、遠ざかって薄れていった。
祥子