その日は確か、久方ぶりの快晴を理由に甲板で宴が始まっていた。
「名前!食ってっかァ!?」
「あ、はい、いただいてます」
「まだまだちっちぇェなァ。もっと食わねェとでかくなんねェぞ!さっさと食ってでかくなれよ!もっと出るとこ出たら相手にならせてやらねェこともねェぞ?」
「…………陸地で、もっと出るとこ出たお姉様方にお相手してもらったらいいと思いますよ」
「んなつれねェこと言うなよ名前。狭い船の上なんだ、お互い楽しくヤろうぜェ?溜め込んじまわずに、ぱーっと、な」
「…はぁ、まぁ、ストレス解消は必要かもしれませんねえ」
「お、何だその気か?いいのか?」
「私なんかで満足できるっていうならですけど」
名前は女だ。勿論そんなことは知っていた。現在のところ客人という扱いではあったが、現状として赤髪海賊団における唯一の女だ。だが、まるで未成熟な姿形がそれを鈍らせていた。そのくせ軽口を叩くクルーにふにゃふにゃと笑って真面目に応じるものだから、ベックマンは気が気では無かった。拾得者であるところのベックマンには拾得物であるところの名前を守る義務があるというのに、そんな無防備にされては守るものも守れない。僅かに溜息を吐きながら、ベックマンは絡まれている名前へと近寄った。
「お嬢さん、こいつらの軽口はまともに取り合わんでいいんだぞ」
その言葉が全くの親切心からくるものだったかと問われれば、まぁ下心が少しも無かったとは言い切れないのも事実ではあった。ベックマンの言葉を聞いていたクルー達が酷ェよ副船長、だの何だの笑いながら口を尖らせていたが、それはこの際放っておく。
「ええ、でも、自分のいばしょは自分でつくらなきゃ、いけないから」
名前は大分、酔っていた。その手からグラスを取り上げる。中身をちょっと舐めてみたら、最初は水で大分薄めて飲んでいた筈のその酒はもう殆どロックと言って良いほど強いものに変わっていた。もう呂律も回っているかどうか怪しいものだ。
「…お前を誘ってこの船に乗せたのはお頭だろう?居場所も何も、」
「このふねだけのはなしじゃ、ないんです」
何を言っているのだろう、と思った。確かにこの船は名前の本来いるべき場所ではないのだろうが、それでもそれはこの船の上での話だけであるはずだ。それを、まるでどこにいても自分が客人であるかのような口ぶりは。
「…どういう、意味だ?」
名前には今までもそういうところがあった。偉大な航路に生まれ育ったという名前は、まるでベックマンが耳にしたことのないようなおかしな常識を常識と思っている節があった。まだ自分が若輩で偉大な航路を制しきれていないからなのだと思うには、あまりにも途方のない話ばかりだった。しかし訳を問えば名前はいつも笑って口を閉ざした。かなり酔っている今なら、口を割るだろうか?
「だって、いつまたもどっちゃうか分からないから。はやく、ここでしっかり、根付かなくちゃ…」
「戻る?どこへ?」
「日本へですよ、だって、わたしは………ああもう、こまりますよねえ、輪廻転生させるんなら記憶も忘れさせてくれればいいのに、なんでこんな、」
ベックマンには、ニホンがどこなのかもリンネテンセイが何なのかも分からなかった。だから、歯痒そうに苛立たしそうに掌へ爪を立てる名前の痛苦など何も理解してやれはしなかった。
「………だからと言って、ここへ居てはいけないなんてことは無いだろう。もう少し、自分を大切にしたらどうだ」
名前は一瞬とても泣き笑いのように顔を歪めた。
「べっくまんさんは、やさしいですねえ」
あまりにも弱々しい声と潤んだ表情に、何かが弾け飛んでしまいそうだった。多分、ベックマンの中の理性とか何かそういうものが。
たまらない気持ちになる。こんな顔を、誰にでも見せているのだと思うと。
「…あまり、軽々しくあいつらの冗談に応じるな。痛い目にあうぞ」
それは、子供じみた独占欲だった。そんなことをするクルーはこの船にはいない。己の欲を満たす為に名前の無防備さにつけ込む輩など。しかし、同意を得たとみなされれば己の欲を敢えて我慢するような輩もいないのだ。
「いいんですよ、もう。それに、最近、おもうんです」
自嘲のような笑みを浮かべて、名前は微かに溜息を吐いた。
「ぜーんぶ放りだしちゃえたら、どんなにたのしいだろうかと」
そのタイミングで、ベックマンより幾らか年若いクルーがもう大分酔った顔をして名前の肩に手を回した。
「そうだぜェ、名前!!人生楽しく!生きなきゃな!」
「そうですねえ、それもいいですね」
折角取り上げたというのに、新たなジョッキが名前の手に握らされる。やれやれと呆れ顔をしながら、当然の如くロックであるその酒を流石に取り上げようとしたベックマンは、その後の会話に暫し動きを止めた。
「何なら俺とベッドでイイことするか?なぁ名前」
そこまでは、まだ良い。酔った海賊のいつもの戯れ言だった。そして困ったように慌てふためく名前を見ては大笑いするのがもうデフォルトになっていた。そこまでは、まあ、良いのだ。何を言っているんだと一言お約束のように窘めれば良いだけの話。
「…ふふ。しますか?」
まるで手練手管に長けたオンナのような笑みで、ことりと首を傾げてそんなことを言った名前が問題だった。これには冗談半分、しかし半分は本気で口にしていたクルーも目を丸くした。
「…いいのか?」
「…い」
いですよ、と続く言葉を言わせる前に、ベックマンは一瞬で名前を部屋に放り込んだ。唖然としているクルーに、ふたつのジョッキを預ける。
「酔っているらしい。寝かせてくる」
そう言い残して自分も部屋へ入ったベックマンに、年若いクルーは今更ながら自分の仕出かしたことに顔を青くして、幹部連中はひゅうと口笛でも吹きそうな顔でにやりと笑った。
祥子