断りきれないというのはものすごく不便なもので、たまたま暇潰しに入った店で、断りきれず買ってしまった趣味じゃない服を着て、断りきれず受け取ってしまう鞄いっぱいのティッシュを持ち、断りきれず衝動的に付き合ってしまった道徳的とは言えない彼氏と、断りきれず受けてしまった就職先の帰りに待ち合わせをしていた。

「ごめんなさい、仕事が終わらなくてちょっと遅くなっちゃった」
「ふざけんなよ…30分も待たせてんじゃねぇよ」

…最悪だ。
私の今付き合っている彼氏は、出会った当初以上に攻撃的になってしまった。ちょっと気に入らないとすぐ手を出す。別に好きじゃないのに、とんだ茶番劇のようなカップルだなぁと、待ち合わせの喫茶店で怒っている彼を眺めながらため息を吐いた。

当然彼の怒りは収まるまでもなく、人前にも関わらず思い切り私の頬を殴ったかと思えば、お金も払わずに去ってしまった彼の背中を見て、また今日も食い逃げされたとさらに虚しい気持ちになった。

会計で、黒目がちな愛らしい店員さんが、一部始終を見ていたのか、キャラメルマキアートをサービスしてくれた。温かいカップで、冷たくなった指先を温めながら、道を歩いていると、入り組んだ路地裏にうずくまってなにかしている人がいる。
気分でも悪いのかと、近寄ろうとすると、物音にビクついたその背中は、俊敏に私の方を向いた。にゃあ、と猫がないて、その光景をキョトンと眺めている。


「あ…あの…邪魔して、すみません…」
「…いえ、おれこそ」

寝癖がそのままの髪に、目元以外を覆うマスク。グレーの大きめのパーカーを羽織っている青年は、随分と猫背になりながら、ゆっくりと猫へと視線を戻した。

「猫、好きなの?」
「えっ、あっ?えっと、その」
「嫌いなら、いい」
「いや、嫌いじゃないというか、むしろ好きです!」

「っは、なにそれ」


強面な印象だった青年の名前は、一松さんと言うらしい。出会いは突然だったけれど、彼の存在は、私の人生を左右するようになった。
一松さんとは、路地裏の猫の餌やりをするたびに、親密になっていき、次第に好意へと移り変わっていく。一方で、今付き合っている彼氏の暴力はエスカレートしていき、顔や体に痣を作るようになった私は、あるとき、一松さんに気付かれてしまった。

「ねえ、その傷、前から思ってたけどなんなの」
「えっ…」
「いえないならいいけど。俺みたいなクズに言いたくないよな」

たまに一松さんは意地悪いことを言う。自分を卑下して気まずくなったところを、強行突破して私の心に土足で踏み込んでくる。

「いま、の彼氏が。殴る人で…」
「ふーん。別れたらいいのに」
「それができたら苦労してないですよぉ」

ヘラヘラと笑ってみせれば、一松さんはいたって真剣な表情で別れさせてやろうかと私に問いかけた。別れることができたら最高だけれど、いままでそれができなかったわけで。別れ話なんて持ちかけたときには、なにをされるかわからない。彼の機嫌を伺い、彼の望むような事をする。よくよく考えれば、まるで奴隷のような恋人関係だなと我ながら思った。

一松さんは、ゆっくりと私の赤く腫れた頬に手を添えて、苦虫を噛み潰したような表情で俯いてしまう。頬に添えられた手を重ねて、私は一松さんに向き合った。

「ありがとうございます。でも、これは、私の問題だから、一松さんに迷惑をかけるわけにはいかないです。」


断りきれない私が、はじめてはっきりと意見を述べることができた。その相手がいまの彼氏でもなんでもない、一松さんだなんて、おかしな話だ。










「急に呼び出してごめんね。あのね、私たち別れよう。」

いつものカフェで待ち合わせして、いつもより早くにきて彼を待つ。案の定彼は10分ほど遅れてやってきた。なにも言わず、私は単調に別れ話を告げると、豆鉄砲を食らった鳩のような顔になり、しばらくしてからみるみる顔を赤くして彼は発狂した。

バン、とテーブルに手をついて、私の髪をひっつかみ、撤回しろ、今なら許してやるとドスの効いた声で私に別れ話をやめさせようとする彼は、やっぱり私のの事が好きだったのだろうか。
興奮して鼻息の荒い彼の瞳を、じっとなんの感情も無しに見つめていると、再び彼は私の頬を思い切り叩いた。

「馬鹿にしてるのか!ふざけるな!」

店内に響く怒声に、店員さんも冷ややかな視線をこちらへ向けている。

「もう、我慢できないの。別れましょう」

静かにそう呟くと、クソっと捨て台詞を吐いて彼は店を後にした。やっぱり机の上にはお金は乗っていなくて、嗚呼、こんなに簡単に別れる事ができたなら、なぜ最初からこうしなかったんだろうと、自分のまぬけさを笑った。

いつもこの光景を眺めていた、カフェの店員である松野さんは、そんな私のもとへやってきて、「.やっと解放されましたね、おめでとうございます」とウインクをしてから、やっぱりいつものようにキャラメルマキアートをおまけしてくれた。
いつもありがとうございます、と涙声で呟くと、こちらこそ、いつもご利用ありがとうございます。と人当たりの良さそうなにこやかな微笑みを浮かべてヒラヒラとてを振って見送ってくれた。

ひとつだけ清算できた思い出を、はやく一松さんに伝えたくて仕方なかった。路地裏を覗いても、一松さんの姿はなくて、彼のいそうな場所を一通り回ってみたが、一松さんを見つける事はできず、残念な思いに駆られたままとぼとぼと帰路に着いた。


それからというもの、一松さんを見かけることがないまま、二週間が過ぎた。私も、あの一件から断るということを覚えて、少しずつ自分の意見を人に伝えることができるようになった。
蔑ろにしているから、そこにつけこまれる。断ることも勇気だと、そう気付かされた。そこで生じる多少の言い争いは、決して恐るものじゃない。ぶつかったその先で、より良い未来が待っているはずだ。

上司と、新企画の話で言い争いになったが、結果的に話はまとまり、企画チームの一員として迎えいれられた帰り道。
もう一松さんを見かけることのなくなった路地を何気なく通っていると、にゃあんと猫の声が聞こえてきた。懐かしいな、そう思い、声の聞こえる路地裏へ入り込むと、見覚えのあるボサボサの髪と猫背、そのわりに逞しい背中が目に入る。

「一松…さん?」

こんどはゆっくりとこちらへ振り向き、私の名前を呼ぶ一松さんに、思わず駆け寄り、抱きついてまった。

「え、なに」
「あっ、すみません、つい」
「つい、でそんなことするような人だったっけ」

じとりと私を見るその瞳は間違いなく一松さんだ。戸惑いをはらむような声に、懐かしさを感じて微笑む。

「彼氏と、別れたんです。そのことを、伝えたかったのに、一松さん、見かけないから寂しかったんですよ?」
「あっそう。」
「もう、つれないなあ」

何か悪いことでも?といわんばかりに一松さんは、不貞腐れた表情で、再び猫と戯れはじめた。私といえば、久しぶりに一松さんに会えたことが嬉しくて、嬉しくて。この一松さんへの好意を言葉に表すなら、やっぱり恋だった。いっここのまま流れで告白してしまえ、と勢いに乗った私は、一松さんの名前を呼び、振り向きざまの彼の方をつかんで、真っ赤な顔で言ってやった。

「私、自分の性格変えてしまうくらいには、一松さんのこと好きなんですよね」

捻くれたような告白に、自分でもないわとドン引きしてしまった。それなのに、一松さんはまたいつもの悪役みたいな笑いかたでしばらく肩を震わせたあと、真っ直ぐ私を見つめる。

「おれだって、こうしてわざわざ遠出してあんたに会いに着ちゃうくらいには、あんたのこと好いてるけど」

お互い様な告白に、思わず私も笑ってしまって、二人してこれはないねと微笑んだ。それから、確かめあうように軽いキスをして、一松さんは照れ臭そうに頭の後ろをかいていた。
一松さんとたわむれていた猫は、私と一松さんを交互に眺めてから、やっぱり意味がわからなそうに首を傾げたけど、それでも上機嫌な鳴き声を路地裏に響かせてみせた。
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