気になる木になる
夏目とそれなりに話すようになって、2週間程の事だ。

あんなタイプの女子とは大して話した事も無かったから、最初は普通に話す事ができたのが衝撃的だった。
ただ黒板の日付を変えて、戸締まりをして日誌を書き、教室の施錠をするだけの十数分の短い時間ではあったが、思いの外会話が弾んだ。
夏目の話は恋愛絡みの事が多かったが、普段あまり聞かない話題は新鮮だった。
何故教師の恋愛事情まで把握しているのか疑問で、それについて尋ねると「女子の情報網」と教えてくれた。
どうやら女子間にはそういうネットワークがあるらしい。
正直本当かよ…と思いはしたが、後日例の教師二人が結婚する事になったと聞かされ、その時は少し戦慄した。
恋愛絡みのことで下手を打つとすぐに女子の網にかかるらしいと痛感し、俺も気をつけようと思ったが、そもそも俺には浮いた話が一つもない。
要らぬ心配というのが、悲しいところだ。

「岩ちゃんって、夏目さんと仲良いんだね」
「…は?」

昼休み、花巻のクラスに集まって弁当を食べている最中、及川が不意にそう口にした。
今日は家に弁当を忘れてきてしまったらしく、及川は購買で買った牛乳パンをもそもそと口に運ぶ。
そんな奴の質問に、隣に座っていた花巻までもが弁当から視線を上げた。

「あー、それ。俺も気になってた」
「だよねぇ」
「…夏目さんって誰?」

顔を見合わせる及川と花巻に気付き、箸でチーズハンバーグを小さく切っていた松川までもが話題に入る。

「岩ちゃんのクラスの女子だよ」
「結構派手な子」
「へぇ…岩泉そんな子と仲良いの?」

3人揃って興味津々とばかりにこちらを見てくるものだから、岩泉は少々居心地が悪い。
俺が夏目と仲良かったら変なのかよ、と噛み付きそうになったが、ここでそれを言うと自身の立場がもっと危うくなるような気がした。
根拠はない。ただの勘だ。

「…別に、ただたまに話すだけだ」
「どんな話するの?」
「どんなって…。バレーの話とか…恋バナ?とか」
「恋バナ!?」

まさか岩泉の口から『恋バナ』なんて単語が飛び出してくるなんて予想もしていなかった3人は、一斉に身を乗り出す。
何やら普段岩泉が接触しないタイプの女子と話しているところを見かけるなと思っていたら、自分たちの想像以上に関係が進んでいたらしい。

「嘘でしょ岩ちゃん…俺と恋バナもしたことないのに…!?」
「…いや、したことあんだろ。主にお前の話聞いてるだけだけど」
「えっ…恋バナってどんな話すんの?」
「…どんなって言ってもな…夏目がずっと喋ってるだけだし…」
「例えば?」

例えば、どんな事を喋っただろうか。
先々週、日直の仕事の為に放課後居残ったとき、夏目は楽しそうに次から次へと自身の周りの恋愛事情を話していた。
たくさんいる友達の他校の彼氏がどうだの、年上の彼氏がどうだの、国語の先生がどうだのなんて、妙に鼻息荒く語っていた。
そんな夏目が、日に日に嬉しそうな気恥ずかしそうな態度に変わっていく様を眺めながら、何でだろうなんて思ってはいたが、正直心の内で喜んでいた。
好かれている。
友情愛情の線引きは置いておき、そう実感せずにはいられなかった。
そのせいなのか、こんなに女子と話して楽しいだとか、居心地がいいとか思った事があっただろうか。
そんな事を思い出しながら、その中で特に印象に残った話題といえば、日直最後の日に聞いたあの話の事だろうか。

「そういや、夏目の好みのタイプを聞いたな」
「えっ、岩泉が!?」
「積極的だな…」
「いや、向こうが先に聞いて来たから、流れで俺も聞いたんだよ」
「あっ…そう…」
「ちなみに岩ちゃんの好みのタイプは?」
「真面目な奴」
「……あれ、岩泉好みのタイプあるの?」

不思議そうにそう尋ねてくる松川の言葉に、岩泉は何故そんなことを言われたのか一瞬分からなかった。
そりゃあ俺にだって、好みのタイプくらいある。
そう言いかけた岩泉ではあったが、それよりも先に松川が口を開いた。

「だってこの前好みのタイプ聞いたら、特に思いつかないから好きになった奴が好みとか言ってたじゃん」
「あー…言ってた言ってた」

そんな事を言っただろうか…と過去の記憶を辿るも、いまいちピンとこない。
こういう時は多分、適当なことを言って話題をそらしている可能性が高い。
しかし、そう指摘されて、岩泉はここではじめてひっかかりのようなものを覚えた。
あの時、自身の好みは『真面目な奴』と答えたのは何故だろう。

「それで、夏目さんの好みのタイプは?」
「…金髪のイケメン」

途端、先程まで食い付いてきていた3人の動きが止まる。
そして興味津々!とばかりに輝かせていた目が少しだけ輝きを失い、同情を孕んだものに変わる。
及川に至っては、何だか申し訳なさそうにしながら肩にポンと手を置いてくるものだから、腹が立つ。

「……何だよ」
「…まぁ…元気出せよ岩泉」

「何が言いたいんだ」なんて悪態をついたが、実際には岩泉だって分かっていた。
ただの俺の勝手な自惚れ、大して恋愛経験の無い自分が勝手に勘違いしただけ。
夏目は別に、俺の事が好きなわけではない。

「それで岩泉は、夏目さんの事が好きなの?」

先程までふざけ半分の態度だったというのに、急に真面目な口調で松川が尋ねてくる。
他の二人も妙に静かになり、3人揃ってこちらの様子を伺っているようだった。

「別に、そんなんじゃねーよ」

好きだとかそんなものではない。
ただ気になっただけ、それだけだ。





放課後の部活を終え、岩泉は疲労感に包まれながら帰宅した。
蒸し暑くなってくる時期とあって、着替えた制服の下は汗が微妙に乾ききらず気持ちが悪い。
とりあえず風呂に入ろうと脱衣所に入り、服を脱ごうとしてふと、鏡に写る自身に視線を向ける。
鏡に写っているのは、どこからどうみても、洒落っ気の無い男子高校生である。
例え髪を金髪にしたとこころで、似合う気もしないし、そもそもイケメンにはなれない。
試しにくしゃりと髪を握ってみたが、芯の強い黒髪はその形状を保持したままである。
イケメンと聞いて岩泉の脳裏に浮かぶのは、腹立たしいが幼馴染みの及川である。
そんな及川のように、せめて髪だけでもセットしてみようと思ったが、自分の髪質ではそれが上手くいかないと悟る。
ドン詰まりじゃねぇか…なんて思いながら、適当に洗面台の引き出しを開けると、この前及川が家に泊まりに来た時に忘れていったワックスが入っていた。
最後の悪あがきでそれを手に取り、髪に付けてはみたものの、そもそもセットなんてしたことも無いので上手くいかない。
ただ髪が気持ちぐちゃぐちゃになった自身を眺めながら、岩泉は深いため息をついた。

「…何やってんだ俺」

夏目に、かっこいいと思われたいのか、俺は。
一瞬脳裏を過った確信に近い言葉に、岩泉は息を飲む。
これ以上は深く考えてはいけない気がする。
それが何故だかは分からないが、きっとその理由すら分かってはいけない。
理解して傷つく前に、こんなことはやめてしまえ。
頭の中の誰かがそう囁き、岩泉はそれに従うように勢い良く服を脱ぎ捨て、風呂場に入る。
勢い良く吹き出すシャワーを頭から被りながら、ひたすらに別の事を考えた。
明日は朝練に行って掃除をして、その後小テストの勉強をして、それから、それから。

意外にも、こうしてぶつぶつと唱えている間に、岩泉は夏目八重の事を少し忘れられた。
後で思い浮かんだ小テストという嫌な単語に気を取られ、風呂から上がったら少しは勉強でもしておこうかと思い至る。
そうして宿題を済ませてから、いつもの調子で単語帳を手に布団に入った段階で、岩泉はすっかり夏目のことを忘れていた。

しかし翌日、及川が朝早くに家にやって来て、「俺岩ちゃん家にワックス忘れてなかった?」なんて言うものだから、それも全てが水の泡となった。
「なんか俺のワックス減ってる気がするんだけど…」と妙に鋭い事を言う及川をスルーし、岩泉は再び脳裏に浮かんだ人物について考えるはめになってしまった。
そうして早朝から夏目の事を思い出し、岩泉は再び悶々としながら一日を過ごす。

そもそも俺は何に悩んでいるんだろう。
現代文の授業中、板書をしながら説明をしている先生の話など耳に入らず、岩泉は机の上に置いた辞書に視線を向ける。
授業やテスト勉強以外では大して使う事のない国語の辞書手に取り、恐る恐る「恋」という単語の意味を調べてみる。
恋…特定の異性に想いを寄せること。恋愛。
調べてみて改めて思うが、予想通りの説明文である。
そして岩泉もまさか、自分がこんな言葉を調べることになるとは思いもしなかった。
いよいよ自分も末期である。

そうして、ぐるぐるとすっきりしない気持ちを抱えたまま迎えた放課後。
岩泉はいつものようにスポーツバッグを肩にかけ、部活へ向かおうと裏庭付近の廊下を歩いている道中、不意に後方から名前を呼ばれた。

「岩泉!」

声のする方に振り向けば、そこには話題の人物、夏目がカバンを肩にかけて立っていた。
相変わらずの着崩された制服、短いスカート、整えられた髪、学校の規則内にギリギリ収まる範囲の化粧、それら全てが岩泉とは別世界のものに思えた。
俺が足を踏み込めるはずがない。
漠然と、どこかそんな風に距離を感じてしまう。
初めて話した時よりはずっと関わる事が増えたというのに、この焦燥感は何なのか。
そうして岩泉がぼんやりと考えている間に、夏目はいつの間にか岩泉の目の前にまでやって来ていた。

「見てこれ!」

じゃーん、と言いながら夏目がポケットから取り出したのは、黒い恐竜のキーホルダーである。
それには非常に見覚えのあった岩泉は、思わず自身のスポーツバッグに視線を向ける。
スポーツバッグの正面のジッパーには、夏目が持っているものと良く似た怪獣のキーホルダーがぶら下がっている。

「昨日ガチャガチャして当てたの!いいでしょ」
「…お前、それ自慢するためだけにわざわ人を呼び止めたのかよ」

妙にテンションが高い夏目に呆れながらそう言えば、夏目は腰に手をあててフンと鼻を鳴らす。

「そう思うでしょ?」

ニヤリと笑った夏目は、再びポケットに手を入れ、もう一つキーホルダーを取り出した。
先程夏目が取り出した恐竜と同じデザインのものではあるが、表面の色は黒ではなく金色である。
それを見ただけで、岩泉は夏目が真に自慢しにきたものがそれであると気付いた。

「…レアか」
「そう!金色のゴジラ!いいでしょ〜?」

岩泉の目の前でレアの金色ゴジラをちらつかせる夏目を見下ろしながら、岩泉は妙に冷静になって別の事を考える。
授業中に比べて随分と生き生きとしている夏目は恐らく、岩泉が羨ましがるのを待っている。
実際に正直羨ましいし、どこでそのキーホルダーのガチャガチャが出来るのか聞きたいところではある。
しかしそれよりも、にこにこと笑っている夏目の方が気になった。
まるで鼻歌でも歌いそうだとばかりに緩んでいるその口元が、可愛いと思った。

そう思った瞬間、岩泉は無意識に右手を動かし、柔らかそうな夏目の頬に手を滑らせた。
右手に感じる彼女の頬は想像通りふわりと柔らかく、触れた肌の先にある唇が震えた事に気付いてたまらなくなった。
奪えたら良いのに。
どろりとした感情と切ない程の想いを滾らせた岩泉になど気付かない夏目は、自身が何をされているのか気付いて頬を染めた。
触れた右手が、少し熱い。

「……な、に…いわいずみ…」
「…髪食ってるぞ」

口元に触れるか触れないかの辺りを指で擦り、髪の毛をとってやるふりをして、岩泉は自身の先走った行動を誤摩化した。
何をやっているんだ俺は、なんて自身の無意識な行動に内心で酷く動揺した。
しかし、そんな岩泉の行動に夏目が怒り出すか文句でも言い出すかと思ったのだが、何故か妙に大人しく固まっている。
先程までキーホルダーを自慢げに揺らしていた彼女とは到底思えない程に縮こまり、音も無くはくはくと口を動かしている。
その見た目の派手さと釣り合わない初々しさに、岩泉は思わず軽く吹き出す。

「鯉みてぇ」

まるで投げ入れられるエサを待つ、色鮮やかな魚のようだ。
そう思ってそう口にした発言ではあったのだが、ここで夏目は素っ頓狂な声を上げた。

「えっ!?」
「…は?」
「今…、岩泉…恋って…」
「?鯉だろ」

そして再び紅潮していく夏目を見下ろしながら、彼女が一体何に慌てているのか理解できなかった岩泉ではあるが、途中で夏目が、「恋」と「鯉」で勘違いしている事に気付いた。
未だパクパクと口を動かしながら、言葉にならない変な声を上げている彼女を見下ろし、岩泉は視界が澄み渡っていくような心地がした。

ああ、そうか。
これがコイとかいうやつなのか。

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