もうあの夢は見ない

「キスしていいか」


呼吸も時間も止まったかのように錯覚してしまうくらいには、岩泉の発言は衝撃的だった。
膝を付いた体勢から、ペタリと正座をするように座り込んだ由衣は、未だ脳内整理に追われていた。

「…ごめんな」

自嘲気味に視線を下げる岩泉は、由衣の想いの先が自分であると気づいていない。
ひたすらに申し訳無さそうに肩身をせまくしている岩泉は、つい先程の自身の発言を早速後悔しているようだった。

それを見てやっと、由衣は岩泉の発言の意味をしっかりと理解し、うっすらと口を開いた。
そして言葉よりも先に、体の方を行動に移した。

すっと両手を伸ばし、視線を下げている岩泉の頬に両手を添える。
それに驚いたように肩を跳ねさせ、顔を上げた岩泉にそっと唇を寄せた。
音も無く、ただ触れるように重なった柔らかい感触を味わうのは、これで二度目だ。
一度目の時はあまりに急なことだったから、感触も温度も、時間にさえ意識がいかなかったが、今回は違う。
岩泉の少し日に焼けた肌は、女の肌とは違い少しざらついており、触れた骨格は紛れも無い男の物だと実感するくらいには、脳は働いていた。
キスをする側は余裕があるのか、なんて見当違いの事を考えながらゆっくりと顔を離すと、岩泉の唇が少しだけ、名残惜しげに追いかけて来た気がした。

岩泉の頬に両手を添えたまま、由衣は視界の端で輝きを失って行くダイアモンドを捕える。
岩泉の襟裳とから見えていたそれは、じわじわと溶けるように消えていき、元の肌の色を取り戻していく。
それにホッと安堵し、再び正面にしゃがんでいる岩泉に視線を戻す。
岩泉は少し頬を染めてはいたが、頑に由衣から目を逸らして、眉を寄せていた。

岩泉のことだ、きっと罪悪感でいっぱいなのだろう。
自分の事を好きでもない女にキスをさせてしまった、なんて自分を嫌悪しているのが表情を見ただけで分かった。


「違うよ、岩泉君」

由衣の言葉に、岩泉はゆるりと顔を上げる。
そのタイミングを見計らい、「女は度胸」、と自身に言い聞かせて、もう一度岩泉の唇に自分の唇をくっつけた。
先程よりもたどたどしく、唇越しに歯が柔くぶつかったのが自分でもよく分かった。

それが恥ずかしくて、口を離した後にぶわりと顔に熱が集まる。
流石に二度目のキスには驚いたらしく、岩泉もポカンとしている。


「朝倉……今…何で2回…」
「…さ、察してください」

視線を泳がせながらもごもごと言うと、岩泉は「はっ?」と間抜けな声を漏らした。
沈黙が続く事数秒、由衣の言いたい事を理解した岩泉は、カッと赤くなった。
学校の廊下のど真ん中で、堂々と授業をサボリながら、まさに絵に描いたような青春というもののまっただ中にいる自覚はあった。


「…なぁ、すげぇ自惚れた事聞いていいか」
「…どうぞ」
「朝倉って、俺の事好きなのか?」

呆気にとられたまま、岩泉は自身の疑問をストレートに口にした。
回りくどいことが苦手で、いつもまっすぐの岩泉らしい発言である。
その質問に対し、由衣はコクリと首を縦に振って肯定する。

「…そ、そうか…」
「…うん」

お互いの想いが同じであるという事実は嬉しいのだが、この居たたまれなさは何なのだろう。
それは岩泉も同じようで、由衣と同じように再び俯いたが、ふと何かに気づいて「あ」と言葉を漏らした。

そして岩泉はおもむろに、左の手のひらを開く。
その手の中には、透き通るようなピンク色の小さな石が転がっていた。
由衣と岩泉の体を侵食していたダイアモンドと同じ質感の石に、二人して目を奪われる。

「なんだこれ……」
「…さっきの宝石?」
「かもな……」

その小さな石をじっと見ていた所で、はっきりとした答えは見つかるはずもない。
カサブタみたいなもんか?と首を傾げた岩泉の発言に、由衣は思わず吹き出した。
『ダイアモンドのカサブタ』なんて聞いた事も無いが、その表現が妙にしっくりきてしまうから可笑しくてたまらない。

由衣がクスクスと笑っていると、岩泉もつられてフッと息を吐きだすように口元を緩めた。
そして手の中の石をコロコロと転がし、岩泉は石を持ったままの左手を由衣の頬に添える。
そうしてゆっくりと顔との距離を近づけながら、口を開いた。

「なんか、すげー偶然だよな」
「…?」
「朝倉も俺も、同じ病気…?になるなんてな…」

コツリと額同士を合わせてしみじみとそんな事を言う岩泉に笑えば、「なんだよ…」と照れたように返された。

「私の症状が、岩泉君に移っちゃったのかもね」
「…そうだな」

これは、運命だったのかもしれない。
一瞬脳裏を過った言葉は、あまりにも恥ずかしくて口にはできなかった。
至近距離にある岩泉と見つめ合い、目を細めた岩泉はボソリと囁く。

「あの時のお前の相手が、俺で良かった」

岩泉の優しい視線、するりと頬を滑る指、ゼロになる距離に由衣はゆるりと目を閉じた。






ガサガサと片手に下げた買い物袋を揺らしながら、由衣は自分たちの奇妙な馴れ初めを思い出していた。
隣で同じように買い物袋を持っいる岩泉は、由衣の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれている。
そんな恋人を見上げると、幸せというものはこんな身近に転がっているものなんだなぁ、としみじみと思う。

「どうした?」

由衣の視線に気づき、岩泉は顔をこちらに向ける。

「体がダイアモンドになっちゃった時の事を思い出したの」
「…ふーん」

他人に話したところで信じて貰えない二人の馴れ初めを共有できるのは、岩泉しかいない。
そんなことなど分かっているくせに、興味無さげな反応を見せた岩泉はそっけない。
少しだけ頬を膨らませてみせると、それに気づいた岩泉はプッと吹き出して、空いた手で由衣の手首を掴んだ。
そして流れるように引き寄せて、身を屈めて唇を重ねる。
夕暮れ時ではあるものの、まだ日も落ちきっていないこの時間帯に、こんな道の真ん中でこんなことをされるとは思わず、由衣は目を見開いた。

「な…なんで今…」
「予防だ、予防」
「もう……」

片手をポケットに入れて、もう一度唇を奪った後、岩泉はニッと笑った。
体がダイアモンド化していく症状の予防、と理由をつけてキスをしてくるのは、かれこれ何回目だろう。
いい加減に由衣も慣れてしまったし、正直に「キスしたい」と言えないものなのかと呆れた顔で見上げる。
存外に照れ屋で悪戯好きなこの恋人は、成人した今でも高校生の時の彼から変わらない。
あの頃から随分と精悍さの増したこの人と同棲し、こうして一緒に夕飯の買い出しをするようになるとは、あの頃の自分では想像もできなかった。

「…あ」

不意に岩泉が声を零し、ポケットに突っ込んでいた左手を引き抜いた。
そうして何かを握っている様子の手を由衣の目の前に持っていく。

じゃーん、なんて照れくさそうに言いながら、岩泉は握り拳を作っていた手をサラリと開いた。
その仕草にデジャブを感じると同時に、現れた透けるようなピンク色の石には見覚えがあった。

カサブタみたいなもんか?などと岩泉が口にしたダイアモンドのようなそれは、しかし、あの時の『カサブタ』では無かった。
あの時の石は、お守りとして家に大事にしまってあるのだから、ここにあるはずもない。

そして何より決定的だったのは、ピンクの石はゴールドの細身の輪に固定されていることだった。
『綺麗な石』が、『輪』という付属品と合わさったことで、別の意味をたくさん孕んだ代物に変わってしまうのだから、由衣は言葉も出ない。
買い物帰りの路地で、こんなにもあっさりと指輪を差し出してくる辺り、この人は本当に予想がつかない。


「お前と出会えなかったら、きっと俺は死んでた」

由衣の指に取り出した指輪をはめて、岩泉は穏やかに口を開く。

「この先ずっと、俺と一緒に生きてくれ」

目の前の恋人は、いつ再発するかも分からないダイアモンドの呪いを、永遠の約束に変えてしまうつもりらしい。

ああ、ずるいなぁ…なんて思いながら、由衣は自身の指にはまった指輪を眺める。
そうしてじっと返事を待っている岩泉を見上げて、由衣は手に持っていた買い物袋を地面に落とした。
中に卵があったかもしれない、そんな事を他人事のように考えながら、ゆるりと腕を伸ばした。

買い物袋を落とした由衣に、驚いた様子の岩泉の首に腕を巻き付けて引き寄せながら、うんと背伸びをしてキスをした。
これが私の答えだと、岩泉は分かってくれる。
たくましい腕が由衣の腰と背中に回り、ぎゅっと抱きしめられて、そう確信する。


二人があの奇妙な呪いにかかる事は、もう二度と無かった。