二度目の1週間

岩泉とキスをしないと死ぬ、と宣告された日から1ヶ月程が過ぎた。
体がダイアモンドのようになっていく現象も止まり、これといった異常も無いままに由衣はいつも通りの学生生活を送っていた。


岩泉とはあの一件以降、恥ずかしながら交流が増えた。

大きな身長に鋭い目つき、常に不機嫌そうな顔をしている岩泉だが、スポーツをする時や友達と休み時間に話をしている時は子供のような笑みを見せると知ったのは、いつだったか。
岩泉のことを目で追うようになり、気がつけばうっかり彼の事を好きになってしまっていた。
我ながら単純だなぁとは思うものの、好きになってしまったのだからしょうがない。

そんな想い人と口づけを交わした事があるという事実を思い出しては、身悶えしてしまうこの毎日は、ある意味平和と言えるだろう。


「朝倉、これありがとな。助かった」

最近の席替えで隣同士になったこともあり、話す機会も随分と増えた。
毎週木曜日、午後の英語の時間。
昼時の睡魔が襲来する時間帯に船を漕いでいた岩泉を見かねて、由衣は英語のノートを差し出した。
「寝てたからノートにメモ出来てないんじゃない?」とからかうように声をかければ、岩泉は「良く分かったな」なんて感心しながら、由衣のノートを受け取った。
そうして英語の授業範囲を自身のノートに書き写し終えた岩泉に、貸していたノートを返却されるのも数回目である。

岩泉にノートを貸すことを念頭に入れ、最近妙に綺麗に板書をメモするなった由衣は、英語の時間をいつも心待ちにしていた。

そして何より楽しみなのは、返って来たノートのどこかに岩泉がメッセージを残していることだった。
はじめは由衣の書いていた犬の落書きに「カバ?」なんてひっそりと失礼な言葉を書き込んでいた。
「犬だよ」と岩泉に説明すれば「犬…?」と真面目に首を傾げられたものだから、由衣は微妙にショックだった。
その次は、リベンジをかねてもう一度犬のイラストを描いたのだが、「マントヒヒ!」と自信ありげなコメントを岩泉に残されていたことに、がくりと肩を落とす。
そしてついに3回目の今回、岩泉がお手本だとばかりに可愛いチワワの絵を描いていた。
これが意外と上手いものだから、由衣は何も言えずにゆっくりとノートを閉じる。

「どうだ俺の犬、なかなか上手く描けてるだろ」

机に肘をつき、ニッと笑う岩泉を横目で確認してから、由衣は渋々と頷く。
「なんでそんな不満そうなんだよ…」と岩泉は苦笑いを浮かべてから、ふと遠くを見るように、視線を由衣から逸らした。


「…なぁ、朝倉」
「何…?」

じっと教室の教卓に顔を向けている岩泉の方に、由衣はゆるりと視線を向ける。


「……いや、やっぱなんでもねぇ」


数秒の沈黙の後、岩泉は伏し目がちにボソリと呟いた。
何か言いたいことがある様子だったが、すぐにそれを誤摩化すように席を立ち、次の授業のある教室へと歩いて行く。
どうしたんだろう、と思いつつ、由衣も机の中にある教科書をひっぱり出した。



英語の後の選択の授業を終わらせ、さっさと教室に戻る道中、由衣は忘れ物をした事に気がついた。
一緒にいた友達に先に戻ってもらい、由衣は3階にある先程授業のあった部屋へと引き返す。
選択の授業が無い限り、あまり人が通る事のない廊下は静かで、由衣が歩く音だけが静寂に響く。
そうしてわざわざ引き返してきたのはいいが、選択授業の先生はさっさと部屋に鍵を閉めて帰ってしまったらしく、部屋のドアは閉ざされたまま動かない。

この部屋の中に取り残された筆箱が無いと困るんだけどなぁ…とため息をついて、由衣は再び来た廊下を引き返した。

面倒だが、後で職員室に鍵を借りに行こう。
そんなことを思いながら、何の気無しに廊下を歩いていると、ふと壁の死角辺りで動く影を見た。
何だろう、という反射に近い反応で、由衣は壁の向こう側を覗く。


そしてそこに、廊下の壁に左肩を預け、座り込んでいる岩泉を見つけて由衣はぎょっとした。

俯いている岩泉に慌てて駆け寄り、肩をポンポンと叩くとゆっくりと顔をあげた。
岩泉の顔色が非常に悪く、目つきもどこか虚ろで息も荒い。

「岩泉君大丈夫!?熱でもあるんじゃ…」

咄嗟に額に手を当てると、特に熱いというわけでもなく、むしろひんやりと冷たい。
おかしい、と思いながら視線を無意識に下げると、岩泉の襟元からキラリと光るものが見えて、由衣は息を止めた。

次の授業の始まりを知らせるチャイムの音が鳴り響くが、由衣の心の内はそれどころでは無い。


まさか。

「岩泉君…もしかして…」
「………」

無言のままの岩泉に責めるような視線を向けると、気まずいのかフイと視線だけを逸らされた。
ここまできて尚も黙っているつもりらしいので、由衣は失礼を承知で岩泉の襟元を掴みやや広げた。
きらきらと輝くダイヤモンド質が、鎖骨まで到達しているのを確かめて顔を歪める。

「…これ、マジだったんだな」

由衣の表情をぼうっと眺めながら、岩泉は口を開いた。


「1週間以内に好きな奴とキスしないと、死ぬんだとよ」

自嘲気味に笑う岩泉の身に起きている現象は、1ヶ月程前に由衣の身に起きた事と全く同じものだった。
だったら解決法だって岩泉は知っていたはずなのに、何故こんなに酷くなるまで放っておいたのだろう。

「…岩泉君も、変な夢見たの?」
「…おー」
「今日、何日目?」
「……丁度1週間」

由衣は絶句し、ずるりと肩の力が抜けた。
辛いはずなのに、岩泉はかすかに笑っているものだから、由衣は意味が分からない。

「何でこのままにしてたの…」
「…心の準備いるだろ」

好きな奴に、俺とキスしてくれなんて言うの。
照れくさげに視線を逸らす岩泉を見て、由衣は冷静に「そんなことを言っている場合じゃないでしょ」と返した。
岩泉がそういう風に思う女の子がいる、という事実がぐさりと胸に刺さるが、それよりも今の状況を打開する方が先決だ。

「岩泉君、好きな子誰。連れて来るから」
「…いらねーよ」
「駄目だよ、早くしないと…どうなるか分からないのに」
「いや…でもなぁ…」

気まずそうにしている岩泉を認めて、何故こんなにも悠長に構えているのかと由衣は急き立てたくなった。
由衣のほうがよっぽど狼狽えているし、今の危険な状態を理解しているという自負もある。
それが、岩泉本人はあまりそうは思わないらしく、自身の気持ちが想い人に伝わってしまう、という事の方を重要視しているようだった。

「恥ずかしいかもしれないけど、死ぬよりはずっとましでしょ…?」
「…んなことは分かってる」
「じゃあ何で、」
「…お前の時とは違うんだよ。……朝倉は俺の事、なんとも思ってなかったから、そういうことあっさり頼めたんだろ」

ズバリと事実を指摘され、由衣は言葉を詰まらせた。

あの時は確かに、「死ぬのかもしれない」という不安から逃れるため、苦肉の策として岩泉に声をかけた。
もしかしたら、などと何にでも縋りたいという自己中心的な思いに岩泉を巻き込み、そして結果的にはダイアモンドになる症状から解放された。

しかし岩泉から見ればどうだろう。
突然「キスしてくれないと私死ぬかも!」なんて大して話した事も無いクラスメイトの女子に声をかけられ、挙げ句の果てには自分の前で泣き出す始末だ。
目の前で泣かれてしまっては、岩泉も成り行きでキスするしか無かったのだ。
そんな事、迷惑以外の何ものでもない。

岩泉はきっと、そんな事を好きな女の子にさせたく無いのだ。

「…悪い、朝倉。キツイ事言った」

岩泉に声をかけられ、ハッと現実へ意識を取り戻す。
バツの悪そうな岩泉と目が合い、心の中で「あぁ…」と嘆いた。
きっと私が辛そうな表情をしていたから、岩泉は気をつかっている。
岩泉の方がずっと辛いはずなのに、また私は自分の事ばかりだ。

バチン、と自身の手で両頬を挟み込むように勢い良く叩き、由衣は気合いを入れた。
そして、煩悩を吐き捨てるかのように、細く長く息を吐く。
そんな由衣の急な行動に驚いたのか、正面に座り込んでいる岩泉は、呆気にとられているようだった。


「岩泉君。やっぱりこのままは良く無いと思う」

廊下に両膝をつき、岩泉の目を見てから由衣ははっきりとした口調で話す。
まずは岩泉のこの状態を解決させてから、次の事を考えれば良い。
泣くのはその後だって、構わない。

「誰にも他言しないし、聞かなかった事にするから、岩泉君の好きな子教えて。どうにかして、必ずここに連れて来るから」

こちらをぼんやりと眺めている岩泉の首元を侵食しているダイアモンド質が、じわりと広がった気がした。
早くしなくては、と半ば泣きそうになっている由衣を眺めて、岩泉は目を細めて穏やかに笑った。

「…良い奴だよな、お前」
「いいから、岩泉君」


ここでやっと、岩泉は由衣の言葉を誤摩化す事をやめた。
そうしてぐっと口元を引き締めた後、腹をくくったかのように表情を変えて、閉ざしていた口をやっと開いた。


「……お前にさ、キスしてくれないと死ぬかもしれないって初めて言われた時、何言ってんだコイツって正直思った。馬鹿にしてんのか、って」

ゆるりと岩泉の腕が伸び、由衣の膝の上に置かれた左手に触れる。

「…けど、今はそうは思わねぇ。事実、キスしたらお前の腕は治ったし、嘘じゃなかったってのも分かってる。それに最近は……理由はどうあれ、朝倉とそういう事できて役得だったな、とか最低な事考えてた」


岩泉の言葉を耳拾い、由衣は息を飲む。
1ヶ月前、キラキラと輝きを放っていた左手首を握られ、由衣は自身の胸の鼓動が早まるのを感じた。

まさか、そんな馬鹿な。


「聞かなかった事にしなくていい、朝倉」


相変わらず辛そうな表情の岩泉と目が合い、はくはくと口を動かすものの、声にはならなかった。
何を言うかなんて何も考えていなかったのだから、当然と言えば当然ではあるのだが。

「嫌かもしれねーけど…頼みがある」

握られた手は、由衣のものなのか、岩泉のものなのかは分からないくらいに酷く熱く、境界さえも曖昧だ。


「なぁ」
「俺、お前の事好きなんだけど」
「キスしていいか」