命と恥の天秤

『岩泉一』と一週間以内にキスをしなければ、お前は死ぬ。


夢の中の靄のかかった存在に、唐突にそんなことを言われた由衣は、目を覚ましても尚、その夢の内容をしっかりと覚えていた。
記憶があったが故に意味が分からず、家の外を車が走る音を聞きながら、由衣は首を捻った。

岩泉一、というのはクラスメイトの男子の名前である。
たしかバレー部の副主将だったかそうでなかったか、はっきりとは覚えていない。

しかし妙な夢を見たものだ。
何故岩泉君とキスなんてことになるのか。
もしかして欲求不満なんだろうか…?なんて不安にかられながら、由衣はいつものように学校へ向かう支度を始めた。

いつも通りの朝、いつも通りの景色、いつも通りの音、珍しい夢。
この時はただ「変な夢を見た」という認識でしかなかった由衣だったが、謎の夢を見てから2日後、突如として異変が起きた。


左手の指に痛みが走り、思わず視線を向けると、なんと小指と薬指がキラキラと輝く、ダイアモンドのようになっていた。
一瞬我が目を疑い、何度も瞬きをしてみたが、目に写る光景は変わらない。
数学の授業中だったこともあり、何の声も発することも出きずに自身の指を凝視する。
手のひらをぎゅっと握ったり開いたりを繰り返し、まずは指が動くことを確認する。
しかし、気持ち小指と薬指の動きが鈍い。
それに気づき青ざめていると、不意に頭を何かで軽く叩かれた。

左手のひらを開いたまま恐る恐る見上げると、由衣の席の傍に数学の先生が立っており、丸めた教科書を握ったまま苦笑いをした。

「朝倉、俺の授業はお前の手を見るよりつまらないか?」

クスクスと笑いが起きる教室の中、由衣は唖然としたまま数学の先生を見上げた。
先生はガラス質の由衣の手を見ているというのに、何も思わないのだろうか。

「先生…あの…これ、指が…」
「指…?何だ、突き指でもしたのか?」

由衣の指を注視した後、先生は「後で保健室行っとけよ」と言って再び授業を再開した。
ポカンとしている由衣に、隣の席の友達が「指怪我したの?」なんて心配の声をかけてくれたが、由衣の手を見ても特に何の反応も示さなかった。

どうやらダイアモンドのように輝くこれは、他の人には見えないらしい。


友達にこのことを話してみても「何かファンタジー小説でも読んだの?」なんて笑い飛ばされてしまい、まともになんて受け取って貰えなかった。
それは家族も同じで、当然と言えば当然の結果に由衣は一人項垂れる。

私だって、友達に「皆には見えないけど、指がダイアモンドになっちゃいました!」なんて言われてもまず信じない。

一人で悶々と悩みを抱えながら、病院に行ってみたものの「痛めたのでしょう」と言われて湿布を貰うだけに終わった。
翌日の朝、湿布を指からはがしてみたものの、ダイヤモンド化している指は変わらず、範囲が更に広がっていた。
そしてまた1日経っても結果は同じ、手首から上がきらきらと輝いていることに反し、由衣の心情は沈む一方だった。

そしてふと、ここで数日前に見た夢のことを思い出した。


『岩泉一』と一週間以内にキスをしなければ、お前は死ぬ。


まさか、なんて笑い飛ばしてしまいたかったが、由衣はもはや何にでも縋りたい思いでいっぱいだった。
徐々に侵食されていく体、動かなくなっていく手、誰にも相談出来ないこの状況に、何かをしていないととても耐えられなかった。



「岩泉君!」

初めて話しかけたかもしれない。
由衣が緊張でどくどくと心臓がうるさく響かせている事も知らず、岩泉一はゆっくりと振り返った。

朝からずっとタイミングを見計らっていたのだが、昼休みに一人で教室を出て行ったのを追いかけると、間のいい事に岩泉は人通りの少ない下駄箱の方に歩いて行った。
この機会を逃してなるものか!と話しかけてみたのだが、いざ本人を目の前にすると怯んでしまう。

こうして対面してみると、岩泉君はずいぶんと背が高いし、とても迫力がある。
思わず後ずさりしそうになりつつも、自分の命がかかっている、かもしれない事なのだ。

由衣はぐっと足を踏みしめ、再び岩泉を見上げた。
クラスメイトの女子の挙動不審な様子に戸惑いを隠せないらしい岩泉の方は、気合いを入れた由衣に瞬いた。

「あの……もの凄く大事なお願いがあるんだけど…」
「お…おう…」

深刻そうな顔をする(実際深刻なのだ)由衣の形相に、岩泉も真面目な顔で話に耳を傾ける。
話した事も無いクラスメイトの女子のただならぬ様子を察してくれたらしい。
由衣は何度も深呼吸をして、岩泉と目を合わせる。

まじまじと見た岩泉の鋭い目は、由衣をまっすぐ見ていた。


「岩泉君、キスさせてくれない…?」

言われた意味が分からなかったのだろう、岩泉は暫く固まった後、カッと顔を赤くさせて「はぁ!?」と声を上げた。
当然の反応である。

「な、に言ってんだお前…」
「いや違うの!これにはもの凄く重大な事情があって!」
「どんな事情だよ」

岩泉も慌てているようだったが、もっとパニックになっている由衣を見て、だんだんと冷静になっていく。

由衣も由衣でなんとか説明をしてみたものの、岩泉も当然ながら信じてはくれなかった。

「何かの罰ゲームか?」
「違う!確証は無いんだけど、でも、岩泉とキスしたら私の体…治るかもしれない」

岩泉の疑いの表情は変わらない、鋭い目で見下ろされて、由衣はもはや感情的なことしか言えなかった。

「私の命がかかってるかもしれないの…!」
「…冗談もたいがいにしろよ」

岩泉の冷たい視線が突き刺さり、由衣はうっと息を飲んだ。

怒っている。
岩泉の纏う空気でそれを察し、由衣はそれ以上何も言えなかった。

「朝倉がそういう奴だとは思わなかった」

軽蔑の眼差しのまま、そう吐き捨てて岩泉は由衣に背中を向けて廊下を歩いて行く。
違う、からかっているわけじゃない。
そんなこと言った所で、一体誰が信じてくれるのだろう。

思わず岩泉の背中に手を伸ばすも、硬質化したガラスの手は上手く動かず、空を切る。

最後の頼みの綱が切れてしまい、由衣は立ち尽くしたまま、そっと左腕をさすった。
きれいなガラス質は既に肘にまで及んでおり、指先の動きは酷く鈍い。


それから数日経ち、いよいよ明日が夢を見てから1週間、由衣が死を宣告された期日である。
この日由衣は常に上の空でろくに授業に集中出来ず、先生によく叱られるし、忘れ物をするし、教室で盛大に転けるし、と散々な一日を送っていた。

広がるガラス質は、肩にまで到達していた。

このまま全身がダイヤモンドになったら、死んでしまうのだろうか。
漠然とした不安を抱きながら、裏庭傍の廊下をふらふらと歩いていると、丁度曲がり角に現れた生徒とぶつかった。
とっさに「ごめんなさい」とだけ謝罪を口にし、ぶつかった生徒の顔をろくに見ぬまま歩き出すと、グイと勢い良く肩を引かれた。

相手の気に触れてしまったのだろうか、ああ、本当に今日はついていない。

そんな事を思いながら、肩を引かれるままに由衣も振り返る。
そこでやっとぶつかった相手の顔を認識し、由衣は息を止めた。

「朝倉」

相変わらずのムスッとした表情の岩泉を視界に入れ、これまで押さえ込んでいた感情が音をたてて崩れていくのが自分でも分かった。

「なんかお前顔色悪い…ぞ…」

ぼろぼろと涙を流しはじめた由衣を見て、岩泉はぎょっとした。
そして数秒後、サァと顔を青ざめさせ、慌てて由衣の肩から手を離した。

「わ、悪い!痛かったか?」

泣いている由衣の様子を伺うようにおろおろとしている岩泉の発言を否定するように、由衣は首を振った。

「違うの…ごめん、痛かったわけじゃない…」
「じゃあ何で泣いてんだよ…」

言った所で、岩泉は信じてくれないのだ。

「なんでもない」と言ってそそくさと岩泉に背中を向けると、今度は左腕を掴まれた。
「待て」と静止をかけ、もはや触られた感触もしない手を掴んだ岩泉は、じわじわと目を見開いていく。

「お前、この手どうしたんだよ…」

透き通った硬質の手を凝視しながら、岩泉は恐る恐る口を開いた。
それには由衣も驚き、岩泉に「見えるの?」と思わず尋ねた。

「いや…なんか、ガラス触ってるみてーに冷てぇし、硬ぇ」

光を反射する由衣の手が見えるわけではないらしいが、由衣の腕の異変に気づいたようだった。
この際、このダイヤモンドの腕が見えなくたってどうでもいい。
初めて現れた、由衣の体の異常に気づいてくれた存在に、嬉しくなって更に涙がぼたぼたと流れ落ちる。
嗚咽までわきあがってしまい、顔を覆うと、岩泉は再びおろおろとし始める。

それを申し訳なく思いながらも、由衣はもう一度、岩泉に事情を説明する事にした。
今の岩泉なら、少しは由衣の話を信じてくれるかもしれない。
これで解決するなんて、正直思ってもいない。
しかし話を聞いてもらえるだけで、由衣は救われる気がするのだ。

「ごめん…岩泉君。前にも言った話なんだけど…もう一度、聞いてくれませんか」

嗚咽まじりにそう言うと、岩泉は神妙な顔をして、静かに首を縦に振った。
そんな岩泉の優しさに、強張っていた体の力が少しだけ抜けた気がした。

そうして由衣は泣きながら、ありのままを再び岩泉に話した。
こいつ頭おかしいんじゃないのか、と言われてしまっても仕方がないような事を口にしているというのに、岩泉がまっすぐに話を聞いてくれた事がとても嬉しかった。


「そんで、俺とキスしないと死ぬ、と」
「そんな馬鹿な話無いよね…ごめん」

体がこんなことになってしまった原因が何なのかも、定かではないし、そんな夢のことを信じるのだってどうかしている。
しかし、ならば他にどうすればいいのか由衣には分からない。
きらきらと輝くガラス質になった腕をさするが、相変わらず温度も感触も感じず、ただ重い何かが肩にくっついているような感覚がするだけだ。

正直、死ぬのかすらもはっきりとは分からない。
しかし、このまま私の体全部がダイヤモンドになって、何も感じなくなって、動くことすらできなくなってしまうのならば、それは即ち死を意味するのだろうか。
左腕はこんなに綺麗な輝きをたたえているというのに、心はは酷い不安に襲われている。

死んだら、うんと輝くダイアモンドになりたい。
いつだったか、ドラマのヒロインがそんなことを口にしていた事を思い出す。
「死んでも輝き続けるダイアモンドになって、ずっと貴方を魅了し続けたい」、そういう意味を孕んだ言葉だった。
当時は「ロマンチックだな」なんて思っていたが、今の由衣はそんなことを思えるはずもなかった。


「私、このまま死んじゃうのかな…」

迫り来る不安に、落ち着いていた涙が再び頬を伝い始める。
グスと鼻をすすり涙をぬぐっていると、不意に岩泉に肩を掴まれた。

「朝倉」

すっと酸素を吸い込み、息を整えた岩泉が不意に由衣に顔を寄せる。
そうして流れるような動作で由衣の唇を呆気なく奪った岩泉は、唇を離した後もの凄く恥ずかしそうに「これでいいか…?」とぼそぼそと呟いた。

以前、自分から「キスしてもいいか」なんて聞いていたくせに、いざキスをすると衝撃のあまりポカンと立ち尽くしてしまった。

そうしてぼうっとした後、ふと左手に視線を向けると、先程まで透けていた手が元の肌の色と感触、温度を取り戻していた。
確かめるように左手を動かしてみせると、岩泉も驚いた様子で由衣の左手を握り直す。

「…まじかよ」

ぐにぐにと柔らかく、温かな人の体温を伝える手に、岩泉も思わず本音を漏らした。
ガラスの冷たさや硬さの無くなった由衣の腕を確認し、二人して顔を見合わせる。
まさか夢の中で聞いたお告げが、現実にこうも効果を発揮するとは思いもしなかった。

「治った……」
「良かった…けど、意味わかんねーな…」
「本当…」

この呪いのような現象は、一体なんだったのだろう。

そんなことを二人で話しながら視線を合わせると、由衣はふと先程キスをしてしまったことを思い出した。
それを今更実感し、じわじわと顔に熱を集めて行く由衣の様子を認めて、岩泉もつられて赤面する。

晴れ渡る空の下、廊下に立ち尽くすふたりの手は繋がれたまま、しっかりと互いの上昇する体温を感じ取っていた。