「赤葦君お疲れ!今部活中!?」
「…まぁ」

見れば分かるだろう、と思ったものの、ジャージ姿の赤葦はそれを心の中だけにとどめた。
どうせ何を言ったとしても、彼女にとってそんなことはどうでもいいことで、さらっと話題を流されてしまうことは分かっているからである。

「これ、差し入れなんだけど、よかったらどうぞ!」
「…どうも」

ぎこちなく対応し、赤葦は差し出されたスポーツドリンクをとりあえず受け取った。
自分の持って来たスポーツドリンクが赤葦の元へ渡った事を確認し、苗字は嬉しそうに口元を緩めた。
それを見て赤葦は複雑な心境に陥ると同時に、気を遣わなければいけない相手に面倒くさいと感じていた。

「何々、赤葦!あの子彼女?」
「違いますよ」

苗字が去って行った後、現場を目撃したらしい木兎が猛烈な勢いで走りよって来る。
彼の隣に立っていた3年生達は、赤葦と彼女の関係性を知っているが故に遠くで苦笑いを浮かべている。
察しが悪いのは、バレー部きってのエース、木兎ただ一人だ。

「でも差し入れ持って来てくれたじゃん!あの子は赤葦の事好きなのかもよ?」
「そうですね」
「えっ、即答?」

そこは「そんなことないですよ」って言うところじゃないの?と首を傾げた木兎は、空気の読める先輩達に腕を掴まれ、連行されていく。
あと10分後に練習再開な!と言う先輩達に感謝をしつつ、赤葦はため息をついた。


高校2年生になってすぐ、赤葦はクラスメイトになった苗字ナマエに告白された。
告白の内容はたいして覚えていないが、恐らくありきたりな「好きです、つき合ってください」というものだったと思う。
向こうとしては1年の頃から赤葦の事が好きだったらしいが、赤葦にとってはたいして話した事も無い初対面の女子生徒だった。

正直「面倒だな」と思った。

当時の赤葦も今の赤葦も、部活動であるバレーが第一であり、それに打ち込みたいために面倒な事は抱え込みたくなかった。
副主将になったこともあり、これからもっと忙しくなるだろう。
バレーの邪魔になるようなものはつくりたくないし、特に彼女も欲しいとは思わない。
だからこそ適当に「ごめん、今は部活に集中したいから」とこれまたありきたりな言葉で彼女からの交際の申込を断った。

苗字は、なんとなく赤葦の答えは分かっていたのかもしれない。
それならば何故わざわざ気持ちを伝えたのか、と思いながら、口元をぎゅっと引き結んだ彼女を赤葦はぼんやりと眺めた。

あの時は「そうだよね、ごめん」とあっさりと身を引いたと思ったのだが、どうもそうでは無かったらしい。


あれから、機会があれば彼女は妙に赤葦に話しかけてくるようになった。
何気ない会話から、わざわざ赤葦に話しかけるためのネタ作りをしてきてみたり、なんとなく赤葦も「あ、この子俺の事諦めてないんだ」と分かってしまう程度にはアタックされていた。

大して興味の湧かない女子生徒からアピールされていることが分かっても、赤葦にとってはバレーの邪魔にさえなければ別にどうでもいいことだった。
しかし、人間というものは面倒くさいもので、それなりに言葉をかわせば、妙な情が湧いてきてしまう。


「この子俺の事好きなんだろうから、あんまり冷たく対応したら可哀想だ」なんて気を遣うようになったのは最近のことだ。
これまでは割と思った事を口にしていたというのに、こうして言葉を選ぶ必要性が出て来た事に、赤葦は少なからず疲れていた。
最近のもっぱらの悩みは苗字のことで、学校ではいかに彼女と言葉を交わさずにいられるか、というのが赤葦のひそかな目標になっている。

一体自分は何をしているのだろう。

こんな事で悩む自分もどうかと思うのだが、悩ませてくる苗字ナマエという人物はもっとどうかと思う。
もうちょっと俺がどう思うかとか考えてくれてもいいのに、と不満をたれてみても、本人に面と向かって言えるはずもないので、堂々巡りは続く。



部活後帰宅し、夜も更けた時間帯。
赤葦は日課であるランニングの最中だった。
家の周りを軽く走る程度のもので、大して息も上がってはいないものの、通りかかった近所の公園の自販機を目にとめて立ち止まる。
喉に少し乾きを覚えて、何か飲み物を買おうと自販機に並ぶ商品を吟味する。
そして目に着いた青いペットボトルに、赤葦は「げっ」と言葉を漏らしてしまった。

今日苗字が差し入れに持って来た、あまり見た事のないメーカーのスポーツドリンクと同じ物が並んでいたものだから、同時に彼女の事も思い出してしまう。
ああ嫌だな、とは思った物の、これ意外にスポーツドリンクの選択肢が無いので、赤葦は苦渋の表情で小銭を投入し、ボタンを押す。

ガタンと音を立てて出て来たそれを緩慢な動きで手に取った時、赤葦は不意に自身の後ろに人の気配を感じ、既視感を覚えて振り返る。

なんと説明をすればいいのか分からないが、後方から感じた気配は、苗字が赤葦に構って欲しくて、背後から急に脅かしにやってくる感覚に似ていた。

結果的に、振り返った先に立っていたのは、苗字では無かった。
しかし、普段は割と冷静な赤葦でも仰天するくらいには、不可思議な現象が起こっていた。


「あぁ…やっぱり俺だった」

赤葦の目の前に立つ、自身と瓜二つの人物の登場に、驚くなというのが無理な話だった。
誰ですかあなたは、と聞くまでもなく、感覚的に「この人は自分だ」ということを何故だか察した。
分かったが故に、更に理解不能な状況に言葉も出ない赤葦を認めて、目の前の大人っぽい赤葦は肩をすくめて微笑んでみせた。

「急なことで驚いただろうけど、実は俺も驚いてるんだ。今、少し時間ある?」



すぐそこの公園のベンチに座り、赤葦は突然現れたもう一人の赤葦京治の話を聞いた。

家で出かける準備をしていたはずなのに、気がついたらこの公園にいたこと。
夢でも見ているのかと思って、自宅に戻るべく歩いていたら10年前の友達をみかけたこと。
町中にあるお店で今日の日付を確認し、自分が10年前の過去にやってきている事に気づいた事。
どうやったら元の10年後の世界に戻れるのか途方にくれていたこと。
結局、考えていても何の解決策も見いだせなかったので、とりあえず高校生の頃の自分に会っておこうかと思った事。
そうして、夜のこの時間帯に日課のランニングをしている自分に会うために、ここで待ち伏せをしていた事。

淡々と述べる27歳の赤葦の話の内容は、かいつまんで言うとこんな感じだった。
それをスポーツドリンク片手に相槌をうちながら聞いていた赤葦は、半信半疑ながら隣の青年を見上げた。

「10年後の俺はどんな感じですか?」
「そんなにざっくり聞かれるとなんて答えたらいいのか分からないけど、まぁ…ぼちぼちかな」
「そうですか」
「…それだけでいいの?」

「折角だし、何か聞きたいことあったら答えるけど」と言って柔らかく笑う大人の自身の表情に、赤葦はやや驚く。
この10年間でさまざまな事があったのだろう、今の自分にはとてもできないような余裕のある雰囲気に妙に戸惑ってしまう。
しかし、いざ10年後の自分に会ったといえ、急に何か質問を受け付けるといわれても逆に困る。

「そういう10年後の俺は、過去の俺に何か言っておきたいこととかないんですか?」
「…そうだなぁ」

10年後の赤葦は、缶コーヒーを両手で包んで、ふぅと息をついた。
何か想いを巡らせるように遠くに視線を向けた後、かすかに口元に笑みを浮かべてクスリと笑う。
何を思い出したのか、今の赤葦には全く持って分からないが、きっと何か良い思い出なのだろう。
そんなことを考えながら、何気なくスポーツドリンクを口につけた瞬間、10年後の自分は思わぬ人物の名前を口にした。

「苗字ナマエっているでしょ」
「…はぁ」

何故急に苗字の話になるのだろう。
どうも微妙な表情を浮かべていたのか、大人の自分は赤葦の表情を見て笑った。

「苦労してるでしょ、あの子結構粘るし」
「そうですね」
「…懐かしいな」

昔に思いを馳せる大人の赤葦にとって、苗字は過去の人物なのだろう。
彼女でもないし、高校から10年という時を経ているので、当たり前といえば当たり前なのだが。
ということは、彼女のあのしつこさからは逃れることができたということなのだろう。
これは朗報なのかもしれない、と赤葦はひそかに安堵した。

「あの子、本当に困るよね。俺から一歩引いたようにみせて、行動ではガンガン攻めてくるし」
「そうですね、できれば彼女の対処の仕方を教えて貰えると助かるんですけど」
「…なるほど」

俺の経験を過去の俺に伝えれば、この気苦労も無かったことになるのか、と妙案を思いついたような大人の赤葦は、思い出せる範囲で苗字ナマエに関わる情報を口にする。
修学旅行の班決めの時は、あみだくじで適当にメンバーを決めるのだが、絶対に一番端のくじに名前を書かない。特に何の考えも無くそこに名前を書いたら苗字と同じ班になって、わりと疲労が募ったこと。
夏頃に隣のクラスの女子に告白され、その現場を苗字に見られて何故かもの凄く気を遣うことになったので、呼び出しをくらっても時間をズラして現場に行かい、彼女が現場に遭遇することを避ける事。

つらつらと語られるまだ見ぬ未来に、赤葦は不思議な心地がする思いだった。
なんだかこれから先の自分の選択が指定されて行くようにも思えて、どこか気に食わないと思いながらも、参考にする気で話を聞く。

どれかひとつでいい、試しにそれを実行すれば、隣の大人赤葦が本当に10年後の自分なのかもはっきりとする。

この異常な状況に順応してしまった赤葦も大人の赤葦も、この後ほとんど苗字対策の話題しか口にしなかった。
それほどまでに赤葦の中で、苗字ナマエという人物が占める割合が大きいという嬉しく無いことを実感させられたものの、これっぽっちも心に揺れが起きないのは男子高校生としてどうなのだろう、と赤葦自身も思うところはある。
嫌いでも無いが好きでもない、しかし意識はしているという複雑な感情を抱く相手を表現するなら、やはり「面倒くさい」という言葉が一番苗字にしっくりとくるように思う。

かなりの情報を得た高校生の赤葦は、やっとこの心労から解放されるのかもしれないという希望に、気持ち心が穏やかになる。

「これで俺の先行きも安泰ですかね」
「……それはどうかな」

楽しそうに笑う大人の自分に、赤葦はきょとんと首を傾げる。
先程から散々、苗字と関わらないようにするための情報を提供してきた人物は、何故か嬉しそうに「安泰ではない先行き」を示唆する。
何だ?と怪訝な表情をする赤葦を目にとめて、大人の赤葦は上着のポケットに片手を入れる。

「もし、俺が今言った事を10年前の俺が実行したとして、運命が変わるのか試してみたいんだ」

27歳の赤葦がポケットから取り出したのは、青紫色の上質な小箱だった。
手のひらに収まる程の小さなそれを愛おしそうに眺める様子を見て、高校生の赤葦は硬直する。
その箱の中身が何なのか、そしてその中身を大人の赤葦がどうするつもりなのか、分析力の長けた赤葦はすぐに分かってしまった。

「お前は、ナマエから逃げ切れるかな」


幸せそうに微笑んだ10年後の赤葦は、それからふっと消えるように目の前からいなくなった。
意味深な言葉と、未来の欠片、思わぬ事実を残し消え去った彼に、赤葦は暫くベンチに座って呆然としていた。




10年前の出来事を、赤葦京治は思い出す。

正直忘れるにしては難しいことなのだが、意外にも赤葦は過去の不思議な体験をあまり覚えてはいなかった。
自分自身、勝手に夢だと思っていたからかもしれない。
そんなことを思いながら、隣に座る高校時代の自分を眺める。

あの時の俺と同じように、苗字ナマエに苦労している自分を眺めていると、相変わらずだなぁと他人事のように笑えてしまうから不思議だ。
何か俺に聞きたいこととかない?と高校生の自分に聞けば、案の定口にしたのは彼女のことだった。


「苗字をどうやって振り切ったのか、教えて欲しいです」

ポケットに入ったビロードの箱に指を滑らせて、赤葦は確信する。
今の俺が、10年前の俺に何かアドバイスをしたとして、きっとこの結末は変わらない。
それは、同じようにアドバイスをされた”10年前の俺”自身の経験から言えることで、ならば何を言おうが恐らく構わない。

ならばいっそ、俺を楽にしてやろう。

無駄な事で悩み、心労の絶えない過去の自分に同情しながら、赤葦は隣に座る高校生時代の自分を見やった。
俺のアドバイスをどこかで期待しているらしい過去の自分に、とどめの一撃。


「どうせ逃げられないから、諦めた方がいいよ」

10年後の赤葦のアドバイスも虚しく、長期戦の末にガッチリ捕まってしまった赤葦は今日、箱の中の銀の輪を渡し、苗字ナマエを生涯の妻にする。

愛しの未来の運命よ

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