折角の休日ではあるが、日々続く部活のサポートに体力を使い果たすナマエは、たいてい家でごろごろしている事が多い。
今日も今日とて、リビングの柔らかいラグの上で転がっていた。
昼少し過ぎという時間帯は、日差しも温かく、襲って来る眠気には抗いがたい。
そんな睡魔に反抗する気等微塵も無いが、この快適な空間でだらけきっていた。
涎をたらしてしまいそうなくらいには気持ちのいい温度を感じていると、ふいにテーブルに置いた携帯の音が鳴った。

着信音から電話であると判断し、ナマエは横になったまま手をのばして、携帯を手にとった。
寝ぼけ気味に画面をタップし、もしもし、と言えば、電話の向こう側の相手はそれはそれは勢い良く第一声を発した。

「ハァイ、苗字!久しぶりー」
「……及川?」

妙にテンションの高い機械の向こう側の人間に、ナマエは眉をひそめる。
久しぶりって、昨日部活で会ったじゃないか。
ナマエがそれを口にしようとした瞬間、及川は衝撃的なことを口にした。

「聞いたよ、婚約おめでとう!」
「……は?」

聞き間違いだろうか。
今及川は、婚約と言っただろうか?

こんやく?こんにゃく?混浴?
聞き間違えそうな言葉を脳内に並べてみるも、どれも意味不明すぎてナマエは考える事をやめた。
もう一度聞き返せばいいや。

「ねぇ及川、上手く聞き取れなかったんだけど、さっきなんて言ったの?」
「あっ、やばい苗字。一旦電話きるね!」
「はい?」
「また後でかける!」

ブツ、と唐突に電話をきられ、ナマエは耳に当てた携帯を睨んだ。
言いたい事一言言っただけで電話をきるとは、どういうことなのか。

快適な睡眠時間を妨害されて、やや機嫌が悪くなったものの、ナマエは改めて寝転んだ。
お腹にかけている布を体全体にかかるように広げ、再び体勢を整える。
及川がまた後で電話をかけるとは言っていたが、連絡を待つ気はさら無い。

ああ、このタオルケット気持ちいいなぁ。
そんなことを思いながら、リビングで昼寝を決め込もうとしたナマエは、突然体を揺り動かされて意識を浮上させた。

「もう何、お母さ…」

あれ、そういえば今日はお母さん、友達と一緒にお茶をしに行っていなかっただろうか。
そんな疑問を浮かべると同時にナマエの視界に飛び込んで来たのは、こちら覗き込んでいる見覚えのある人物だった。
一瞬、思考が停止したものの、寝ぼけているのだろうかと目を擦る。
しかし、ナマエの目に移る景色は変わらず、こちらを覗き込んだままの松川は、今度は激しくナマエの肩を揺すった。

「ちょっと、起きてくれない?」
「…え?何で松川がここにいるの?」
「それは俺のセリフなんだけど」

のそりと上半身を起こしたナマエは、目の前にしゃがみ込んでいる松川を見て呆然とした。
一体何処から我が家に入ったのだろうか、とか、そもそもなんでここにいるの、だとか疑問は湧くが、状況が理解し辛すぎて一気に脳内処理が進まない。
そして何より驚いたのは、リビングに寝転んでいたはずのナマエは、全く見覚えの無い部屋の真ん中に転がっていたことだった。

「…ここどこ?」
「…それ、俺も聞きたいんだよねぇ」

ふぅ、と息をついて松川は、ナマエの目の前にあぐらをかいて座った。
白地に薄い青緑色の刺し色が入ったジャージ姿の松川の片手には、今週号のジャンプが握られている。
松川ってジャンプ読むんだ、というやや見当違いなことを考えているナマエの隣で、松川はぼりぼりと頭を掻いた。

「俺、さっきまで自分の家の部屋でジャンプ読んでたはずなんだけど」
「うん」
「気がついたら、ここにいたんだよ」

夢なのかな?と首を傾げる松川の言葉に、ナマエも妙に納得した。
そうか、夢か。
確かに私昼寝してたし、松川ももしかしたらジャンプを読んでいる最中に寝てしまったのかもしれない。

「夢なんじゃない?だってこの状況意味がわかんないもん」
「そっか…夢か。俺、夢の中で自分が夢見てるって分かるのはじめてだわ」
「そうなの?私はたまにあるなぁ」

二人でのほほんとそんな会話をしながら、自分たちがいる空間に視線を向ける。
部屋の内装はまだ新しく、奥にあるキッチンや食卓、フローリング、時計やテレビ等日常生活で遣う家具はどれも買ったばかりのように見える。
興味が湧いて部屋の物色を始めたナマエに連られ、松川もリビングの硝子戸から外の様子を眺めてから、テレビラックの辺りを漁りはじめた。

「このお鍋可愛いなぁ…」
「あ…俺の好きな映画の続編がある」
「見ちゃえば?」
「いや、夢の中で見たってどうせ忘れるでしょ」

DVDのパッケージの表を眺めながら、裏面をひっくり返し、松川は苦笑いを浮かべる。

「この映画の公開年、あと4年後になってる」
「もうなんでも有りだね」

夢と分かれば、もうどんなことにも動じない。
しかし、そろそろ現実の世界の自分は起きてもいいものだと思うのだが、なかなかにこの不思議な世界は終わらない。
まぁいつか目が覚めるだろう、と呑気なことを考えていたナマエは、リビングのドア付近の壁沿いにけかられたコルクボードに目を止めた。

「…松川」
「なに」
「ちょっと来て」

ナマエの少し動揺した様子に首をかしげながら、松川はDVDを片手に寄って行く。
ゆったりと歩いてコルクボードの前に立った松川も、流石に夢の中とはいえど驚いたようだった。

コルクボードにはたくさんの写真がピンで止めてあった。
その多くが、青城で撮られたもので、入学したてのころのバレー部全体写真や、合宿の時の写真、修学旅行の時の写真など、さまざまな行事での思い出の1シーンが飾られている。
しかし、注目すべきはこの卒業式の写真だ。
ナマエも松川も、まだ現役高校3年生で、未だ部活だって引退していない。
それが高校を卒業式の後なのか、胸元に花をさしたバレー部の面々が写っている写真は、どういうことなのだろう。
そして、更に気になる事がもう1点。
このコルクボードの写真の被写体に、松川とナマエが圧倒的に多いのだ。

「…もしかしてこの夢って、何年か後の設定なのかな」
「設定って…」

何言ってんだお前、と言いたげな松川の視線をあびながら、ナマエはコルクボードの写真を眺める。
京都にいるのだろうか、おごそかな神社を背景に松川とナマエが微笑んで写っている写真に目を奪われながら、ナマエは思わず本音を口にした。

「この夢の中では、私と松川って恋人なのかな」

夏に海へ行ったのだろうか、水着にパーカーを羽織った松川の腕にまとわりついて、笑顔でピースをしたナマエがこちらを向いている。
何喰わぬ顔で写真に写っている松川は、さりげなく空いた手でピースをしていた。

「…そうかもね」

松川の普段通りの声色はどこか穏やかだ。
なんだかそれが嬉しくて、ナマエはちらりと松川を伺うように見上げた。

「というか、ここ俺達の家なんじゃない?」
「…えっ?」
「ほら、そこの机の上の封筒見てみなよ」

松川が指差した先の机の上には、何通かのハガキと封筒が重ねて置いてある。
それを手に取り、1枚ずつその宛名を確認すると、郵便のうち2件は松川、もう2件はナマエの宛名が掻いてある。
しかし送り先の住所はどちらも同じだった。

「本当だ…よく気づいたね」
「実は苗字が寝てる間に物色してたんだよ」

困ったように笑う松川と目があって、ナマエは少し驚いた。
分かってて何故黙っていたのだろう、と思ったのもつかの間、いざそれを互いに認識すると途端に気恥ずかしくなる。
「そっか」とナマエが吐息を吐くような小声で呟けば、「うん」と松川も照れくさそうに頬を掻いた。
ふわふわとした妙な雰囲気が漂い、互いにもじもじとしている事がナマエにも分かった。

「…でも、残念だなぁ」
「…何が?」
「だって、これ夢なんだよね」
「多分…」
「折角、ここでは松川の恋人で同棲までしてるのに、現実の私じゃ程遠いもん」

どうせ夢の中なんだ。
何を言ったって構わないだろう、と半ば開き直ったナマエに、松川はキョトンとしている。

「私、実は松川の事好きなんだ」
「…まじで?」
「まじで」

ああでも、少し恥ずかしいかもしれない。
照れ隠しにわらってみせれば、松川は目を見開いて、ナマエの方を見下ろした。
そして数秒置いてから、急に咳払いをした。
視線も若干泳いでおり、なにかをゴニョゴニョと言いたげにしている。

「…俺も、」
「え?」
「…俺も、苗字の事気になってたんだけど」
「…まじで?」
「まじで」

先程の会話の流れを反芻し、互いに顔を見合わせて吹き出した。
ああ、松川と心が通じ合うなんて、まるで夢のようだ。夢だけど。
嬉しくて松川にひっつくと、体をびくつかせた松川は両手を宙に彷徨わせてから、そっとナマエの背中に腕を回した。
はじめて抱きついた松川の体は温かく、ドクドクと早鐘を打っている鼓動を聞いて、口をだらしなく緩めずにはいられない。

「松川…すっごいドキドキしてる」
「…仕方ないだろ。好きな子に抱きつかれてるんだし」
「ふふ…そっか。嬉しいなぁ」
「苗字は…なんかいい匂いするね」

スン、とナマエの耳元で鼻をならし、ナマエの頭に頬を寄せる松川に、ナマエの心臓も同じように高鳴っている。
第三者がいれば、砂糖でも吐いてしまいそうな程に甘ったるい空気はしかし、横やりを食らう。


ピンポーン

不意に家中にインターホンの音が鳴り響き、抱き合ったままの二人は顔を上げた。
どうやら、誰かこの家にやって来たらしい。
ナマエと松川は顔を見合わせてから、二人して玄関に通じるドアに視線を向ける。

「…どうする?」
「出てみようよ」

もしかしたら、何年か後の及川とかがいるかもしれないし。
ナマエがそう言えば、松川は「なんで及川?」と首を傾げた。
ここでふと、ナマエは先程、及川からかかってきた電話の事を思い出した。
そういえば、後で電話掛けなおすと言っていたが、まだ連絡が来ていない。
…まぁいいか、と及川の件はさっさと投げて、二人して玄関に向かう。

松川の手には未だDVDが握られたままで、それについて言及すれば「ジャンプと間違えて持って来た」と顔のわりに子供っぽい事を言うので、少しおかしかった。

扉の向こう側で、ひそひそと誰かが話している声が聞こえる。
何の話をしているのか聞き取れないが、特になんの疑いも無くナマエは玄関のロックを解除した。

キィとドアを開けた向こう側には、色とりどりの花が広がっていた。

「やっほー苗字!」

目の前に突き出された花束が下に移動し、さわやかな笑顔を浮かべて立っていたのは、及川だった。
声だけで誰だか分かったナマエは呆れたような顔で及川と対面する。

「まっつんに聞いたよ、婚約おめでとう!実は俺、昨日日本に帰って来て……」

しかし、花束を持った及川は、ナマエの隣にいる松川を見るなり、動かしていた口を止めた。
表情をひきつらせた、という表現が正しいかもしれない。

口をパクパクと動かしてはいるのだが、言葉に鳴らずに空気が漏れているだけだった。
ナマエも松川も及川の様子に顔を見合わせたものの、及川のこの表情の理由までは分からない。

しかし、ここでふとナマエは気づく。
あれ、及川ってここまで大人っぽい雰囲気を漂わせていただろうか。
ナマエの動きが止まったと同時に、松川は「あ」と言葉を漏らす。

ここまで及川の後ろに隠れていて見えなかった誰かが、及川の肩の方から顔を出す。
少し癖のある髪、大人っぽい雰囲気に、どこか色気を漂わせている長身の男は、見間違うはずもない。

「あれ、ナマエ?……と、俺?」

カツン、と靴音を鳴らした主は、驚愕の表情でこちらを見て目を見開いた。
ナマエの隣にいる松川も同じような表情で、及川の後ろに立つもう一人の松川を凝視する。

松川が2人いるという、この謎の状況で、理解の追いつかない4人はお互いに出方を伺うように停止する。
この中で一番先に正気に戻ったのはナマエだったが、その口から発した言葉は、一番この状況から現実逃避したものだった。

「あ、なんだ夢か」

ナマエの間抜けな発言に、隣の松川と目の前の及川は固まったままだった。
しかし、及川の後ろにいる松川は、ナマエの言葉を聞いて吹き出した。
そして、どこか懐かしそうに、優しく笑った。

「おい、ジャンプ忘れて帰んなよ」


松川の最後のあの発言は、どういう意味だったんだろう。
自宅のリビングで夢から覚めたナマエは、ぼんやりとそんなことを思った。




「……っていう、夢を見たんだよ」

翌日の放課後、部活が始まる前の時間に部室に向かえば、丁度松川だけが室内にいた。
すでに着替えを済ませ、今から体育館に向かおうとしているタイミングで丁度蜂会わせる。
「お疲れ」とお互いに言葉をかわし、ナマエはマネージャーの仕事をすべく、タオルが大量に入ったカゴを持ち上げる。
ここでふと、昨日の夢の事を思い出し、なんとなく松川に話たくなった。

できるだけ端的に松川に昨日見た夢の内容を話せば、「何それ」と変な顔をされた。
勿論、夢の中で松川とお互いに告白しあったことなどは伏せ、ただ単に変な空間に2人で迷い込んだことを話しただけだった。
松川は「ふぅん」と呟いて、ロッカーの中に入れたカバンの中身を漁る。


大して興味なさそうな松川に、やはり夢の中で両想いになったのはナマエの願望の現れだったのか、と密かに肩を落とす。
まぁ、夢の中で私たち同棲してたんだ、などと言われても反応に困るだろうし、しょうがないか。

松川との話のタネくらいになっただろう、気を取り直してとカゴを持ち直すと、松川はカバンの中からおもむろに黒いケースを取り出した。

その黒いケースをナマエの目の前に差し出すものだから、ナマエは自然にそのケースに目を止める。
手に少し収まらないくらいの薄い長方形のそれには、最近公開された映画のタイトルと印刷された紙でパッケージングされている。
どこからどう見ても、映画のDVDであるのだが、ナマエはパッケージの右下に小さく印刷された公開年を視界に入れて息を止めた。
そして夢の中の松川の発言を、記憶が曖昧になりつつ有る中、じわりと思い出した。

『あ…俺の好きな映画の続編がある』

松川の手にあるDVDのパッケージのタイトルロゴの後ろに、「リターンズ」と続編にありがちな言葉が添えてある。


「間違えて持ってきちゃった」

中身は空なんだけどね、とどこか楽しそうに笑う松川の言わんとすることを理解して、ナマエはみるみる紅潮していく。

まさか、そんな、あれは夢じゃ…。

動きと思考を止めたナマエを他所に、タイミング良く部室のドアをガチャリと開けて、花巻達が室内に入ってくる。
「ウース」という挨拶に何の反応も示さないナマエと松川に首をかしげながらも、花巻は思い出した、というように口を開いた。


「おい松川、この前貸したジャンプ早く返せよ」

愛しの未来の婚約者

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