大会を間近に控えた某月某日、放課後。
差し迫った試合に向けて、居残りで練習を続けていた時に、それは突然起こった。


「あれ…岩ちゃんが、二人いるように見えるんだけど…」

俺の目がおかしくなったのかなぁ?なんておどけてみせた及川ではあるが、口調とは裏腹にその表情は驚愕に満ちている。
及川の発言は全く持って意味不明であったが、今目の前で起きている現実の光景は、まさにその通りだった。

体育館の出入り口には、2人の人間が立っている。
一人は腕を組んで深刻そうにしている部活着の岩泉、そしてその隣には、少し気まずそうにしているラフな格好の岩泉が立っていた。
岩泉が二人居る、という意味の分からないこの状況を理解できる人間など、この空間には誰一人としていなかった。
マネージャーであるナマエを含み、居残りをしていたメンバーが怪奇現象に固まっている中、初めに動きを見せたのは及川だった。

「えっ…どっちが岩ちゃんなの?」
「……それがな」

部活着を着た岩泉の方が、真面目くさった顔で及川に答える。

「どっちも俺みたいなんだよ」


こうして、この日の居残り練習はここで一旦打ち切られる事となった。

どうしてこんな事になったのか。
岩泉に経緯を聞くと、なんでも水道へ顔洗いに行ったら、いつの間にかもう一人の自分がいたらしい。
「意味がわからん」と言った花巻に、岩泉は「俺も意味がわからん」と返した。

そして、自然に部活着を着ていない岩泉に視線が集まる。
どこからどう見ても岩泉なのだが、普段見る岩泉よりも少し背が高いこと、雰囲気が大人びているように見えるところが、『ここにいる全員が知っている岩泉一』との違いである。

全員の好奇の視線を集めた岩泉は、ガリガリと頭を掻きながら、いい辛そうに口を開いた。

「…すっげぇ突拍子もねぇこと言うんだけど」
「もうすでに突拍子も無いよ」

及川の的確なツッコミに、一同は頷く。
それに対して「だよな…」と納得したように声を漏らした岩泉は、苦笑いしながら自身の事を語った。

「俺、今25歳なんだけど」
「…は?」
「いや…俺、なんか過去に来たみたいなんだわ」

自称25歳の岩泉曰く、明日に備えて早めに寝ようと布団に入り、気がついたら体育館脇の水道場近くに倒れていたらしい。
はじめは夢かと思い、自身の高校時代の母校に懐かしさを感じていたら、ちょうど高校時代の自分が通りかかった。
両者共に驚き、暫くは無言のまま対峙していたが、岩泉しか知り得ない情報を互いに知っていた事を確認し、『どちらも岩泉である』という結論に至ったのだという。
案外冷静な対応をするものだとナマエは感心したが、こんな意味不明なことが起こったら、逆に慌てないのかもしれない。

「本当に未来の岩ちゃんなの…?」
「おう、なんなら未来の俺しか知らない事を教えてやろーか」
「えっ?」

きょとんとする及川に、25歳岩泉はフンと鼻で笑った。
その仕草が、ナマエ達の良く知る岩泉そのままだったものだから、全員が一瞬息を飲む。
そんな周りの様子に気づいていないのか、大人の岩泉は得意気に及川の方を見やる。

「お前、今他校のバレー部の変な女に言い寄られてるだろ」
「…えっ」

ぎょっとする及川に対し、隣に立つ高校生の岩泉は「そうなのか?」と首を傾げる。
及川が他校の女子に黄色い声を浴びせられるのは何ら珍しい事ではないのだが、及川の顔色が悪くなったことに驚く。
いつもなら自慢げに「いやぁ、俺モテちゃうからさ〜」と言って部員達の反感を買いにいくのが、我が部の主将である。
それが顔を青ざめさせるというのは、どういうことなのだろう。

「ストーカーじみてきて、怖ぇんだろ?」
「…何でそれを…」
「最近、25歳のお前に聞いたんだよ。高校の今くらいの時期に、実はストーカー被害にあってた…ってな」
「…げぇ」

どうしよう岩ちゃん、と及川が高校生岩泉に尋ねるも「知らねぇ」と興味なさげに返される。

「他人事だと思って…!」
「他人事だからな」
「……」

どうでも良さげな岩泉にむっとはしたものの、及川は諦めるようにため息をついて、大人岩泉に視線を向ける。
その表情はやや不満そうではあったが、少しだけ助けを求めるようでもあった。

「…ねぇ、未来の俺はどうやってあの人から逃げ切ったの?」
「さぁな…。自分の無様な姿を俺に話したくないらしくて、撃退法までは聞いてねぇ」

まぁ及川はどうにかしてたし、なんとかなるだろ。
ニヤリ、と楽しげに笑う25歳岩泉は、紛れも無く『岩泉一』だった。
及川を出し抜いた時に見せる既視感のある笑みに、見守っているメンバー達は確信する。
高校生の岩泉も、しげしげと未来の自分を眺めながら、納得したようであった。

しかし、ここでふいに花巻が授業よろしく綺麗に手を挙げる。

「はーい、大人岩泉に質問」
「あ?」
「左手薬指のそれ、なんですか」

花巻が目ざとく見つけたそれは、大人岩泉の手に輝く、銀の指輪の事を指していた。
指摘された事に気づき、大人岩泉は「げっ」という顔をしてからポケットに左手をつっこむも、全ては手遅れである。
及川は驚愕の表情を浮かべ、ナマエは背筋を凍らせた。
言葉を濁している大人岩泉の様子が、この場にいる全員が思い浮かべた事が事実であると肯定している。

25歳の岩泉は、結婚しているらしい。

「…岩ちゃんのお嫁さんって可愛い?」
「…は?」
「詳しく教えてよ岩ちゃん」
「……絶対嫌だ」

眉を吊り上げて怖い顔をする大人岩泉に、高校生岩泉は物凄く個人的なことを口にした。

「及川も嫁さんいんのか?」
「…いや、あいつは結婚まだだけど」
「ならいい」
「ちょっと何がいいの?何勝ち誇った顔してんの岩ちゃん?」

鼻で笑う高校生岩泉に、及川は口元をひきつらせた。
「今まで彼女できたことないくせに!」と暴露する及川を蹴り飛ばした高校生岩泉を見て、大人岩泉は懐かしそうに笑った。
ぼそりと「変わんねぇなぁ」なんて言っているものだから、今もあの二人の関係は相変わらずなのだろう。
いつもの口喧嘩を始める過去の自分と及川を尻目に、大人岩泉は体育館に備え付けられている時計に視線を向ける。

「今日はまだ練習すんのか?」
「あぁ…あと30分くらいしかないけど」
「そうか…」

懐かしげに体育館をぐるりと眺めてから、大人岩泉は体育館内に残る部員達に視線を向ける。

恐らく、大人になってからは、この中にいる殆どのメンバーとは会えていないのだろう。
そう思わせるくらいには一人一人の顔をゆっくりと見ている大人岩泉に、ナマエはドキドキとして口元を引き結んだ。
全員の顔を見て過去の記憶を思い出しているであろう岩泉の視線は順番に動き、そしてついにナマエは大人岩泉と目が合った。
今の岩泉の面影を強く残したまま精悍さの増した彼は、好きな相手という特殊なフィルターがかかっていることもあるが、思わず見蕩れてしまう程に格好いい。
普段の練習中でさえ、岩泉のプレイに目を奪われてしまうというのだから、想い人の成長した姿を見て感極まるなと言う方が無理な話だ。

大人びたせいかどこか落ち着いた雰囲気を纏う彼と暫く目があったものの、成人してしまった想い人は表情を変えぬままにあっさりと視線を移し、ナマエの隣に立つ部員に目を向けていってしまった。

何の根拠も無いくせに、身の丈に合わない期待をしていたナマエは、特に気にとめられなかった事に勝手にショックを受ける。

岩泉が結婚しているという事実を知り、おこがましくも『私が岩泉と結婚していないだろうか』と浮かれたものの、岩泉のこの反応ではそんなことは無いようだ。
希望とも言えない最後の願いも叶わず、ナマエは自嘲気味に俯き、こっそりとため息をついた。

今でさえ、ナマエはひっそりと岩泉に想いを寄せてはいるものの、岩泉はこちらを大して意識している素振りも無く、ナマエの事はただの『マネージャー』という認識でしかない。
アピールなんて堂々とする勇気も無く、自身の中に気持ちをくすぶらせているだけなのだから、当然と言えば当然だ。

ただただ募らせているだけのこの想いが、報われることはない。
それをまさか、未来からやってきた岩泉に知らされるとは夢にも思わなかった。

ナマエがそうこう落ち込んでいる間に、他の部員達は大人岩泉も交えて居残り練習することになり、盛り上がりを見せる。
超現象に見舞われているにもかかわらず、男子達の適応の早さには感心せざるを得ない。

残り数十分の居残り練習の最中、及川は軽口を叩きながらも、二人の岩泉に楽しそうにトスを上げた。
驚いたのは、大人岩泉の繰り出すスパイクはパワーも技術も今の岩泉から随分とレベルアップしていることだ。
衰えを見せない大人岩泉は、今でもバレーを続けているようである。

「もしかしたら、プロのバレー選手なのかもね」

及川がぽつりと溢した発言を耳で拾い、ナマエもその発言に同意した。
高校生岩泉もその可能性があることを察したのか、始終機嫌が良く、スパイクのキレも一段と増す。

そうして30分はあっという間に過ぎ去り、体育館の片付けを終え、帰宅の時間となった。
最後の見納めをしよう…と大人岩泉を探していると、松川がさり気なく「でかい方の岩泉は先に帰った」と教えてくれた。
「そんな…」とがっかりとするナマエを見かねて、松川は励ますようにポンと肩を叩く。
もしかしたら松川は、私が岩泉に想いを寄せていることを察しているのかもしれない。

「…でも、どこに帰るの?」
「そこまでは知らねぇ…。宛はあるって言ってたけど」

そうか…もっと大人岩泉のことを目に焼きつけておけば良かったなぁ…などと名残惜しく思いながら、ナマエもとぼとぼと帰路についた。
今日は予想だにしない非現実的な現象に見舞われたせいか、全てが夢だったのではないかと思えてしまう。
しかし、それも現実逃避のように感じられて素直に受け入れられない。

岩泉が結婚する。
その事実だけが、じわりじわりとナマエの胸を刺す。
自身が将来お嫁さんを貰うのだと知っても、高校生の岩泉には大した動揺は見られなかった。
あまり興味がないのか、まぁいつかは結婚すんだろ、とでも思っているのか。
ナマエの予想は後者ではあるが、もしかしたら今の時点で『岩泉が結婚したいと思う女の子』がいるのではないかと勘ぐってしまう。

一人でぐるぐると考えているうちに、ナマエはいつもの帰路の途中にあるバス停に差し掛かった。
大して便の本数もないそこには、申し訳程度の屋根の下に、一台の腰掛けベンチだけが置いてある。
普段ならば大して意識もしないその場所を通り過ぎようとしたところで、ナマエは違和感に気づき顔を上げる。

ベンチがそこにあるというのに、あえて座らずにそこに立っている男が一人。
更に言ってしまうと、その人物には非常に見覚えがあった。
思わず立ち止まったナマエの気配に気づいたのか、ベンチの前に立つ大人の岩泉はゆっくりと振り返った。

「お、練習お疲れ」
「…うん…いや、はい」
「あー…敬語はいいよ。変な感じする」

「同い年だろ?」と言って、今の岩泉と変わらないカラッとした笑みを浮かべる大人岩泉に、ドキドキするなというのが無理な話である。
大人の岩泉にとっては同い年という認識でも、今高校生のナマエから見ればとてもそうは思えない。
こうして一対一で話をして、目を合わせているだけで、心臓が口から飛び出てきてしまいそうだ。

「…岩泉は何でここに?家こっちの方じゃないよね…?」
「あぁ…ちょっとな。ここに久しぶりに来てみたかったんだよ」

こことは、この古ぼけたバス停のことだろうか。
ナマエが首を傾げたのを察して、大人の岩泉は吹き出すように穏やかに笑う。

「思い入れのある場所なんだ」

そう言って懐かしげにバス停の時刻表を眺める岩泉の横顔に、ナマエは静かに息を飲む。
慈しむように口元をやや緩ませている岩泉の表情を、これまでに一度も見た事が無い。
月日の経過でこんな顔ができるようになったのか…とも思ったが、女の勘というものだろうか、その表情の理由をなんとなく察した。

「奥さんとの思い出の場所?」

ナマエが静かに尋ねると、岩泉は一瞬動きを止めた。
微かに息を飲んだようにも見えたが、その動作だけでナマエの質問の答えは筒抜けである。
図星なのだ。

「初デートの待ち合わせ場所とか?」
「…いや、まぁ…」

歯切れの悪い岩泉を眺めてから、ナマエはゆっくりと俯く。
初デートではないものの、何かしらの思い出の場所なのだろう。
今の岩泉を見ていてそれがなんとなく分かり、ナマエは少し凹む。

ああ、岩泉は誰だか知らない女の人と結婚してしまうのか。
ズーンと落ち込むナマエを見て何かを察したのか、大人の岩泉は密やかに目を伏せた。
言おうか言わまいか迷っているようだったが、結局言うことにしたらしく、岩泉はゆっくりと口を開いた。

「実は俺、明日結婚式なんだよ」
「…えっ」

突然の告白に、ナマエはぴしりと固まる。
もしかしてナマエの気持ちを察してトドメを差しに来たのかと思ったが、大人の岩泉がこちらに向ける視線に息を詰める。

「俺の嫁さん、長いこと俺の事好きでいてくれたらしいんだ。俺、そういうの鈍くて全然気がつかなかったけど、嫁さんが諦めなかったおかげで、俺はあいつと結婚まで漕ぎ着けることができた。…だから、」

岩泉の腕がゆっくりと伸び、ポン、とナマエの頭に乗る。


「諦めないでくれよ」


それは、どういう意味なのか。
そう聞き返す前に、目の前にいたはずの岩泉は姿を消していた。

私は夢でも見ているのだろうか。
かすかに残る岩泉の手の感触に、ナマエは呆然と立ち尽くした。

愛しの未来の花嫁よ

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