「港、今日お友達と映画を見に行くのよね?」

朝の食卓で、何の気無しに発言した母親の一言が、この騒ぎの元凶だったように思う。



「お前明日暇?」

 放課後、突然港の席の前にやってきた及川は、真顔でそう言った。明日は珍しく学校も部活も休みなので、家でのんびりとしようと思っていたのだが、さてどうしようか。港が一瞬迷ったのを察したのか、及川は苦笑いを浮かべる。

「実は、前々から見に行きたい映画があったんだよ。……それで、ここに今前売り券が二枚あるんだけど」
「……まさか、私を映画に誘ってる?」
「それ以外ないだろ」

 馬鹿なの? と誘っている側の及川が見下すように視線をこちらを向ける。普段なら睨み返しているところだが、港は今まで彼氏なんてできたことがないのだ。故に、男子に映画に誘われるということに慣れているはずもなく、免疫もない。

「いや……映画に誘われるのなんて初めてで……びっくりした」
「えっ……お前友達いないの?」
「男子に誘われたこと無いだけだよ」
「それはお前の初めての彼氏が俺だからね、しょうがないね」

 可哀想なものを見る目でこちらを見て来る及川だったが、港の返答に「なーんだ」とどうでも良さげな反応を示した。それに若干の不満を抱きながらも、港の中の解答はあっさりと決まる。

「で、何見るの?」
「……えっ」

 暗に「映画を見に行く」と言った港の発言に、誘った本人が驚いていた。もしかしたら、港がすんなりと頷くとは思っていなかったのかもしれない。数秒呆気に取られていた及川は、ハッとして普段の調子を取り戻し、見に行く映画と、上映時間などの詳しい情報を話してくれた。そうして放課後のたった数分程度で交わした約束により、明日港は、人生で初めての本格的なデートをすることとなったのだ。
 そして、冒頭に戻る。

「港、今日お友達と映画を見に行くのよね?」

 黙々と納豆ご飯を口に運んでいた港は、母親の質問にこくりと頷いた。すると、母親の発言を耳で拾った兄が顔を上げる。

「誰と行くの?」
「及川」
「及川? あんまり聞かない名前だな」

 『及川』という初めて耳にする名前に首を傾げながら「最近仲良くなった子?」と兄は牛乳瓶に口をつけながら港に尋ねる。

「最近というわけでもないんだけど……」
「そうなの? 及川……下の名前は?」
「徹」
「とおる……女の子にしては珍しい名前だな」
「いや、女じゃなくて男」

 港が何気なく答えた瞬間、時間が止まったかのように食卓が静まりかえる。お茶碗に付着した米粒ひとつひとつを丁寧に拾っていた港は、固まる家族の様子に気づいて箸を止めた。洗いものをしていた母親も、朝食を食べ終わり牛乳を飲んでいた兄も、テレビを見ながらのんびりしていた父親も、家族全員が港の方に顔を向けている。そして、そんな緊張感漂うリビングの空気を初めに動かしたのは、兄だった。

「え? お前、男と出かけるの……?」
「うん」
「……どこに行くわけ?」
「映画を観に行く」

 ゴクリと息を飲んだ兄は真顔ではあったが、鼻の下についた牛乳が非常に間抜けだ。確かに、港が同年代の男とデートに出かけるのは初めてではあるが、そんなに驚くことなのだろうか。

「嘘だろ……もしかして、彼氏とか言わねぇよな?」

 恐る恐る、といった風に尋ねてくる兄に「彼氏だよ」と港が答えると、途端にリビングが騒がしくなった。

「ということは……この後デートなの……? アンタ、納豆食べてる場合じゃないでしょ!?」
「すげぇ、港を彼女にするなんて……チャレンジャー精神はんぱねぇなそいつ」
「いやぁ、めでたい! 港の高校受験合格の時よりもめでたい」

 父親でさえソファから立ち上がり、妙な盛り上がりを見せる家族に港は困惑する。納豆ご飯も食べ終えたし、そろそろ出かける支度をしたいところではあるが、家族全員が引き止めてくるため、港は席を立てない。

「ねぇ、彼氏君ってどんな人?」
「どんなって言われてもなぁ……」

 母親に尋ねられ、Tシャツにジャージ姿で強烈なサーブを繰り出す及川を思い浮かべる。サーブが相手コート内に落ちたのを確認してから、やりきった表情というよりは「こんなサーブ取れねーだろ」と嫌な笑みを浮かべている印象が強い。母親の質問へ解答に暫く悩んだ後、「図体でかくて、性格悪いゴリラ」と港が普段及川につく悪態を述べた。決して嘘ではないのだが、こう言えば興味を失うかと思った。しかし、家族は表情を曇らせるどころか、何故か皆興奮しながらも、納得した様子だった。

「お前みたいな怪力女を彼女にしてくれる心の広い奴なんだろ? ゴリラでも貴重な存在だと俺は思う」
「そうだなぁ……港を嫁に貰ってくれるような度胸のある男なら、父さんも安心なんだがなぁ」
「彼氏君をゴリラだなんて言うんじゃありません! ねぇアナタ?」
「そうかぁ……港も結婚かぁ……」
「父さん、それは気が早いだろ」

 港に対する明け透けな物言いは、家族故に容赦がない。そりゃあ、小学生のころから男子並みにたくましいという自覚はあるが、こうもズバズバと本音を言われると、流石の港も若干傷つくものがある。家族にこんなに心配される自分は、一体他人からはどう見られているのかと、急に不安になってきた。

「で、どこで待ち合わせしてんの? 駅前なら送って行くけど?」

 普段わりと面倒くさがりの兄は親切そうにそう言うが、ニヤついた笑みを浮かべているので、ただ単に及川の顔が見たいだけだろう。

「いいよ、うちまで迎えに来てくれるらしいから」
「えっ……及川君、うちの家の場所知ってんの?」
「部活の話し合いか何かの関係で、うちの前まで来た事があるんだよ。それでね」
「へぇ……バレー部の男なのか」
「そういえば、港の試合の応援に行った時に、男子バレー部の男の子ちらっと見た事あるけど……皆背が高かったわねぇ」

 及川への期待と思いを馳せる両親と兄は、三人で勝手に及川のイメージを作り上げる。ごつくて筋肉もりもり、心が広いのだからきっと温厚な性格、しかし勇者らしいチャレンジャー精神がある……など、とぎれとぎれにそんな会話を耳で拾い、港は若干頭が痛くなる。
 そうして、港の初めて出来た『彼氏』という存在に興味津々な家族は、及川がやってくる時間が近くになるにつれ、そわそわと落ち着きを無くしていく。母は及川がやって来たら直ぐに分かるよう、庭に出て掃除を始めた。兄に至っては、「男っ気のない妹の初の彼氏」を友達に報告するためにデジカメを構え、玄関が窺えるリビングのガラス戸付近に待機する始末である。父はのんびりとテレビの番組表を眺めながら「父さんにも後で写真見せて」と兄に声をかけていた。それほどまでに、港を彼女に選ぶ『彼氏という名の勇者様』のご尊顔を拝みたいらしい。未だ見ぬ、有馬家の長女の彼氏という未知の存在に、港以外の家族は非常に盛り上がっていた。
 まさか、我が家でこんなことになっているとは夢にも思っていないだろう及川が、港の家にやって来るまであと十五分程となった。港はクローゼットの中から、個人的に可愛いと思っている組み合わせの服に着替え、カバンに必需品を放り込む。出かける準備は万端、というところで、タイミング良くインターホンが家中に鳴り響いた。ガタガタッとあからさまな音がリビング辺りで聞こえ、港は苦笑いを浮かべる。どれだけ及川のことが気になっているんだろう、と半ば呆れるように二階の自室から階段を下りている途中、突如兄がリビングから飛び出してきた。

「港……! なんかすげぇイケメンが玄関にいるんだけど!」
「ああ……及川でしょ」
「はぁあ!? おまっ……さっきの話と特徴全然違うべ!」

 どこがゴリラだよアホか! と何故か説教をたれる兄の後方、同じように父がおろおろとした様子でリビングから現れた。

「港……なんだか凄くかっこいい男の子が来てるんだけど……」

 兄と一緒に外の様子を窺っていたらしい父は、テレビのリモコンを片手に持ったまま、兄と同じ事を口にした。それに対し、先程と同じように「だからそれが及川」と港が説明すると、二人揃って驚愕の表情を浮かべる。

「ほ、本当に……? 彼が本当に及川君?」
「お前……一体どんな手を使ってあんなイケメン落としたんだよ」

 まさか脅したとかそういう強硬手段に出たわけじゃないよな? と真顔で心配し始める兄に、流石の港もあんまりだと内心嘆く。しかし、嘆く暇もなく次の嵐がやって来た。

「ちょっと港! あんた…そんな格好で及川君と出かけるつもり!?」

 玄関で及川の対応をしていたらしい母が血相を変えて廊下を走って来る。そして港の服装を見るなり、急に頭を抱えた。動きやすさを重視した服装ではあるものの、持っている服の中では比較的可愛いと思っていたものなので、港は特に変な格好をしているとは思わない。しかし、母親の中の基準では、港の今の服装はアウトらしかった。

「お母さんの服貸してあげるから、今直ぐに着替えなさい!」
「えっ?」
「ちょっと年配向けで地味な服だけど、まだ港の普段着よりもデート向けなはずだから!」

 「ね! アナタ?」と急にふられた父は、特に考えもなく勢いでうんうんと頷いた。リモコンを両手で握り、チラチラと玄関にいるであろう及川の事を気にしているらしく、落ち着きが無い。そんな父親の様子に気を取られていた港は、ガッと母親に腕を掴まれ、現実に意識を肩を引き戻された。

「お兄ちゃん、及川君にはうちに一旦上がって貰う事にしたから、おもてなしをお願いね! その間に、港を着替えさせるから!」
「ええ!? まじかよ……な、なに話せば……」

 自分の方が年上のくせに、落ち着き無く兄は身なりを整え始める。そしてスーハーと何度か深呼吸をした後、気合いを入れて玄関に向かっていく兄を、港はなんとも言えない気持ちで見送る。さながら戦地へ赴く戦士のような勇ましさが兄の横顔から漂っているが、相手はただの及川である。
 何故うちの家族はこんなに慌てているのだろう。たかが及川が来たくらいで、と及川という存在に慣れている港はそう思う。しかし、家族にとっては、結婚どころか彼氏ができるのかも怪しい有馬家の娘の希望の光が「及川」なのだ。この光を逃してなるものか! と躍起になっている母親は、クローゼットから落ち着いた色合いのワンピースをひっぱり出してきた。この前、お父さんと旅行で言った先で購入したらしい新品のそれを身に纏い、髪も綺麗に整えられた港は、鏡の前に立ってほぅと息をつく。スカートのすそをつまみながら、こういう服を着たのはいつぶりだろう、と感慨深く記憶を辿る。なんだか本当にデートに行くみたいだ、などと他人事のように思えてしまうのは、恐らくあまり実感が湧かないからだろう。落ち着きない港を見ながら「若いわねぇ」と母は口元を緩ませている。そんな母親に背中を押されながらリビングに入った港は、やっとそこで及川と対面した。
 兄と父が座るソファの向かい側に腰掛けている及川は、割とラフな格好をしていた。見た目がいいのでそんな派手さがなくてもキマって見えるのが、なんだか悔しいところではある。しかし、普段及川と会うときは制服かジャージ姿が大半なので、私服を見るとなんだか新鮮な気分である。

「おはよう。準備できた?」

 家族の前だからだろう、王子様スマイルを浮かべる及川に、港は引きつった表情で「待たせてごめん」と、とりあえず謝罪をした。


「それじゃあ、ごゆっくり」
「楽しんできなよ」
「いってらっしゃい」

 ニコニコと気味が悪いほどの笑みを浮かべる港の家族達は、玄関前までやって来た。苦笑いをする港に対し、及川は爽やかな微笑みと共に「いってきます」と片手を上げた。こいつのこの順応性の高さが、今だけは羨ましい。家族に見送られながら、家を出て及川と共に歩き始めて一分程。丁度港の家が見えなくなった辺りで、及川は肩を震わせ始めた。

「……ごめん、及川。うちの家族が」
「ぶっくくく…あっははは! ……ゴホッ」

 港の発言に、ついに我慢がきかなくなったらしい及川は、お腹を抱えて笑い出した。歩くのも辛いくらいにツボに入ったのか、段々と歩みが遅くなり、ついには立ち止まってげらげらと笑いだす始末である。

「お前の家族……面白い人達ばっかりだね。俺を見るなりあからさまに目の色変えるし……話は筒抜けだし……」
「……私がリビングに行くまで、お父さん達と何の話してたの?」

 そう及川に尋ねたものの、港が服を着替えている間に何があったのか、聞きたいような聞きたくないような複雑な心境ではある。及川曰く、父と兄がこそこそと話している事が多かったそうなのだが、聞こえた会話の内容が「すげぇイケメン! やばいイケメン!」という小学生のようなコメントだったらしい。

「あと、娘をよろしくだってさ」

 結婚報告しに来た彼氏に言うセリフだよね……と及川は再び笑い始める。それと反対に港は、羞恥に襲われて顔を覆った。よりにも寄って及川に、うちの家族はなんてことを言ってくれたのだろう。港が恥ずかしさで悶えていると、追い打ちをかけるように及川が「デートのためのお洒落に時間かかったんだって?」とのたまうものだから、頭も痛い。どうやら、及川がリビングで待たされた理由は、そういうことにされていたらしい。

「ああ…なんだかもう帰りたい…」
「まだ映画見てないんだけど」

 なんでデート前に疲労してるんだよ、と港を呆れたように見下ろした及川だったが、ふと港の服装の方に視線を向ける。母親の服ではあるが、ワンピースをあまり着慣れていない港は及川の視線が気恥ずかしく、なんとなく居心地が悪い。

「でも、今日はなんだか珍しい格好してるね」
「……ああ、はいはい。どうせ似合わないですよ」

 いつもの及川との慣れきった言い合いのせいか、卑屈で可愛げの無い言葉がぽろりと溢れる。この男が褒めるわけがない、と当然のように予測した港だったが、隣に立つ及川は予想を崩す言葉を口にした。

「似合ってるんじゃない?」

 油断していたら気づかないくらい、さらりとそんな発言を投下していった。「はいこれ、今日の宿題のプリントだって」とクラスメイトに紙を渡された時のような、日常的に繰り返される動作と見まがう程、流れるような響きだった。数秒、言葉の意味が理解できずにいたが、及川の発言の意味を自覚した瞬間、港は不覚にも照れてしまった。だって仕方がないじゃないか、私はそんなこと言われ慣れていないのだから。無言になって俯いた港の様子に気づいた及川は、ニヤァと意地悪そうな笑みを浮かべて「何々? 照れた? 照れた?」と調子に乗って煽るような発言を繰り返す。港がブルブル震えている事に気づいているくせに、散々にからかい続けるものだから、港は思わず及川の胸ぐらを掴んだ。
 デートはまだ、はじまってすらいない。

デート前戦争

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