今思えば、最初からあの男が気になっていた。

「ごめん、やっぱり結婚できない」

 絶望というのは、こういう事を言うのだろうか。整った顔をした男の口から吐き出された言葉が心を刺した事に、しばらく気付く事ができなかった。彼と婚約をして浮かれていた刹那の事だった。何故、と彼を問いただすと「俺達やっぱり合わないと思うんだ」と言われてしまった。そんな理由で納得がいくわけがない。しかし、いくら尋ねても、彼の意思は揺らぐ様子もなく、最後にはそれにすがっている自分が馬鹿らしくなった。私と彼のこれまでの付き合いは何だったのか、何がいけなかったのか。意地でも泣くまいと思ってその場はなんとか切り抜けたが、家に帰って散々泣いた。
 それが、約一ヶ月前の話である。

 今日は、高校時代のバレー部の同窓会である。仕事を終わらせ、急いで居酒屋に向かいながら携帯の画面を確認する。同窓会への参加は正直悩んだが、なんでも今回の同窓会の主催は男子バレー部元副主将の岩泉らしい。男女混合でのバレー部の同窓会は久しぶりであり、級友との再会により新しい発展があるかもしれないという、期待があった。だからこそ、明日もまた仕事があるにも関わらず、私は仕事の格好のまま飲屋街を歩いていた。
 しかし、あの岩泉が主催とは珍しい。副主将ではあったものの、岩泉は飲み会の進行などを進んで買って出るような男ではなかったように思う。こういう飲み会の幹事は及川か温田が率先して行っていたイメージがあるからかもしれないが、大人数を前にペラペラ喋る岩泉は、あまり想像がつかない。ちなみにその岩泉一は、去年高校時代から付き合っていた元バレー部の彼女と結婚した。そして嫁は、今日の同窓会の女子側の幹事を担当している。
 普段は幹事を率先して行うわけでもない二人が、夫婦揃って幹事とは、これは何かあるのだろう。妊娠報告か、はたまた他のバレー部員のおめでたい話か。最近婚約を解消してしまったばかりの自分には、正直かなりきつい話である。ふぅとため息を吐きつつ、先日まで自身の婚約者だった男を思い出す。
 『あの男』も、いるのだろうか。ぼんやりと彼の顔を思い浮かべながら、丁度目の前にある建物を見上げる。建物の中にある、今日の同窓会の会場である店の看板をじっと確認しながら、複雑な心境に襲われた。正直会いたくない。しかし、未練がましく、会いたいと思ってしまうのも事実だった。
 なんとか心を落ち着かせながら、勇気を出して店内に入った。そして部屋に案内して貰っている道中に『あの男』と遭遇してしまった。

「あれ、久しぶり」

 久しぶりのわりには、随分と気の知れたように声をかけてきた。一体どの口がそう言うのか。思わずギッと睨むと、及川は驚いたように一歩後退した。その相変らずの反応が憎らしく、変わりがないようで、少しだけ懐かしく感じた。

「こわっ、そんなに睨まなくても……」
「及川の顔見るとどうしてもね」
「酷くない?」

 こういう扱いを受けるのは慣れているのだろう、及川は文句を言いつつ、怒りはしなかった。いつものことだと割り切り、苦笑いを浮かべながら「あっちの部屋だよ」と教えてくれる。店員さんの案内を引き継いでくれた及川は、ぶつぶつと「何で皆こんな反応なんだろ……」とぼやいていた。

「何、皆及川の事こんな扱いしてるの?」
「そうだよ。俺もさ、プロバレー選手になってテレビにも出たりしてたから、もっとちやほやされるかと思ったのに……皆揃いも揃ってこうだよ」

 そのくせ、サインを書いてくれとかなりの枚数の色紙を渡されて大変だったらしい。及川がせっせとサインを書いている間、バレー部の仲間は酒だつまみだと酒の席を楽しんでいるものだから、余計に不満なのだと言う。相変らずこんな扱いをされてしまうのは、この男の持つ性質と、その性格によるものだ。自業自得である。

「本当に変わらないよね、及川は」
「そっちもね」

 それは、嫌味なのだろうか。私がギッと睨みをきかせた事に気付いているくせに、及川は鈍感なふりをしてのらりくらりと逃れる。この部屋に皆いるよ、と何食わぬ顔で戸を開けてくれる親切なこの男は、昔から誤摩化す事が上手かった。そういうところが、嫌いだった。

「お、来たか」
「よっ、お疲れ!」

 すでに出来上がっているらしい花巻が、気分良さげに手をひらひらと振る。高校時代はそんなに親しい間柄では無かったが、酔っぱらって気分のいい花巻にとっては、この部屋にいる皆が親友らしい。

「なんだ及川、ナンパか?」
「違うよ」

 呆れたような顔否定した後、及川は適当に空いている座布団に座った。及川が座った席付近には、男女満遍なく座っており、空いている場所もある。一瞬どうしようかと迷った。しかし、先日の一件があったために、心の内で妙な対抗心が燃え上がる。私が何を言いたいのか分かっているくせに、あの男は知らないふりをする。気付かないふりをする。それが、ずっと前から気に食わなかった。
 嫌がらせをしたい一心で私が隣に座ると、及川は一瞬驚いたようだった。しかし、すぐにニコリと表情を作り「何か飲む?」とメニューを渡してきた。それを受け取り、私が吟味している最中、少し離れた席からの会話が耳に入った。

「及川のやつ、友人代表スピーチの途中でマジで泣き出して、それにつられて岩泉も男泣きして面白かったぜ」
「……ちょっとそこ、何の話してんの?」

 少し離れた席で飲んでいたのに、地獄耳というべきか、及川はすぐさま反応した。及川の抗議を耳にし、会話をしていた二人は「キャーこわーい」と棒読みで言葉を発し、近くにいた岩泉の傍に寄った。岩泉も非常に嫌そうな顔をしている。
 どうやら、岩泉の結婚式の話題であるらしい。結婚式に招待されたが、その日どうしても外せない案件があり、出席できなかった私には、正直興味のある話題だった。

「へぇ、どんな感じのスピーチしたの?」

 ニヤリと隣の男を見上げると、及川は視線を逸らして「知らない」と言った。この男にしては、下手な逃れ方である。しかし、誤摩化そうとしている及川に反し、私の正面に座っている花巻は意気揚々と口を開く。

「そりゃあもう、及川のみが知る幼少期から今に至るまでの思い出話だったぜ。俺も聞いてて、じーんと来たし」
「花巻君ちょっと泣いてたよね」
「え、今それバラす?」

 やめて、と真顔になった花巻に笑いが起き、隣に座る及川も肩を震わせる。それを横目で確認してから、近くを通りかかった店員に注文したい飲み物を伝えた。

「及川が泣いてるところ、見た事ないから想像つかない」
「想像しなくていいよ」

 泣いたか泣いていないか、どうでもいい事で言い合いをはじめた周囲の話を聞きながら、隣に座る男に視線を向ける。相変らず、横顔も綺麗な男だと、余計な事を考えてしまう。同時に、その普段通りの調子を崩したいとも思った。

「及川は私の泣き顔を見た事あるのに、私が及川の泣き顔を知らないなんて不公平でしょ」
「……」

 完全に嫌味だった。これには流石の及川も言葉をつまらせたが、直ぐに平静を装って「そうだっけ」と恍けてみせた。

「嘘ばっかり、心当たりあるでしょ?」

 もはや意地だった。嫌でも、私の事を思い出させてやる。そう意気込みながら、私は心の中で押し殺していた恋心を抑え込むのをやめた。ずっと、諦めようと思っていた。見ないふりをしていた。しかし、自身の心に深く根ざした想いは、そう簡単に死にはしなかった。それをまざまざと思い知らされ、膝の上に置いた手をぎゅっと握り込んだ。やっぱり、諦めきれない。
 高校時代、軽口をたたきながらも楽しかったあの時の思い出を、甘酸っぱいあの青春の日々を、私はずっと忘れられずにいる。

「及川、私……」

 私がゆるりと口を開いた丁度その時、不意に部屋の戸が開いた。

「遅れてごめん!」

 カツリとヒールの音を鳴らして入り口に立った彼女を視界に入れ、正直驚いた。一瞬誰かと思ったが、その面影は自分のよく知るものである。

「おう、遅かったな有馬」

 入り口付近に座っていた岩泉は、彼女がすぐに有馬港だと分かったようだった。高校時代は飾りっけが無かったが、社会人となった今では当然化粧もしているし、身だしなみだって整えている。しかし、高校時代の彼女からでは、随分と雰囲気が違う。

「ごめん、ちょっと迷っちゃって……」
「いいよいいよ、お疲れ。ほら、ここ空いてるから座りなよ」

 おずおずと靴を脱ぎ、部屋に上がる港を眺めてから、私は隣に座る男を見上げた。高校時代、及川は有馬港と付き合っていた。私の記憶の中の二人は、良くしょうもない事で喧嘩していた。お互いにお互いが気に食わないのか、嫌味の応酬を繰り返すこの二人は、一生このままなのだろうなと漠然と思っていた。だってお互いに、色気の欠片も感じさせなかったのだ。しかし、及川の事が正直気になっているくせに、好感を持っていないという振りをしていた私には、不安な要素であることには変わりなかった。今はなんだかんだ及川が気に食わない港が、何かをきっかけにして及川の事を好きになりはしないかと冷や冷やとした。女に人気のモテ男、しかも本人はそれを自覚しており、随分と調子に乗っていた。誰がこんな男を好きになるか、とは思っていたが、うっかり淡い想いを抱いていた自分と同じように、港も及川の事を気にしはじめたらどうしよう。しかし、まぁ万が一港が及川の事を好きになっても、及川相手に素直になれないだろう。だから大丈夫だと、高校時代の私は高をくくっていた。
 現実は、及川が港を好きになり、自身の彼女にするという結果に終わった。
 この二人は、未だに付き合っているのかが気になった。しかし、及川はちらりと港の方を見ただけで、特に変わった反応はない。この様子では、どちらなのか分からなかったが、恐らくその可能性は低いだろう。高校時代から今に至るまで、交際が継続しているパターンは珍しいし、何より及川は一人の彼女と長続きしなかった。そんなことをぐるぐると考えていると、不意に岩泉が口を開いた。

「及川、お前話があるんじゃねーのか」

 岩泉が日本酒を傾けながらそう言えば、ビールを飲んでいた及川は「あぁ……」と呟いて、グラスをテーブルに置いた。岩泉のこの発言が思いの他大きい声で吐き出されたせいで、室内にいる元バレー部の面々の大半の視線が及川に集まり、静かになる。何だろう、と疑問に思いながらも、私はなんだか嫌な予感がした。及川は、全員の視線を受けてから、居住まいを正した。

「えー……報告になるのですが、実はこの度、結婚することになりました」

 照れくさそうに首裏を掻く及川は、少しだけ気恥ずかしそうにしていた。しかし、その幸せそうな表情に心を抉られた。まるで時間が止まったかのように、動けない。

「何だ、まさか女子アナと結婚するとか言うんじゃねーだろうな」
「ちげーよ」

 何故か膝を抱えて座っている花巻の発言にツッコミを入れつつ、及川はゴホンと咳払いをした。

「そちらの、有馬港さんと」

 及川に紹介された港は、ピンと背筋を伸ばした。瞬間、室内を静寂が包み込んだ。そして直ぐさま、各自各々に騒ぎ始めた。

「なんだよ、お前らやっぱ結婚すんじゃねーか」
「いや、知ってただろマッキー……」
「わ〜、おめでとう!」
「すげーな、高校の時は小学生みたいな喧嘩してた奴らが」
「あぁ、だから今回の幹事は岩泉だったんだ……」

 周りの人間の「おめでとう」という言葉を聞きながら、私は呆然としてしまった。及川が結婚する。その事実が上手く飲み込めず、どういう反応をすればいいのか分からない。隣に座っている及川はお祝いの言葉を受け、へらへらと笑っている。嬉しそうに笑うこの男の表情をこんなに近くで見られるというのに、喜びの矛先は私ではなく、港に向いている。絶望というのは、こういう事を言うのだろうか。
 高校時代のバレー部の同窓会から、及川と港の結婚祝い会に変化した雰囲気の中、私はぼんやりと元婚約者の事を思い出した。先日まで婚約者だった男は、及川に良く似ている人だった。彼もまた人気がある人で、交際に至るまでには随分と苦労したが、彼が私の事を「好き」だと言って笑ってくれた時の高揚感は凄まじいものだった。彼が好きだったというのは嘘ではない。しかし、彼を通して及川を追っていたのも事実だった。もしかしたら、彼はそれにうっすらと気付いていたのかもしれない。だから婚約を破棄されたのだろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、私はぎこちない動作で口を開く。

「おめでとう、及川」

 平静を装ったつもりだったのに、少しだけ声が震えた。

「ありがとう」

 幸せそうな笑みだった。この笑顔の裏で、私が何を考えているのか分かっているくせに、鈍感なふりをしているのだ。この男のこういうところが嫌いだ。しかし、嫌いのすぐ裏側にある好きが、未だに捨てきれないのも事実だった。この男はどこまでもずるい。こんな男と結婚して、果たして港は大丈夫なのかと、余計な心配さえ湧いてくる。遠くの席に座る港をチラリと見ると、彼女もまた及川と同じように、気恥ずかしそうに笑っていた。もう手が届かないのだと、分かってしまった。

 不意に、高校時代のある出来事を思い出した。及川が港と付き合い始めて一ヶ月くらいの時だっただろうか、日直の仕事でひとり教室の鍵締めをしていると、及川が教室にやって来た。どうやら松川に用があったらしいが、松川は現在教室を留守にしていた。松川の荷物は机の上に置かれたままになっており、それを見た及川は、教室で松川を待つ事にしたらしい。適当な席に座り、フー……と息をついている及川に、話しかけたくなった。

「何、及川お疲れ?」
「まーね」
「ふぅーん」

 大した会話はできなかったような気がする。しかし、彼女がいるとはいえ、自身の想い人と話せるのは正直嬉しかった。教室に二人きり、という状況と雰囲気が、妙に私を刺激した。何気ない会話をしながら、どうしても頭の片隅で考えてしまう。もし今私が告白したら、どうなるだろう。意識をしてくれるだろうか。及川がもし私を選んでくれたとしたら、港と気まずくなるだろうか。酷い事を考えている自覚はあったが、どうしてもその思考をやめられない。これが恋というものなのだろうか……とぼんやり考えながら、港の脳裏に港の事が過った。共に三年間バレーを続けた部活仲間、いつも自身にトスアップをしてくれ、私が得点を決めると一緒に喜んでくれた彼女の事を考えると、後ろめたさも当然あった。しかし、自身の衝動を止められない。

「港とはどう?」
「え? ……何急に」
「ちょっとね、気になってたから」
「……そんな気にするような事でもないでしょ」

 及川は少しだけ目を伏せて、ぼんやりと宙を見ていた。何を考えているのか分からないが、何やら思考を巡らせている事だけ分かった。及川と二人きりになれるなんて機会はなかなか無いだろう。思わせぶりな事を言ってみようかな、なんて思ってしまった。放課後の教室というものは、そういうものの演出に長けている。

「港が羨ましくて、ね」

 私なりに、かなり勇気を出しての発言だった。ドキドキとしながら及川の様子を窺うが、及川はぼんやりとしたまま反応を示さない。

「……及川?」
「……あ、ごめん。有馬の事考えてた」

 及川がこんな事を言うとは思わず、不意を打たれた。今は彼女であるとは言え、ちょっと前まではくだらない口喧嘩が多かった二人だ。付き合い出してもまるで甘い雰囲気を漂わせていなかったというのに、こんな甘たるい惚気のような事を言うのは、なんだか不思議な気がした。

「で……何?」

 しかし、惚気たわりに及川の声は低かった。何故だかプレッシャーを感じ、私は思わず口元を引き結んだ。先程まで教室内には無かった、妙な緊張感が漂っている事に気付き、気圧される。

「……ううん、なんでもない」

 こんな空気で、思わせぶりな事なんて言えるはずも無かった。私のこの発言を聞いた及川は、コロッと表情を変えて「なにそれ」とクスクスと笑った。自分が言わせないようにしたくせに何をしらばっくれているのか、と思ったが、そこまで考えて合点がいった。及川は、私が今何を言おうとしていたのか気付いている。でなければ、港との事をあんな惚気るように言うようなキャラではない。わざとあんな事を言ったのだ。及川が私の気持ちに気付いて牽制してきたのだと察して、呆然としてしまった。恥ずかしい。私がひっそりと及川の事を想っていた事が、どうやら本人に伝わっていたらしい。伝わっていてこんな対応をされているのだと思うと、目元にじわりと熱が集まった。

「有馬には、今の言わないでね」

 それは、及川が先程惚気た発言の事なのか。それとも、私が及川に懸想をしている事をだろうか。恐らくそのどちらの意味も含んでいる発言に、目元からぽろりと涙が溢れた。こんな酷い仕打ちがあるだろうか。今はひたすらに及川が憎いが、その奥にある優しさに気付いて余計に辛い。あえて自身が憎まれる事で、私の想いを断ち切ろうとしている。そして港に対して余計な不安を抱かせないようにしている。あの港の事だ、私が及川の事を好きだと知れば、普段通りではいられなくなるだろう。下手をしたら、及川に「別れよう」と告げる可能性だってある。そうして及川が第一に考えているのは、当然私の事でなければ自身でもなく、有馬港の事だった。
 想いが実らなくても、せめて爪痕を残したいと思ったのに、及川はそれすらさせてくれなかった。


 高校時代の苦い思い出が蘇り、私はそれを思考から追い出すようにお酒を一気に流し込んだ。思えば、あの一件以来及川とは口を聞かなかったように思う。隣に座る及川の手元の取り皿には、たくさんのおかずが盛られている。先程結婚報告をしたせいで、付近に座っていた人間がそれぞれおかずを及川に分けていったのだ。ちなみに私も、檸檬がたっぷりかかった唐揚げを一つあげた。

「及川、ぶっちゃけた話してもいい?」
「……え? ごめん、港の事考えてた」

 なんて? と穏やかに笑うこの男は、本当に変わらない。


爪すら届かない

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