「有馬さん、旦那が写ってるよ」

 昼休み。同僚が読んでいた雑誌をバサリと広げ、唐揚げ弁当に夢中になっている港に見せてくれた。広げられたページには某チームのバレー選手達が写っており、その中に港の見覚えの有りすぎる男が写っていた。確かに、未来の旦那である。しかし、彼女達の言う「旦那」と、港の思う「旦那」とでは、意味にかなりの違いがある。

「えっ、有馬さんて及川選手のファンなんですか?」

 お弁当をかき込んでいた新人の真木は、同僚の発言を聞き、驚いたように顔を上げた。同僚を含めた職場の人達は、港が及川徹の大ファンだと思っている。確かに言いようによっては間違っていないのだが、彼女達の認識は「ただのファン」である。まさか本当に港の旦那になる男だとは、この場にいる全員が思っていないのだ。何せ相手は最近テレビに映るようになった、容姿端麗、運動神経抜群、好感を与えるキャラクターで人気の及川選手である。一般人が気軽に手を伸ばせる相手ではない。

「私もファンなんです、超かっこいいですよね!」
「……うん」

 微妙な笑みを浮かべ、港はぎこちなく笑う。いつだったかの昼休み、及川が載っていると聞いて購入したスポーツ雑誌を眺めていた港に気づき、同僚が「及川選手のこと好きなの?」と尋ねてきたことが全ての発端だったように思う。その場でピシリと固まった港ではあったが、嘘ではないのでコクリと頷くと、同僚は大層驚いた様子だった。「あの有馬さんも、イケメンに興味あるんだ!」と感心した様子の同僚は、それは見事にこの話を職場中に広めてくれた。おかげでそれ以降、及川の印刷されたチラシや雑誌の切り抜きを貰う事が増えた。そして貰った及川の写真を捨てる事もできず、それらは港の家のクローゼットの奥に、及川コレクションよろしく保管されている。あれが及川に見つかったら、正直死ぬ。……少し話が反れたが、要は港が及川のファンである事が広まり、周りの人間がからかい気味に、及川の事を「有馬の旦那」と呼ぶのだ。このからかわれ方に気恥ずかしさを感じていたが、ついこの前のクリスマスをきっかけにそれは変わった。港の家のベッド付近、棚の上に置かれた小ぶりの引き出しに入った指輪を貰ってから、二人の関係は冗談では無くなった。

「あれ、でも確か有馬さんって彼氏いましたよね? 彼氏さんはそういうのに寛容なんですか?」

 そう尋ねてきた同僚は、男性アイドルが大好きなのだが、過去の彼氏に苦言を呈された事があるらしい。その経験故か、港が及川の熱狂的なファンだと思っているが故か、彼女は心配半分、興味半分で尋ねる。その質問を聞き、港はハッとする。これは良い機会なのではないか。まだ今後どうなるかは及川と相談しきれていないが、港は結婚を機に退職し、及川と共に引っ越しをする予定である。いずれは職場の人達に報告すべき事だ。だからこそ、その前段階としてここで言ってしまった方がいいのではないだろうか。誤解を解くなら、今である。

「実は……その彼氏が、及川選手なんだ」
「……え?」

 昼食を取っている室内が、シンと静まり返った。「内緒にしてね」と付け加えた港だが、やはりこうやって口にするのは恥ずかしい。少し前ならば気恥ずかしさもそんなに無かったのだが、今や及川はテレビや雑誌に取り上げられるような人である。この場にいる人間が及川の事を知っているというのは、なんだか不思議な感じがする。一体どんな反応をされるだろう……とドキドキとしながら顔を上げた港だったが、周りにいた同僚達は揃って笑い出した。

「ちょっ、大丈夫有馬さん?」
「そんなに及川選手の事好きなんだね……!」

 お腹を抱えて笑っている人、口元に手をあて震えている人と、反応はそれぞれである。「本当なんだって!」と説得しようと試みるも、思いの外爆笑されてしまい、港はついに口を閉ざした。勇気を出して口にしたというのに、冗談と受け取られてしまい、港は羞恥で縮こまった。



「……という事があって、全然信じて貰えなかったんですよ」
「ははは、そりゃあしょうがないさ。なんたって及川君、今は有名人だしな」

 ズズとラーメンを啜ってから、ラーメン屋の大将にそう零した港は、ハァとため息をついた。本当の事なのに信じて貰えないのは、自分の何かが足りないからなのだろうか。確かに及川の知名度の事もあるが、原因はそれだけではない気もする。……いやでも、私も友達に『テレビに出てるあの人と付き合ってるの〜』なんて言われても、信じないかもしれない。

「まあ、元気だしな。本当だって俺は知ってるから」

 チラリと大将は店内の壁に視線を動かし、港のラーメンにこっそりチャーシューを追加してくれた。この前のクリスマス、及川と一緒にここに来た時に及川が書いたサインは、あの日から店内に飾られている。そしてその横には、大将と奥さん、及川が三人で撮った写真も飾られている。ちなみに撮影者は港である。
 大将がサービスしてくれたチャーシューを箸で摘み、それをもぐもぐと食べていると、ポケットの中に入れていた携帯が震えた。バイブ音の長さから着信だと判断し、港は携帯を取り出す。タイミングが良いというべきか、画面に表示されている発信者は、話題の人物だった。

「もしもし」
『もしもし、港?』

 港。及川にそう呼ばれるのはどこか恥ずかしく、未だに慣れない。付き合ってから何年も経っているのだから、呼び方一つで何を動揺しているのかと言われるかもしれないが、新鮮なものである事には変わりないのだ。

『今電話大丈夫?』
「うん、大丈夫だよ」
『今日さ、お前に荷物送ったんだ。明日届くと思うから、確認しておいて』
「え? うん……分かった」

 何を送ってくれたのだろう、という港の当然の疑問など分かっている及川は、楽しそうにフフンと鼻を鳴らす。

『何かは、開けてからのお楽しみ』
「えぇ……変なものじゃないよね?」
『さぁ、どうかな』

 及川はたまに、他県に遠征に行った土産だとお菓子や小物を送ってくれる事がある。大体がその土地の名産品ではあるのだが、稀に悪戯で変なものを送ってくる時がある。以前、どこかの部族のお面のようなものを貰ったが、当然ながら使い道もなく港の家のクローゼットのこやしになっている。

「……でも、凄い偶然。今丁度及川の話してたんだよ」
『へぇ、誰と?』
「ラーメン屋の大将」
『またラーメン食べてるの? 好きだねお前も……』
「美味しいんだからいいでしょ」
『まぁ、分からなくもないけど……。で、俺の話って何?』

 表情は見えないが、きっとニヤリと口端でも上げているのだろう。機械の向こうの及川様子を予想しながら、港は今日職場であった事を及川に話した。勇気を出して及川が恋人なのだと口にしたのに、笑い飛ばされてしまったのだと港が言うと、及川は予想通りというか、笑いはじめた。

『ぶっくっく……それは大変だね……』
「……そんな事思ってないでしょ」
『いやだってさ、そんな事ある?』

 「彼氏紹介して信じて貰えないって普通ないでしょ?」と言う及川の言葉は最もである。しかし、これは及川にも原因があるのだ。その容姿を持って生まれた事、プロスポーツ選手である事、そして最近メディアに出ている事が信じて貰えない要因である。だからと言って、これを理由に及川を責めるのは間違っている、という事も分かっている。

『しかも、俺の熱狂的なファンだと思われてるとか面白すぎるでしょ』
「本当にね」

 「今度サインあげようか?」なんて軽口を叩く及川を軽くいなし、港は目の前のラーメンに視線を落とす。残りは少ないが、このままずっと電話をしていたら伸びてしまいそうだ。しかし、及川との電話を中断するのは後ろ髪が引かれる。一旦電話を切ってからまたかけ直そうか……なんて考えていると、及川がおもむろに口を開いた。

『まぁ実際のところ、俺と結婚してくれるくらいにはファンでしょ?』

 思わぬ不意打ちに、港は息を詰めた。結婚、という言葉が二人の間に横たわるようになったのは、例のクリスマスからである。未だに慣れない言葉ではあるものの、及川も港も、一緒になる事に向けて少しずつ準備を進めている。その準備をしている間も実感が湧かずにいるというのに、及川に真正面から事実を突きつけられ、港はほのかに赤くなる。及川の言う事は間違ってはいない。しかし、自分と及川の関係は、ファンどころの話ではない。

「……言ってなよ」
『あはは』

 楽しそうに笑う及川の声に耳を傾けていると、カウンターの向こう側にいる大将がニヤニヤと笑っている事に気付いた。電話の内容から相手が及川だと分かっているのだろう。それに気恥ずかしさを感じ、港は慌てて視線を逸らし、及川にラーメンが伸びそうになっている事を伝えた。麺が伸びそうだからと通話を切るのはどうなのかと後で思ったが、及川はすんなりと「そうだね」と頷いた。俺も明日朝早いし、なんて言っていたので、本当に今日は要件を伝えるために電話を寄越したようである。

『じゃあ、またね。おやすみ』
「……うん」

 及川の言葉に倣い「おやすみ」と口にしようとして、港は一瞬思考を巡らせた。そしてコクリと息を飲んでから、思い切って口を開く。

「おやすみ、徹」

 通話を切る瞬間、電話の向こう側から、フッと笑うような息づかいが聞こえた気がした。通話の切れた電話を耳に当てたまま、港はほぅと息をつく。及川の事を名前で呼んだのは初めてだった。及川が港の事を名前で呼ぶようになってから、ずっと言いたいと思っていた事ではあったが、どうにもタイミングが掴めずにいた。今日になってやっと口にできたと安堵したが、やはり気恥ずかしさに襲われる。もう何年も付き合っているというのに、こんなことで果たして結婚しても大丈夫なのかと、今から不安である。

「いやぁ、ラブラブだなぁ」

 港の様子から察したのか、大将はハッハッハと笑う。第三者にそう指摘されてしまうのが余計に恥ずかしく、港は誤摩化すように目の前のラーメンに箸を入れた。幸い麺は伸びておらず、未だ美味しいままである。そんな港をからかうように「お熱い二人にサービス」と言い、今度は港のラーメンにナルトを一枚追加してくれた。サービスしてくれるのは嬉しいが、この居たたまれなさはなんだろう。
 ラーメンを食べる合間、お冷やをコクリと飲んで体を冷やしていると、ガラリとラーメン屋の入り口が開いた。音に気付いて「いらっしゃい」と声をかける大将につられ、港は何気なく入り口の方に視線を向けた。そしてそこに立っている人物を視界に入れ、驚いて目を見開いた。

「あれ、有馬……?」
「……今野君?」

 通い慣れたラーメン屋で、思わぬ人物と出くわした。小学生時代の同級生、大学卒業後に上京し、なんの偶然か港と同じ職場に就職し再会した彼は、ラフな格好でそこに立っていた。

「何、一人で食べてんの?」

 クスクスと笑いながら、今野は当たり前のように港の隣に腰掛けた。メニューを眺めて「何にしようかな」なんて呟く声を聞きながら、港はスープだけになったラーメンに視線を落とした。職場が同じとあって会う事も多く、そこそこ話をする程度には気の知れた関係である。しかし、港としては最近、苦手としている相手でもあった。
 今野は職場で密かに、港の事が好きなのではないかと噂されている男である。

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