「どうか末永く、よろしくおねがいします」

 あまりにも混乱し過ぎたせいで、港の口からは大袈裟な言葉が漏れた。まるで好意があるように思わせない態度で「俺達付き合わない?」と先程口にした及川は、怪訝な顔で港に視線を向けた。奴は告白してオッケーを貰った人間とは思えないほど、微妙な顔をしていた。

「何言ってるのお前……」
「え? いや、だって……今、付き合わない? って言ったじゃん……」
「そうだけどさ、その返事はどうなの?」

 呆れた様子の及川の言葉は正論であり、港は何も言い返せなかった。港だって、もう少しスマートに受け答えがしたかったのだが、これまでの人生で告白なんてされた事が無いのだ。しかも、生まれて初めて「付き合おう」と言われた相手が及川だったのだから、混乱もする。とりあえず「はい」と頷きたかったのだが、口からはあまりにも畏まった言葉が溢れてしまった。羞恥で固まっている港をよそに、及川は平然としたまま、港が顔色を悪くしている様を眺めていた。挙動不審な港が面白かったのか、及川は暫くしてから吹き出し「初彼氏おめでとう」なんて軽口を言った。

 高校三年生の初秋、文化祭の出店の準備をしていたHRの時間。私達の始まりは、こんな不格好なものだった。



 シャンシャンシャン。
 店内から漏れる軽やかな鈴の音を聞きながら、港は手に持ったスーパーの袋を自転車のカゴの中に入れた。ハァと吐き出した白い息は、安っぽいイルミネーションの光を浴びて闇の中に溶けていく。港が先程後にしたスーパーのガラス戸にはサンタクロースや雪だるまのイラストが貼付けられ、明日という日を迎えようとしていた。
 大学を卒業して数年。都内のスポーツジムで働いている港は、今やっと仕事を終えて帰宅しているところである。明日明後日の休みをなんとしてももぎ取るため、ここのところ働き詰めだったせいで、それなりの疲労感に襲われている。明日から休みだと分かっているが故に、肩の力もいくぶんか抜けるが、それでも手に持っていた買い物袋はいつもより重く感じた。ガチャリ、とペダルに足を乗せてから踏み込み、港はスーパーを抜けて、ささやかなイルミネーションで飾られている夜道を走る。本日がクリスマスイブという事もあり、通りを歩く人の姿は多く、随分と賑わっている様子である。そんな人ごみを避けるように自転車で走り抜け、港は前方で赤色になった信号に合わせてブレーキを踏んだ。鼻を食べ物のいい匂いがかすめ、お腹が少しだけ鳴った。人々が行き交う雑音の中では誰も耳で拾えないだろうが、港は少し恥ずかしくなってキョロキョロと辺りを見回してしまった。
 そこでふと、落ち着いた雰囲気を纏うジュエリーショップがすぐ傍にある事に気付いた。港が信号待ちをしている場所から数歩程の建物。ガラス張りの展示スペースの中で、新作ジュエリーが煌めいていた。赤信号が青に変わるまでの間、少しだけ時間を持て余した港は、自転車に跨がったまま、ぼんやりと展示されている装飾品を眺める。ピンクゴールドの小さなハートがついたネックレス、小さなダイヤがあしらわれたブレスレット、どちらも洗練されたデザインではあるが、それに比例してお値段も中々なのだろう、値札が無くとも分かる。今の港では、とても気軽に購入出来る品物ではなさそうだ。そんなアクセサリーを順番に眺めながら、港は最後に二つ並んだリングに目を止めた。大小二種類のサイズの、なんの変哲もないシンプルなシルバーのリングの内側には、何やら文字が刻まれている。なんと書いてあるのだろう。そんな疑問を抱きながら、微妙にショーウィンドーの方に近寄ろうとして、不意にガラスに映り込んだ自分と目が合った。仕事帰りの少しくたびれた表情、寒さを防ぐために何枚も服を着込み、更にその上にダウンジャケット、マフラー、耳当て。防寒ばっちりと胸を張って言える装備の自分は、ガラスの向こうにある光り物には酷く不釣り合いに思えた。
 港が思わず身を引いたタイミングで、赤の信号は青に変わる。ぞろぞろと歩き始めた人々の足音を聞いて、港はハッと我に返る。こんな事をしている場合ではない。さっさと帰って、明日に備えなければ。港も歩き出した人々に習うように進行方向に顔を向け、ペダルを踏み込んだ。
 明日は、待ちに待ったクリスマス。そして数ヶ月振りに、及川と会う約束をしている日である。


 12月24日からの数日間。及川が奇跡的に休みが取れたと言うので、港はずっと前からこの日のデートを楽しみにしていた。クリスマスにデートだなんて、随分と久しぶりである。分かりやすく浮かれていた港は、例に漏れずにこの日のために様々な準備をした。まずは身だしなみ、そしてデートに着ていく服や小物を揃え、及川に渡すクリスマスプレゼントも購入した。

 そして、迎えた12月25日、クリスマス。
 早めに起きだして身支度を整え、プレゼントを再度確認し、そっとカバンの中にしまった。そうして家を出て駅に向かい、電車に乗り込んだ港は、視界に入った車内広告に目を止めた。スポーツ用品を取り扱う会社のシューズの広告には、そのシューズの宣伝のために、何人ものバレー選手達の写真も共に印刷されている。その何人もの選手の中に、ユニフォームを着た及川の姿もあった。この広告を初めて見た時はかなり驚いたが、今では見慣れた光景である。及川もいつか、たくさんのポスターに写ることになったりするのだろうか。自宅でテレビに写った及川の姿を録画しながら、港がぼんやりと考えていた事はこんなにも早く現実となった。
 大学を卒業後、及川は実業団に入り、バレー漬けの生活を送っていた。去年までは都内に住んでいたのだが、チームを移籍したため、現在は東京の近県で生活をしている。そのため、会う機会は随分と減ってしまったが、電話だけは定期的に続いていた。お互いに近況報告し合うだけの、十数分にも満たない通話ではあるが、耳に響く及川の声は心地いい。しかし、相変らず港の事をからかってくるので、まるで変わりもない。成長しないのだろうかこの男は……と思わなくもないが、軽口を聞きながら及川と過ごした日々を思い出して、懐かしく思うのも正直なところだ。及川と住む場所が離れて正直思った事は、自分は果たして及川との関係を続けられるのか、だった。夢見ていた高校時代、大学時代を抜け出した港は、社会人になって現実問題に直面した。滅多に会う事もない、話すとしても、たまにの電話だけ。お互いの誕生日や記念日には贈り物を贈り合うが、最近では忙しい事もあり、遅れて荷物が届いたりするのも珍しくは無くなった。そして極めつけは、最近及川がメディアに露出するようになったことである。セッターとしての力をつけ、評価を得た及川はプロのバレー選手となった。甘いマスクの下で相手を揺さぶり、コートを支配する及川は女性陣に大いに受け、及川のファンは全国規模にまで広がった。女子バレー選手との熱愛疑惑も浮上し、テレビで少しだけ取り上げられたりもした。最終的に全て疑惑で終わり、港の元にも及川から「違うからね」という電話もかかってきたりした。
 広告に映る及川を眺めながら、港はいつも実感が湧かずにいる。この前まで同じ高校に通っていたはずなのに、たった数年で随分と遠くに行ってしまった。この男と自分は知り合いで、しかも恋人の関係は奇跡的に継続中である。及川と付き合い始めた最初の頃に戻ったような、現実とは思えない状況に、港はふと考える事がある。今の自分と及川とでは、生きる世界が違うのかもしれない。狭いアパートで、煎餅をバリバリと食べながらテレビを見ている自分と、画面の中で必死にボールを追いかける及川とでは、環境がなにもかも。そんなことを考えているうちに、港が乗った電車は目的地で止まった。同時に思考も切り替わり、港は慌てて電車から降りる。待ち合わせ時間よりも十五分程早く来てしまったが、待つ分には悪くない時間だろう。そう思って待ち合わせ場所に向かった港は、すでにその場所に立っている長身の男を見つけて驚いた。遠目からでも、周りの人間より頭一つ分くらい背が高い事が窺える。あんな身長の男がそうそういるとは思えず、港は迷いなくその男の元に向かう。
 近づけば近づく程、見覚えのある髪、見覚えのあるコート、見覚えのあるマフラーが確認できる。やっぱりそうだ、と確信を得た港は、その男に声をかけようとひらりと手を上げかけた。しかし、それより先に、港の前方に白いコートの女が現れた。まるで舞う雪のように軽い足取りで、背の高い男の前に立った彼女が何やら話しかけているようだったが、微妙に距離があるせいで内容までは聞き取れない。しかし、聞き取れずとも、内容は何となく察した。
 この光景には既視感がある。メガネをかけている背の高い男に話しかけている女性は、クリスマスという日にナンパに勤しんでいるようだ。それを見てため息をついた港は、肩にかけているカバンを持ち直してから、二人の傍に寄って行く。途中で、彼女が「スポーツ選手にあなたに似てる人いますよね」なんて話す声が聞こえて、少しだけヒヤリとした。

「ごめん、お待たせ。待った?」

 当たり前のようにそこに立った港を見て、ナンパをしていた女性は驚いたように振り向いた。綺麗な巻き髪が印象的な女性だと思ったが、果たして彼女から見た自分はどう見えているのだろう。一瞬だけ女同士の間でバチリと火花が散ったが、火花の真ん中に立っていた男が港の方に顔を向けた事で、争いは始まる事なく終わる。

「いや、そんなに待ってないよ」

 クスクスと笑うメガネの男の声を、直接耳で拾ったのは本当に久しぶりだ。ごめんね、と声をかけて来た女性に断わりを入れて、その男は港の背に手を添え、ここから離れるように促す。一緒になって歩きだしてすぐ、ナンパの女性が諦めてどこかへ行ったのを確認してから、港はホッと息をついた。

「……変装が甘いんじゃないの、及川選手」
「そう? 案外ばれないよ」

 カラカラと笑いながら、メガネをかけている隣の男……及川徹はコートのポケットに手を突っ込んだ。案外ばれないなんて良いながら、さっき勘付かれていたのはこの男である。説得力がまるでない。

「そんなに目立って活躍してるわけじゃないから、バレー知らない人は気付かないもんだよ」
「へぇ」
「というか、久しぶり。元気そうじゃん」
「及川もね」

 この前会ったのは、数ヶ月前に港が及川の家に遊びに行った時だったように思う。それから時間は経過してしまったものの、流石にそのくらいの期間で及川の雰囲気がガラッと変わってしまう事も無い。相変らずの整った容姿、スタイル、所作……そして今日という日にわざわざ港の手製のマフラーを身につけてくる律儀さ、揶揄。何もかもいつも通りだ。変わらないなこの男も……なんて考えながら、港は心の内で安堵する。どこか遠くに行ってしまったように感じていたが、案外そんな事は無いのかもしれない。そうして及川と軽い近況報告をしながら、二人は駅前のバス乗り場に辿り着いた。

「それで有馬、今日のデートプランは?」
「適当に昼ご飯食べて、適当に時間潰して、それで適当な時間にイルミネーションを見よう」
「うーん、お前らしい大雑把な予定だね」

 全部適当じゃん、なんて言いながら及川は呆れたように笑った。確かにざっくりとしてはいるが、そんなにガチガチに予定を組まなくてもお互いに平気だと分かっているからこそである。それにこの土地では、時間を潰したり、見て回ることができるものがたくさんあるのだ。だからこそ、今日の予定を決めるにしても大雑把なものだった。及川だって、電話口で「そっちに何泊かするから一緒にホテル泊まろうよ」と言ったくらいである。及川も大抵、人の事は言えない。

「及川はどこか行きたい所ない? こっち来るの久しぶりでしょ」
「……そうだなぁ」

 うーん、と思考を巡らせていた及川は、暫くして口元を緩めた。何か妙案が思い浮かんだらしく、ニシリと笑って港を見下ろす様は、まるで悪戯を思いついた子供のようだ。

「思い出巡りの旅をしよう」
「……思い出巡りの旅?」
「そうそう。実は俺、今朝は大学の方に顔出してたんだ。そしたらなんていうか、学生時代が懐かしくなってさ」
「へぇ」
「学生時代に行ったところとか、見て回りたいんだ。久しぶりに」
「成る程」
「だからさ、ラーメン屋行こうよ。ラーメンゆみ屋」

 及川の口から出た言葉に、港は思わず目を見開いた。ラーメンゆみ屋は、大学時代の港のバイト先であり、及川もよく通っていた店だ。そして、今二人がいる駅からはそんなに遠くもなく、及川の提案は正に名案である。

「大将元気かなぁ」
「元気だよ」
「相変らず通ってるんだ?」
「まぁね」

 仕事をするようになってからも、たまにラーメン屋に顔を出している港はもはや常連である。たった一年、されど一年と言うべきか、及川にしてみれば既に懐かしい場所であるらしい。これはきっと、ラーメン屋の大将も驚くだろうなぁ……なんて大将の反応を想像しながら、二人はラーメン屋に向かい、昼時から少しずれたくらいの時間帯に到着した。港が慣れたようにラーメン屋の暖簾を潜ると、当たり前であるがいつも見慣れた光景が広がっている。しかし、港の後に続くように暖簾を潜った及川が一緒にいるせいか、なんだか新鮮な場所のように思えた。

「いらっしゃい……っと、おぉ有馬さん、いらっしゃ……」

 カウンターの向こう側で調理をしていた大将は、港を見てから気前のいい顔でそう口にし、港の隣に立った及川を視界に入れて固まった。音も無く口を開けて数秒後、大将は心底驚いたとばかりに、手に持っていた丼を一旦調理台に置いた。

「及川君か! 久しぶりだなぁ!」

 「いや〜、かっこよくなって! テレビで見たよ!」と大将が大きな声で言うものだから、店内にいた客も「何だ?」と顔を上げる。「テレビで見た」と大将が口にした事もあって、お客さんが「芸能人?」と囁く声が聞こえた。一気に注目を集めてしまい、少しだけぎこちなくなった港とは反対に、及川は慣れた様子で「大袈裟ですよ」と笑ってカウンター席に座った。流石と言うべきか、人の目を集めることには少年時代から慣れているとあって、余裕が窺える。港もそれに倣うように及川の隣に腰掛けたが、カウンター席の二つ向こう側から向けられている視線が気になってしまう。
 「何にする?」という大将の言葉に、二人揃って「チャーシュー麺大盛り」を注文し、ラーメンを作り始めてから食べ終わるまでの間、カウンター越しに大将との会話が続いた。主に及川の近況についての話題が多かったが、途中で及川がいると聞きつけた大将の奥さんがやって来て、及川にサインを貰うという出来事もあった。そしてそれに続くように、店内にいたお客さんが数人、及川にサインを求めてきた。店内には大将と奥さん以外に及川がバレー選手だと知っている人間はいなかったが「サインを貰うくらいなら有名人らしいので良く分からないけど自分も貰っておこう」という人達である。気持ちは分からなくもない。

「サインの練習しとけば良かったなぁ」

 ラーメン屋を出てから、及川は腕を組んで「うーん」と唸る。少し気になったので、今までサインを求められたことがどれくらいあるのか尋ねると、及川は「数えるくらいしかない」と答えた。

「へぇ、意外」
「意外でもないよ。言ったでしょ、テレビにちょっと映ったって、俺の事知らない人がほとんどなんだよ」
「でも私、テレビで及川にエール送ってるファンの人達たくさん見たよ」
「それはまぁ……しょうがないよね」

 俺モテるしさ、と平然と言う及川の発言はどうかと思うが、それが事実なので何も言えない。こんな事にはもう随分と慣れきっているせいもあり、及川がモテる事について港も動揺しなくなってきた。

「で、次はどうする? イルミネーション見られる時間まで、どこかで時間を潰さなきゃいけないわけだけど」
「折角だから、あそこ行こうよ」
「あそこ……?」

 緩く首を傾げた及川を見上げ、港はニヤリと口端を上げる。こいつもうちょっと可愛く笑えないんだろうか……と及川が頭の隅で思っているとはつゆ知らず、港はカバンから財布を取り出した。丁寧に作られた革財布は、大学生時代に及川が誕生日プレゼントとしてくれたものである。それを見て、鈍くない及川は「あぁ」と察した。

「財布買ったお店か、確かに随分と行ってなかったな」
「でしょ。ここ数ヶ月の間に改装したから、雰囲気変わってるよ。大きくなったし」
「へぇ」

 大学から近いからと選んだバイト先であるラーメン屋から、港が大学に向かう通学路の途中にあった工房は、そんなに離れた場所でない。折角だし顔を出そうか、ということで、二人はお互いの財布を買った工房に向かった。工房の店主は二人の事を覚えており、相変らずの穏やかさで二人を出迎えてくれた。そして雑談の後、どこかで見た光景のように「サインを頂けませんか」と控えめに色紙を持って来た。まさか革財布の工房でもサインを求められるとは思わず、驚いていた及川ではあるが、笑顔で色紙を受け取り、ペンを走らせていた。こうしてサインを求められている及川を見ると、これまでの努力が認められているようで、港は素直に嬉しかった。
 その後、おやつでも食べるかとワッフルのお店に寄ったり、見かけたスポーツ用品店に足を運んだり、クリスマス仕様に飾り付けられた公園を見て回ったりした。そしてこれからクリスマスマーケットに行こうか、という段階で、港はふと気付く。
 今日昼に会ってから夕方の今まで、及川と一緒に歩き回っていたのだが、なんだか港の生活スペース周辺を回っているだけの気がする。

「なんだか、私の知ってるところばっかり行ってるね」

 及川は、思い出巡りの旅がしたいと言っていたのに。これでは港が普段良く行く場所の紹介である。先程買った温かいコーンスープを飲みながら、港がぼそりと呟いた時、及川は缶の底をトントンと叩いていた。

「俺の生活スペースでもあったんだから、そうでもないよ」

 さらりと当たり前のように吐き出された言葉に、港は不意を突かれた。思わず及川の方に顔を向けてしまったが、当の本人は缶から出て来ないコーンに悪戦苦闘していた。港の生活スペースではあるが、自分の生活スペースでもあったと、及川は言う。学生時代から、及川が東京にいた去年までの間、二人で一緒にいたからこそ、吐き出された言葉である。その事実を改めて思い出し、港はそろりと視線を逸らしてから、必死に口元を引き締めた。最近はこの辺りを歩くのも、一人が当たり前になってしまっていたからか、感覚が麻痺していたのかもしれない。私は及川の彼女であり、及川は私の彼氏なのだ。学生時代、予定を合わせて頻繁に出かけていた時の事を思い出し、港はまるで隠れていた視界が開けていくかのように錯覚する。しかし、港がひっそりとときめいている間、隣の男はコーンスープの缶に夢中である。

「あ」

 隣から、間抜けな声が聞こえた。ついに全部コーンを食べることができたのだろうか、と思った港ではあるが、どうやらそうではないらしい。「あれ」とぽつりと声を零した及川は、すっとある場所を指さした。その先に視線を向けた港も、あるものに気付いて「え」と言葉を漏らす。丁度二人の視線の先には、ピカピカと光るゲームセンターの建物があり、その入り口付近に設置されたUFOキャッチャーの中には、見覚えのあるぬいぐるみが見えた。二人して無言でゲームセンターの中に入り、再度確認をすれば、やはりそこにあるのは二人に心当たりがありすぎるものだった。

「やるきベアーと、寂しがりラビット」
「違うみたいだよ。超やるきベアーと、超寂しがりラビットって書いてる」
「超がついただけじゃん」

 高校時代、二人でクリスマスにデートをした時に、ゲームセンターで手に入れたキーホルダー型のぬいぐるみの、新商品のようである。商品名に「超」という文字がプラスされているだけあって、この二種類のぬいぐるみはクリスマス仕様の衣装を纏っている。「超」ではなく「クリスマスバージョン」という名前にすればいいのに……と純粋に疑問に思ったが、そこは制作会社の都合も絡むのかもしれない。未だに港も及川も、高校時代にUFOキャッチャーで取ったぬいぐるみを持っている。港に至っては今現在、自宅のクリスマスツリーにオーナメントのように飾っているし、及川もスポーツバックか何かにつけていた。そんな思い出の品の関連商品とあれば、二人が思う事は一つである。及川はポケットから財布を取り出し、港も及川と揃いの財布から百円玉を取り出した。

「取れる?」
「どうかなぁ……」

 相変らずクレーンゲームが得意なわけではないらしい。そしてそれは港も同じで、果たして上手くいくか既に不安である。そうして意気込んでゲームをやってみた結果、案の定と言うべきか、戦利品はやる気ベアーひとつだけとなった。

「一つ取れただけでも良かったじゃん」

 不満そうな顔をする及川にそう言えば、ウサギも欲しかったらしい及川は「そうだけどさ」と納得いかない様子でケースの中を見ていた。

「これ以上やるなら、普通に買った方が安いと思うよ」
「……うん」

 余程未練があるらしい。どうせなら二つ揃えたいと思うのは港も同じだが、及川がここまで名残惜しげにしているのも珍しい。そんなに欲しかったのだろうか……なんて考えながら港は視線の先で、くじのクレーンゲームを見つけた。ケースの中には大量の三角のくじがはいっており、外側には当たり商品一覧が掲載されている。一等賞は、最近流行のゲーム機らしい。

「及川、くじのクレーンゲームやったことある?」
「高校の時に何回かやったくらいだけど……」

 もしかしてやりたいの? と及川が首を傾げたタイミングで、港は財布の中から手持ちで最後の百円玉硬貨を取り出した。実は前からやってみたいと思っていたので、いい機会だと機械にお金を入れる。

「まず大当たりなんて出ないから期待しない方がいいよ」
「え、そうなの?」

 もしかしたらゲーム機が当たるかもしれない、とうっすら期待している港に、及川は現実を突きつける。

「そんなに大当たりが簡単に出てちゃ、お店が困るでしょ」
「……確かに」

 そうと知っているなら早く教えてくれ、と言いたいところだが、港の最後の百円玉は既に機械の中であり、すでにクレーンを動かしてしまっていた。やってしまったのだからどうせなら最後まで、と諦めない姿勢でゲームを続行し、港は数枚のくじをゲットした。一つくらいなんでもいいから当たりが欲しいな……なんてくじを開封していくと、なんと二枚も当たりくじが入っていた。期待はするものである。

「五等だって、何が貰えるんだろ」
「ぬいぐるみ各種って書いてるよ」

 五等のくじを持ち、二人はゲームセンターのカウンターに向かう。店員は二枚のくじの内容を確認し、景品の入ったカゴを持ってきてくれた。なんでも、カゴの中の商品を二つ好きに持って行って良いとのことだった。なんだかこの流れにデジャブを感じながらも、港はカゴの中で一番大きいウサギのぬいぐるみを手に取った。先程クレーンゲームで取った寂しがりラビットに似ている気がする。「お前そんな大きいやつ持って帰るつもりか?」と言いたげな顔で及川がこちらを見ているような気がするが、このウサギの雰囲気が及川に似ているのだ。持ち歩くのは大変かもしれないが、超寂しがりラビットの代わりにこれが欲しい。
 港が大きいぬいぐるみを見つめている間、どうしたものかとカゴの中を漁っていた及川は、あるものを見つけて「あ」と声を零し、カゴの中から小さいマスコットを持ち上げた。ボールチェーンが頭にくっついているそれは、先程二人がクレーンゲームで取り逃した、超寂しがりラビットのぬいぐるみである。先程まで悪戦苦闘していたクレーンゲームで、取る事ができなかった景品をこんなところで見つけるという予想外の展開である。驚いている二人を見て、店員は首を傾げていたが、まさかこんなところでゲットできるとは思わず、二人は顔を見合わせてから吹き出した。



「このぬいぐるみどうしよう、一旦ロッカーに預けようかな」

 ゲームセンターに寄り道をしてしまったが、時間もいい頃合いなので次に向かう事にしたのだが、流石に大きなウサギのぬいぐるみを持って歩くのは恥ずかしい。超寂しがりラビットを手に入れたのだからこれは諦めればいいかと思いはしたが、妙に愛着が湧き、結局この大きなぬいぐるみも持って帰る事にした。だから言ったじゃないか、と言いたげな及川の視線が痛いが、これもどうしても欲しかったのでしょうがない。

「有馬の家に置いてくれば? ここからそんな遠くないでしょ」
「そうだけど……ちょっと遠回りになってもいい?」
「構わないよ、なにせ思い出巡りの旅だからね」

 お前の家も久しぶりに拝んでおく、などと意味不明なことを言う及川の言葉に、港は甘えることにした。

 港の家は、ここから電車に一本乗るだけの場所にある。道中見える町並みや景色を眺めながら、駅から歩く事十分程でアパートに辿り着く。家賃抑えめの小さなアパートの二階に住んでいる港は、一階の階段の傍で及川に待って貰う事にした。

「及川、荷物すぐに置いて来るからここで待ってて」
「あー……うん。分かった、けど、ちょっと待って」
「何?」

 及川は呆れたような表情を浮かべ、すっと港の首元に手を伸ばした。何かされるのだろうか、と身構えた港ではあったが、及川は伸ばした腕で港のマフラーに触れただけだった。

「マフラーぐちゃぐちゃになってるよ」
「え、本当?」
「本当、どうやったらこんなことになるんだよ」

 クスクスと笑いながら、及川はわざわざ港のマフラーを全て解き、背後に回って巻き直してくれた。しっかりと首元を包むようにマフラーを整え、港の正面に回った及川は、出来上がりを見て満足げに「うん」と頷く。

「お前、マフラーの巻き方とか練習した方がいいんじゃないの?」
「う、うるさいな……!」

 ニヤニヤとしている及川から逃れるように、港は二階へ続く階段を駆け上がる。右肩にはバッグ、左腕にはぬいぐるみを抱えているので地味に重い。一旦家に帰ることになるなら、バッグの中の宿泊セットを家に置いておけば良かったと思ったが、とても今更な話である。
 今夜はこの後、クリスマスマーケットへ行き、イルミネーションを見てからホテルへ向かう段取りになっている。そこで及川に渡すためのクリスマスプレゼントもばっちりカバンの中に入っており、港は今から楽しみで口元を緩める。今日のためにと、港が長い時間をかけて選んだ品である。及川はきっと喜んでくれるだろう。そして及川もまた、港の喜ぶようなプレゼントを準備しているのだろう。今日泊まるのは高級なホテルなので、もしかしたらロマンチックに薔薇の花束なんてものを貰えるかもしれない……なんて、夢を見過ぎているだろうか。
 一人で花畑な脳内会議をしながら、港は自宅の家の鍵を開け、玄関に入る。パチンと明かりをつけ、玄関を上がってすぐのフローリングに、ぬいぐるみを座らせた。ゲームセンターで見た時も思ったが、このウサギのぬいぐるみはどこか及川を彷彿とさせる。顔が似ているというわけではないのに、何故そう思うのだろう。もしかして及川自身がウサギというマスコットに似ているのだろうか。ぬいぐるみを覗きこむようにしゃがみ、暫く考えてみたものの、その現象の原因にまではたどり着けなかった。

「留守番お願いね」

 及川の面影あるぬいぐるみになんとなく話しかけ、港はゆるりと立ち上がり、玄関の明かりを消した。しかしその拍子に、先程及川に巻き直して貰ったマフラーの片端が音もなく肩から滑り、同時に何かの影がコロンと転がり落ちた。
 何だろう。港は再度明かりをつけ、玄関に転がっている何かに視線を落とす。
なんてことはない、そこに転がっていたのは、先程ゲームセンターに行った時に取った、くまのマスコットのキーホルダーである。及川が持っていたはずのものが何故こんなところに……と一瞬考えたが、すぐに合点がいった。 所謂、ちょっとした可愛いいたずらである。高校時代のクリスマスデートの時にも、及川は港のマフラーにぬいぐるみを忍び込ませていた。「マフラーぐちゃぐちゃだよ」と言いながらマフラーを直す振りをしてぬいぐるみを仕込むところまで、手口が同じだ。まるであの時と同じ状況に、港は口許を緩めながら、マスコットに手を伸ばした。
 なるほど、これも思い出を巡る旅らしい。そんな事を考えながら、港はマスコットを拾い上げた。やる気に満ち溢れたくまの表情は、相変わらず可愛いのか可愛くないのかよく分からない。頭にくっついているボールチェーンに指をひっかけ、それを眺めていた港は、ふとあるものに気が付いた。マスコットの頭部に通されたボールチェーンに、何か妙な飾りがついている。安っぽいボールチェーンとは違った光り方をする銀色。こんなもの付いていただろうか、と何気なく飾りを触った港は、輪の形をしたそれの外側に、小さく埋め込まれた石を見つけて静止した。
 これは一体なんなのか。その答えに見当がついて、港は息の仕方を忘れてしまった。指の腹で銀色の飾りを転がし、まさかという思いで、何度もそれを確認する。そして、どこから見ても美しい輪の内側に、何か文字が刻まれている事に気付いた。おそらく、この輪の内側には決定的な事が刻まれている。どうしようかと思ったが、今更手の中にあるものへの好奇心と期待は捨てられない。異常に自身の心臓が煩く、こんなにドクドクと高鳴らせたのは久しぶりで、呼吸も上手くできない。
 そして、なんとか息を整えてから、輪の内側が確認できるよう、恐る恐る銀の輪を傾けた。そこには、少し長めの英文が刻まれており、少しだけ眉間に皺を寄せる程度に目を細めなければ、全文を読む事ができなかった。

“My sweet Amazones”

 マイスイートアマゾネス。
 そう刻まれた指環に視線を落とし、港は暫く立ち尽くした後、ゆっくりとしゃがみこんだ。あの男は一体何を考えているのだろう。他にもっと愛の言葉くらいあったんじゃないか。何故わざわざこれにするのか。こんな時くらい甘い言葉をくれてもいいじゃないか。こんな文章を刻んで、指環を作る時にお店の人に何か言われなかったのか。他人が見たら、なんて男だろうと思われてしまうじゃないか。この文章の意味を汲み取れるのは、この地球上で及川徹の他に、一人しかいないというのに。……あぁでも、凄く、私達らしいかもしれない。
 泣きたいのに、どこか可笑しくて口元だけ笑いながら、港はすくりと立ち上がった。手の中のマスコットを丁寧に持ち、部屋に鍵をかけて廊下を歩く。一階で待っている及川に早く会いたい、と気持ちが急いたせいで足はだんだんと早く動き、最終的には小走りになりながら階段を下りた。途中で足を滑らせたがなんとか体勢を持ち直し、それでも尚走った。そしてついに階段を下りきった港は、白い息を吐いてから及川の姿を捕えた。階段を走って降りたせいで足音が大きく響いたからか、及川は驚いたような顔で瞬きを繰り返し、こちらを見ていた。階段を下りきった港と及川との距離は実に三メートル、近所にあるイルミネーションの派手な家を眺めていたのか、及川は最初に港を待っていた場所から離れたところに立っていた。階段を下りきったところで足を止めた港を不思議に思ったのか、少しだけ疑問符を浮かべていた及川ではあったが、港のマフラーに仕込んだマスコットが無い事に気付いて動きを止めた。そして視線だけが港の体を辿り、右手の中に収まっているマスコットを遠目に捕える。

「……早いなぁ、もう気付いたんだ」

 予想外だ、と言いたげに穏やかに笑いながら、及川はコートのポケットに手を入れ、港に向き直った。その姿に既視感を覚え、港の脳裏に高校時代最後のクリスマスでの出来事が過った。及川に自身の想いを伝え、プレゼントの手編みのマフラーを渡すのだと意気込んだあの日。序盤は余裕の無い港の発言が原因で険悪になってしまったが、なんとかお互いに仲直りをして、港は及川に自身の気持ちを伝えた。及川の恋人になりたい、という港の言葉を聞き、及川は今のように穏やかに笑った。
 思い返してみれば、今日のデートの内容は途中から、あの日の事をなぞっていたのではないかと今更気付いた。おやつにワッフルを食べた事も、ゲームセンターに行った事も、港の家に向かう道中にイルミネーションを見た事も、全て。偶然なのか意図的なのか、そのどちらもなのか。それはこの後及川に聞かなければ分からない。思い出を巡る旅だなんて良く言ったものだ。ズッと鼻をすすった港と及川との間の空気が、寒空の下で澄み渡っていく。穏やかな表情をしていた及川は、口元を引き結んでいる港に目を細めてから、楽しそうに口を開いた。

「港、俺と結婚して!」

 離れた場所に立つ港に聞こえるよう、少し大きめの声で吐き出された言葉を耳で受け取り、港は震えた。夢なのだろうか。言葉を発したいのに音に出来ないまま、港は口だけを少しだけ開いた。大学を卒業して就職し、数年が経った。お互いの生活環境は変わり、更に一年前に及川は県外へと引っ越し、物理的な距離ができた。正直不安だった。滅多に会う事もなくなったため、疎遠になってもおかしくない状況なのだと、覚悟はしていた。しかし、そんな港の不安とは反対に、及川との関係はそれほど変わらなかった。会う機会は随分と減ったというのに、変わりなく交際を続けられている自分達を、どこか他人事のように見つめながら安堵していた。
 もしかしたら、なんて思ってしまった。及川も港も、付き合い始めた高校生の頃とは違い、年を経て、結婚してもおかしくない年齢になった。及川と結婚したら、なんて考えなかったと言えば嘘になる。結婚するならきっと及川がバレー選手から引退した後で、どちらかがどちらかの住んでいる方に引っ越して、一緒に生活をして、いつか子供も生まれて、その子供と一緒に家族でどこかに遊びに行くのだ。そうなったら幸せだろうな、なんて……。夢の話だと思っていた。もし叶ったら嬉しいな、なんて仄かに期待をしていた事が、目の前の現実としてここにある。
 私と結婚してくれる人なんているのだろうか、とポツリと思った学生時代の自分。怪力女、ゴリラ、アマゾネスと言われた自分。その自分を掬い上げてくれるのはいつだって、この男だった。
 及川はいつも、港の夢を叶えてくれる。

「……本気?」

 嘘じゃない?
 うっすらと涙声になってしまったが、港はなんとか言葉を発する事ができた。本当に自分を選んで後悔はないのかと、及川に尋ねるのは恐ろしかったが、そう言わずにはいられなかった。

「……冗談だと思ってるなら、お前の目は相当の節穴だし、耳は腐ってるんじゃないの?」

 まるでけなすかのような言葉だった。しかし、その言葉を吐き出した及川の表情と口調は穏やかで、口元は緩く笑みを浮かべている。その指輪と自身の発言を聞いても尚そう言うのかと、及川は言外に言う。流石の港だって分かっている。夢のようで上手く状況を飲み込めない、しかし、これが現実なのだ。はぁー…と長い息を吐き、港は呼吸を整える。そして返事をするより先にその場から歩き出し、離れた場所に立っている及川の元に向かう。何か上手い言葉を思いつかなければ、なんて歩いている間に思考を巡らせたが、たった数メートル距離を詰める間に、そう都合良く妙案は浮かばなかった。
 上手い言葉が思いつかない分態度で示そうと、及川の首に腕を回して飛びつこうと思ったのに、運悪く足下に積もった雪に足を滑らせた。反射神経と運動神経だけは良いので、盛大に転ぶ事無く、地面に手をついて片膝をついたような体勢で耐えてみせたが、格好悪い事には変わりない。中途半端に転んだ港を見て流石に驚いたのか、及川は慌てて港の方に駆け寄る。

「ちょっと、何してるんだよ、大丈夫……」

 様子を窺おうと、及川が港の正面にしゃがんだ事が分かった。地面に片手をついたまま俯いていた港は、まるで足下から辿るように視線を上げ、目の前の及川と目を合わせた。呆れたような心配しているような、なんとも言えない顔でこちらを見ていた及川は、港と視線を交わらせた事で一瞬目を見開き、静止した。それに構わず、港は今度こそ及川の首に腕を回し、寄りかかるように抱きついた。一瞬なのか永遠なのか分からない静寂が、二人を包む。

「これ、及川の分はないの?」
「……指輪のこと?」
「うん」
「あるよ」
「及川の指輪には、なんて書いてあるの」

 私の指輪にこんな文章を刻んでおいて、自分の分は一体どうしたのだろう。まるで問いつめるような港の質問に、及川は少しだけ気恥ずかしそうにしながら、ボソボソと答えた。

「奥さんに決めて貰うから、保留にしてもらってる」
「……」
「何か言えよ」

 恥ずかしいんだけど! なんて抗議してから、今度は文句を言い始めた。

「これでも悩んだんだよ。指輪に文字を入れるなら、付き合い始めた日にするか、今日の記念日にするか……。甘い言葉とかいろいろ候補はあったんだけどさ、なんか俺達っぽくないな……と思って。それで最終的にそれにしたんだ、他人が見たらなんだそれ、って感じだけど……俺には、特別な言葉なんだ。でもさ、お前の指輪に書いてある文章伝えただけで、店の人に何度も確認されたし、理由も聞かれたりして正直精神的に参ったよ。だけど一生の事だしね。恥を忍んで、その指輪作って貰ったんだよ。だからさ……」

 すり、と港の頭に頬を寄せてから、及川は港の背に腕を回した。

「俺の指輪になんて書くか、決めてよ」

 まるで請うような、切なさの混じった声だった。言っている事はほぼ自身の苦労話、八つ当たりであるにも関わらず、態度だけは素直なそれだった。この男も相変らずだな……なんて考えながら、港は及川の指輪に刻む英文を思いつき、口元を緩めた。
 蔑称に近い言葉。途中まで港の指輪に刻まれているものと同じ英文、後半の数文字だけが違う、矛盾を孕んだ愛称。マイスイートを冠する、この男を現すのに相応しい言葉。

「……アマノジャク」

 こんなに愛おしい蔑称があるだろうか。
 クスクスと笑いながら、ついに港の頬に涙が伝った。人は幸せで泣けるのだと、初めて知った。及川は本当に、港にいろんな事を教えてくれる。

「……で、どうなの」
「……え?」
「さっきの返事は?」

 トントン、と港の背を叩いてから、及川は寒空の下で息を吐きだす。抱きついているために港から及川の表情を窺う事はできないが、声色からどんな顔をしているかは想像がついた。緊張感を漂わせながら、きっと口元は少し緩んでいる。

「ねぇ。俺、プロポーズの返事貰ってないんだけど」

 早くトドメの言葉をくれ、と及川は言う。そしてそれに答えようと口を開いた港は、脳内で「プロポーズ」という言葉を反芻し、やっと現実を飲み込んだ。

「どうか末永く、よろしくお願いします」

 今度は、正しい時に口にできただろうか。港がコクリと息を飲むと、及川は嬉しそうに「はは」と笑った。

「こちらこそ」

 お互いの表情が確認できる程度に距離を取った後、及川は港の頬に手を添えてから上向かせ、重ね合わせるように口づけを落とした。それに応えるように港も目を閉じ、何度も角度を変えてキスを繰り返す。こんなところでこんな事をして、誰かが通ったらどうするのかと脳裏で考えはしたが、目の前の熱を手放すのは名残惜しい。ん、と少しだけ声を漏らす程度にキスの応酬を続け、熱を持て余したまま二人は唇を離した。久しぶりにキスをしたせいか、この状況のせいなのか、頭も身体がふわふわとしている。こんな寒空の下なのに、酷く熱い。雪が溶けてしまいそうだ。

「これからの事とか決めないとね。忙しくなるよ、挨拶とかしなきゃいけないし」
「そっか……そうだよね」

 結婚しようと決めるのは簡単だが、それに向けての準備も必要になってくるだろう。先に結婚をした友人から話を聞いた事があるが、いろいろと大変らしい。しかし、及川とのこれから先の未来、この人と歩む生涯について相談するのは素直に楽しみである。感極まり、思わず手に持っていたマスコットをキュッと握ると、それに気付いた及川は港の背に回していた腕を緩めた。

「港、それ貸して」
「え?」
「いいから」

 プロポーズを終えた男とは思えぬ、何やら悪戯を思いついたような笑みを浮かべる及川は、港の握っていたマスコットを受け取り、頭についているボールチェーンを外した。そしてチェーンに通されていた指輪を抜き取り、及川は左手を差し出す。

「お前はきっと、こういうのに憧れてるんじゃないの?」

 さぁ手を出せ、という及川の所作に、港はおずおずと右手を持ち上げようとして慌てて引っ込め、左手をそっと、及川の掌の上に置いた。まるでおとぎ話のようだ。王子様にプロポーズをされたお姫様はこんな気分なのだろうか。お姫様なんて柄ではないのに、アマノジャク王子は、アマゾネスと呼ばれる女に冠を乗せてくれるらしい。あぁ、どうしよう、泣いてしまいそうだ。

「お前の夢を叶えてあげるよ。だからお前も、俺の夢を叶えてよ」

 俺には夢がたくさんあるから大変なんだ。いつだったか、及川がそんな事を言っていたのを思い出した。きっとバレー関連なのだと思っていたのだが、どうやらその「たくさん」に、港との事も含まれているらしい。これから先の未来、生涯を共にする相手の夢を自分も叶える事ができるのだと知り、港はコクリと頷いた。そして及川は、港の差し出した左手を丁寧に取り、薬指に指輪を嵌めてくれた。こんな風に、男の人に指輪を嵌めて貰うのははじめてだ。薬指に嵌った指輪は、星のように美しく輝いている。

「……私、こんなの初めて」
「だろうね」

 最愛のアマノジャクは目を細めて穏やかに笑う。首元に巻かれた手製の赤いマフラーが、音も無く揺れた。

「ずっと一緒にいてよ、俺の愛しのアマゾネス」

マイスイートアマゾネス

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