及川の通う大学を訪れるのは随分と久しぶりである。一度バレーの練習試合の応援で来た事はあるものの、学内の構造がどうなっているのか未だに分からないくらいには広い。目的の建物がどこにあるのか、地図と照らし合わせながら、港は大学祭のパンフレットを広げていた。普段よりも活気づいている学内、歩いている人は学生だけでなくその家族であったり、学外の人間であったりと様々だ。
 天気は快晴。今日は及川の通う大学の、大学祭である。

 港がこうして、他大学の大学祭に訪れたのは初めてである。高校時代の文化祭とは違い、大掛かりな催しが盛りだくさんである。お昼頃からは、全国的に人気のあるバンドのライブもあるらしい。あまりの人気で前売り券は完売、当日券獲得もかなり難しい状況なのだと言う。ちなみに及川は、ちゃっかりライブの前売り券をゲットしていた。
 大学祭は三日間に渡って開催され、サークルや部活などの団体の出店や企画、ステージなど目白押しである。これを全て見て回るのはかなり大変そうだ……なんて考えながら、港は及川の所属する男子バレー部の名前を探す。聞いた話では、大学の教室をひとつ貸し切ってお化け屋敷をするらしい。そうして見つけた男子バレー部の広告には、おどろどどろしいイラストが掲載されており、地獄へようこそ! などという割と明るい感じのコピーまで添えられている。どの教室でお化け屋敷が開催されているか分かったところで、今度は「その教室がどこにあるのか」というのが問題になった。おそらくこちらの方向だろうとは思うものの、土地勘が無いせいで自信がない。こうして正門から大学へ入って早々、港が足止めをくらっていると、不意に誰かが声をかけてきた。

「コンニチハ」

 「お困りですか」と言った感じで声をかけられ、港はてっきり大学祭の運営委員の人かと思い顔を上げた。しかし、そこに立っていたのは、赤いコートに頭に角をつけた、あからさまに不審な男だった。コスプレか何かなのだろうか。しかし、飄々とした様子でヘラリと笑うこの男に、港は見覚えがあった。

「こんにちは。あの、もしかして……黒尾さん?」
「あ、覚えててくれた?」

 「どうもお久しぶりです」なんてわざわざ丁寧に頭を下げる黒尾とは、以前レンタルビデオ屋で会った事がある。アダルトビデオコーナーから出て来たところで遭遇、というあまり話題にしたくない出会い方ではあるが、そのせいで印象強く記憶に残っている。わりと及川も彼の話をする事が多いので、黒尾は恐らく知らないだろうが、港は彼の情報をいくらか知っている。

「うちの部の出し物はあっちの西棟だよ」

 黒尾はニヤリと笑って、少し離れた場所にある棟を指差した。港の目的が何であるか、何に困っているのか分かったようで、港は己の筒抜けさが少し恥ずかしい。

「ありがとうございます」
「いえいえ。……あぁでも、及川は今頃学内を歩き回ってるだろうから、昼前くらいに来た方がいいと思うよ」
「そうなんですか?」
「アイツ宣伝係だからさ」
「……ああ」

 高校の文化祭の時、女性の客寄せで宣伝係をしていた及川ではあるが、大学生になってもその役所は同じらしい。そういえば「大学祭に来るなら昼からおいでよ」と及川も言っていた気がする。そう言っていたのはこの為か……なんて納得しながら、港の心境はやや複雑である。適材適所ではあると思うが、彼女としては微妙なところである。
 そうして、昼前に及川がお化け屋敷の会場に戻ってくるだろう時間まで、港は他の出し物や企画を見て回る事にした。別れ際、黒尾がお勧めの企画を教えてくれたので、その辺りを重点的に歩き回る。ついでに出店で焼きそばを購入し、もそもそと食べながら、屋外に設置されているステージを眺める。何やら軽音部のライブが始まるらしく、ステージ周辺は人だかりができている。ステージだけでも屋外ステージ、屋内ステージもいくつかあり、そこで行なわれる出し物も様々である。パンフレットを眺めても、どこを見て回ろうか悩む程だ。黒尾にピックアップして見所を教えて貰ったのは正解だったかもしれない。そんな事を考えながら、港はペラリとパンフレットを一枚捲る。そして開いたページに書かれたタイムテーブルに目を通し、ある企画の項目で目を止めた。
 『ミス&ミスターキャンパスコンテスト』今日の午後三時くらいから開催される、ミスキャンパス・ミスターキャンパスの発表イベントのようである。そういえば、高校の頃は及川がミスター青城に選ばれていたな……と思いながら、ふとした疑問が浮かぶ。このコンテストに、及川は参加していないのだろうか。大学でのコンテストがどんなものか詳しくは知らないが、及川が参加者に選ばれそうなイベントである。嫌な予感が頭を過り、港は企画の詳細が書かれているページを探す。及川から参加しているとは特に聞いてはいないが、参加していなかったらそれはそれで不思議である。流石の及川も、都会のイケメンには敵わなかったのだろうか……なんて想像を巡らせながら、やっとコンテストの企画ページに辿り着く。そして広告に掲載されているファイナリスト一覧の中に及川の名前を見つけ、港はビシリと固まった。案の定である。
 何故教えてくれなかったのだろう。及川なら自慢げに話してきそうなのに……と首を傾げてから、港はふと二ヶ月くらい前の事を思い出した。そういえば、及川がミスターキャンパスがどうのこうのと話していた気がする。いつもの事だと思って聞き流していたが、その記憶が今になって蘇る。何故忘れていたのだろう、と港は頭が痛くなった。
 及川のコンテスト出場についてすっかりと忘れており、少し動揺はしたものの、港は折角なので投票する事にした。当日投票の用紙を貰い、及川の名前を記入し投票箱の中に入れる。高校の頃は何がなんでも及川に投票してなるものかという意地で、及川の次に人気のある男子生徒に投票していた。まさかこういうイベントで、こんなにすんなりと及川を応援するつもりで投票できるとは思わず、自身の心境の変化にしみじみとする。この一年間で、自分の及川に対する感情は随分と変わった。

「誰に投票した?」
「及川って人! この前テレビ出てたよね」
「私も。かっこいいよね〜」

 港と同じく投票にやって来た来場者の会話を耳に挟み、港は「成る程」と納得する。先日バラエティ番組のちょっとした企画のVTRに出演した影響もあるらしい。これは及川も良いところに食い込めるのではないか。そんな事を考えつつ、港はやはり複雑な心境のまま、ファイナリストの写真を眺める。及川を応援したい気持ちもあるが、及川が目立つ事で女性陣からの人気を集めるのは、正直面白く無い。港は改めて、自身の胸元から足先に視線を動かし、今日の身なりを確認する。気合いを入れてきていないわけではないが、歩き回るだろうと思って身軽さに重きを置いた格好で来てしまった。もし今日、超絶美人な人に及川が言い寄られているところを目撃したとして「私が彼女です!」なんて胸を張って登場できるだろうか。そうして妄想を膨らませ、港がサァと顔を青冷めさせた時だった。

「誰に投票したの?」
「うわっ!?」

 背後から唐突に声をかけられ、港は飛び上がり、慌てて振り向く。港の背後に立っていたのは、先程会ったばかりの黒尾である。何故ここにいるのだろう。港の当然の疑問など分かっているとばかりに、黒尾は取り乱した港の様子を認めて、満足そうに笑う。

「俺も宣伝係交代の時間なんだよね。それでさっき聞いたんだけど、及川お化け屋敷に戻って来てるってさ」
「えっ、そうなんですか?」
「おぉ。良ければ案内するぜ?」

 纏う雰囲気は胡散臭いが、黒尾という人は存外親切な人であるらしい。そういえば以前レンタルビデオ屋で会った時も、さり気なくフォローを入れてくれたような気がする。及川の話題にも良く出て来る事から、及川は彼の事はわりと好きなのだろう。きっと、いい人なのだ。そして港は、お言葉に甘え、会場に戻る黒尾と一緒に、お化け屋敷に向かう事にした。

「それで、さっきのは誰に投票したの?」
「えっ……いや、その……」
「まぁ、及川だよね」

 聞かずとも分かっているなら、聞かないで欲しい。港のじとりとした視線を浴びつつ、黒尾はつかみ所のない様子でケラケラと笑う。

「及川喜ぶんじゃない? 彼女にミスコンで一回も投票された事無い、って嘆いてたし」
「え?」

 何故それを及川が知っているのだろう、そして何故その情報を黒尾に漏らしているのだろう。港は黒尾と共に歩きながら、呆気に取られる。黒尾曰く、なんでもこの前同期のバレー部員が失恋したらしく、その慰めパーティがあったらしい。その席で失恋した友人を励ますべく、自分達の恋愛関係の不幸話をいろいろと暴露していくことになった。その暴露話で及川が言ったのが、今の彼女とは最初仲が悪かった事、そして自分があまり意識されていなかった事だという。

「それ以外に、何か恥ずかしい話とかしてました?」
「いや? まぁ最終的に惚気話になって、失恋した奴には殴られてたけど」

 そっちの話も聞く? と尋ねてくる黒尾に対し、港はブンブンと首を振った。何か話したんだろうという事は分かったが、あまりの羞恥で知りたくない。そうして黒尾からのぬるいからかいを受けながら、港はやっとお化け屋敷の会場に辿り着いた。教室の外側にはおどろおどろしい看板、どこかで借りて来たのか不気味なマネキンが設置されている。飾り付けも凝っており、手描きで一生懸命に描いたであろうドクロのイラストも、窓にペタペタと貼付けてある。この大学祭唯一のお化け屋敷である事も影響してか、人の入りも良いようで、それなりに待機列もできていた。

「黒尾お疲れ〜……って、アレ?」

 宣伝係の帰還を出迎えてくれたのは、これまた見覚えのある髪を逆立てた男である。全身黒ずくめの格好ではあるものの、お化けの仮装には至っていない。恐らく裏方なのであろう銀色の髪が目立つ彼は、黒尾の隣に立つ港をじっと見てから、眉間に皺を寄せて「あ〜」と唸り、腕組みをする。

「何だっけ……どこかで会ったような……?」
「及川の彼女だよ」
「……あぁ! 思い出した!」

 「レンタルビデオ屋で会った子か!」と大声をあげる彼は、確か木兎である。気まずい初対面を果たした場所を普通に口にするものだから、港は口元を引き結び、黒尾は苦笑いを浮かべる。そんな木兎の騒ぎを聞き、待機列に並んでいる数人がこちらを振り向く。

「馬鹿、声でけーよ……つーか、及川は? 戻ってるって聞いたんだけど」
「あぁ、及川なら中だよ」
「は? なんでだよ」

 アイツ客寄せじゃん、と続けた黒尾の言葉に対し、木兎はあっけらかんと言い放つ。

「なんか自分達だけで入るの怖いって言うお客さんがいてさ、その子達と一緒に中歩いてるよ」

 木兎の発言を聞き、港はなんとなく想像がついて「あぁ……」と声を漏らす。そしてタイミングが良いというべきか、悪いというべきか、お化け屋敷内から「キャー!」という黄色い悲鳴と物音が聞こえた。怖がっているというよりは楽しんでいるような叫び声である。それを耳にし、微妙な表情を浮かべる港に気づき、黒尾は少しだけ焦ったようである。対する木兎は「及川モテるからな〜」とフォローどころか無意識に追い打ちをかけてくる始末である。悪気がないのが彼を憎めないところなのだと、及川も以前言っていたような気がする。正直、あまり面白く無い状況ではあるものの、こんな事で怒っていては及川の彼女なんてやっていられない。及川が女子に人気があるという今更な事実に慣れてしまっているが故に、港は軽くため息をついただけに終わる。

「入場料はいくらですか?」
「いや、お金はいらないよ」

 既に諦めているという様子の港を見て、黒尾は「難儀だな」といった様子で、港を待機列の最後尾に案内してくれた。もしかしたら、このタイミングで港をお化け屋敷に連れて来てしまった事に罪悪感を感じているのかもしれない。黒尾には全く非はないというのに、彼も苦労しているのだなと、隣に立っている木兎を眺めながらしみじみと思った。
 そして待つ事五分程、お客さんを連れ立った及川がやっとお化け屋敷内から出て来た。客寄せのためか、例のドラキュラの格好をしている及川は、流石というべきか良く似合っている。「怖かったですー!」「でも及川さんと一緒のお陰で楽しかったです」なんて声をかけられ、満更でもないのかニコニコとしている及川を認めて、港はムスリとしながら視線を逸らす。及川とは通う大学も違う。だからきっと、こうやって港の知らない所で女の人に声をかけられるのは日常茶飯事で、別段変わった事も無いのだ。もう少し余裕を持て、なんて自身に言い聞かせていると、及川がやっと港の存在に気がついた。そうして先程一緒に回った客を見送り、港の並んでいる方にやって来た。

「来てたんだ、早いね」

 普段と違った奇抜な格好をしているくせに、妙に様になるのはこの男の顔が整っているからなのだろうか。しかし、格好良いのには違いないが、頭に刺さっている刃物が妙に間抜けで、港は思わず吹き出してしまった。ついでとばかりに、先程までのモヤモヤとした気持ちも飛んで行く。

「及川、頭のそれどうなってるの?」
「これ? いいでしょ、お店で売ってたんだけど、頭につけるだけでいいんだ」

 言いながら、及川は頭につけているカチューシャを外してみせた。カチューシャを被るだけで頭に刃物が刺さっているように見えるらしいそれを認めて、港は素直に感心する。最近はそういう変わった商品が気軽に手に入るらしい。

「うちのお化け屋敷、結構怖いって評判なんだ」
「そうなの? 楽しみだなぁ」
「驚いて暴れて、小道具とか壊さないでね」
「壊さないよ」

 流石というべきか、及川はからかいの言葉を忘れない。「どうだかな〜」なんて笑う及川をじとりと睨んだ港ではあったが、しかし。及川の言葉が現実のものとなる。十分程並んでから、お化け屋敷に入って早々。暗がりで手を掴まれ驚いた港は、無意識に渾身の力を込めて腕を振りほどき、その勢いで腕をお化け屋敷のセットに強打。そのせいでセットの一部を凹ませてしまい、港は別の意味で顔色を悪くし、悲鳴を上げた。

「本当に申し訳ありませんでした!」
「いいよいいよ、気にしないで」

 お化け屋敷内であるにも関わらず、お化け役の血濡れの生徒に深々と謝罪するという異様な状況である。あまりの恥ずかしさ、申し訳無さに港は穴があったら入ってしまいたくなった。「そんなに目立つような凹みじゃないし気にしないで、楽しんできて」と励まされたものの、港は結局お化け屋敷を充分に楽しめる事なく終わってしまった。

「お前何やらかしたの?」
「……」

 出口で待機していた及川にそう尋ねられ、港は黙り込む。恐らく港の悲鳴と謝罪の言葉が聞こえていたのだろう。及川は少しだけ呆れた様子である。

「ごめん、びっくりしてセットを一部凹ませちゃって……」
「えぇ……」

 そら言わんこっちゃない、といった及川の様子に、港は返す言葉もない。驚いてセットを壊してしまったのは当然ながら申し訳ないのだが、及川の彼女としてそういう失敗をしてしまった事が恥ずかしい。

「そんなに気にするなよ。大丈夫だって言われたんだったら大丈夫だって、俺からも謝っておくから」

 あーもう、と言いながら及川は港の頭をくしゃくしゃと撫でた。そうではないのだと、港は励まされながら悔しく思う。及川の評判まで下げてしまったかもしれない。大学祭に来るのを楽しみにしていたというのに、自身の失敗のせいで少し悲しい。しゅん、と落ち込んでいる港を見下ろし、及川は少しだけ思案する。

「それじゃ、セット凹ませた罰として、ちょっと頼まれ事してくれない?」
「え?」
「中にいる先輩達から、買い物頼まれてるんだ。代わりにお遣いしてきて」

 「お金は後で返すから」そう言って、及川は買い物リストという名のメモを港に差し出した。なんとか償いの任務を与えられ、港は少しだけ元気を取り戻し、ビシリと敬礼する。

「行かせて頂きます」
「よろしい」

 そうと決まれば早速、とばかりに踵を返し、港は出店の集まっている場所に向かおうとした。しかし、及川が思い出したかのように「ちょっと待って」と港の肩を掴み、引き止める。

「なに?」
「それ買って帰ってきたら、一緒に大学祭回ろう」

 穏やかに笑う及川の言葉に、港はゆるりと目を見開く。去年、高校の文化祭では、及川と一緒に見て回るという事をしなかった。後になって及川が一緒に文化祭を回ってくれるつもりだったと知り、勿体ない事をしてしまったと、今でも覚えている。一年前にできなかった事を、今日という日に実行しようと言うらしい。一年前とは違い、意地を張る必要のない関係になった港は、口元を緩めて素直に頷く。

「うん」

 それじゃあ行って来るね! 明らかに足取り軽く買い出しに向かう港を見て、及川とのやり取りを見ていた黒尾はこっそりと吹き出す。

「愛だねぇ」
「……まぁね」

 黒尾と及川がそんな会話をしているとは露知らず、港は出店へと走った。



 メモ帳に書かれた食べ物やジュースを購入し、お化け屋敷にいる男子バレー部の生徒にそれらを届け、港は無事にお遣いを済ませた。港がお化け屋敷に戻る頃には、及川も休憩に入るという事で私服に着替えてしまっていた。

「お昼何食べよっかなぁ」
「あそこの家庭科部のカレーは?」

 港が指差した崎、他の出店と比べて並んでいる人が多い家庭科部のカレー屋は、なにやら人気そうである。人気という事は美味しいのだろうという安易な考えではあるが、及川も特に意見もないらしく、二人してカレー屋に並ぶ。

「実は俺さぁ、三時からステージに上がらなきゃいけないんだよね」
「あぁ、ミスコンでしょ?」
「……覚えてたんだ」

 お前にその話した時適当な反応だったから忘れられてると思った、とポロリと確信をつく及川に、港は内心でギクリとする。実は数時間前まですっかりと忘れていたなど、今更言えない。

「それで、元ミスター青城の及川君的に、手応えはあるの?」
「いや、流石に無理かな。凄い人は何ヶ月も前から宣伝活動してるもん。俺なんて、バレー部の宣伝がてら写真とか投稿してるだけだし」
「でも、そんな事言いながら最終審査まで残ってるじゃん」
「あれは……この前ちょっとテレビに出たから、その影響でギリギリ残っただけだよ」

 あの及川が、こういう話題で謙虚になるのは珍しい。事実を述べているだけなのかもしれないが、普段の及川ならば「流石及川さんだよね!」くらいに苛つく事実を言い放ちそうである。余裕があるというべきか、落ち着いたというべきか、大して気にした様子もない。それに首を傾げた港をよそに、及川は「そういえば」と口を開く。

「ミスコン、俺に投票してくれたんだって?」
「……黒尾君に聞いたの?」
「うん」

 俺お前に投票されたの初めてじゃない? なんて言いながら、及川は少しだけ嬉しそうに笑う。

「高校の時はさぁ、有馬意地でも俺に入れてくれなかったもんね」
「それは……しょうがないでしょ」
「まぁね」

 及川も当時の事を懐かしんでいるのかもしれない。そんなとりとめの無い話をしている間に、自分たちの注文の順番が回ってきたので、カレーを二つ注文する。そうして直ぐに準備されたカレーを受け取り、港はふと出店のテーブルに飾られたパネルに目を止める。キラキラとした雰囲気の男子生徒の写真が印刷されているパネルには「ミスターキャンパスコンテスト出場!応援宜しくおねがいします!」などという文言が添えられている。何故こんなところに宣伝パネルが? と首を捻ったが、その疑問はすぐに解けた。よくよく見てみれば、例の男子生徒がカレー販売の出店で受付をしていた。おそらく家庭科部に所属しているのだろう。宣伝のためなのか、彼の本当の趣味なのかは分からないが、成る程。どちらにしても料理が趣味だという男に対しての好感度は高いだろう。受付けをしている彼のところには女性客が列をつくっているのを確認し、港は及川の言っていた事に納得する。確かに、これは中々の強敵である。果たして、太刀打ちできるのだろうか。

「私が投票したとしても、ただの一票でしかないんだよね……」
「お前が入れてくれたんなら、それでいいよ」

 さらりと落とされた及川の本音に、港はドキリとして静止する。当の本人は大して意識をしていないようで、購入したカレーにスプーンを入れ、口に運んだ。

「あっ、甘口で美味しい……」

 小学生のようなコメントをする及川に、港は一瞬呆気にとられた後、思わず吹き出してしまった。そうして腹ごしらえを済ませた後、二人は学内の様々な場所を歩いて回った。ステージでのカラオケ大会、学部の生徒達による研究発表、写真サークルや書道部の展示、そして及川がちゃっかりチケットを入手していた有名なバンドのライブなど、この数時間でかなりの密度の内容である。演奏を聞いた有名なバンドに対して、特別ファンだというわけではなかった二人ではあるが、会場の臨場感に感化され、ライブが終わった後は興奮冷めやらぬ状態だった。今度ベストアルバムが出るそうで、買おうかと話題に上がる程である。

「あ、俺そろそろ行かなきゃ……」
「あぁ、そっか」

 時刻は午後二時過ぎ。ミスキャンパス・ミスターキャンパスの発表イベントに向け、及川も準備があるらしい。数時間程ではあったが、及川と大学祭を一緒に回る事ができて良かったと、港は既に満足である。折角だから、及川の応援がてらミスコンを見てから帰ることにした。及川はミスコンの後には部活の展示の片付け、更には打ち上げもあるので、今日話すのはこれで最後になるだろう。

「頑張ってね及川、健闘を祈る」
「あぁ、任せなよ」

 ヒラリと片手を上げて港に背を向けようとした及川だったが、ふと足を止め、再び港に向き直る。何だ? と疑問符を浮かべている港を見下ろし、及川は腕を組んでからニコリと笑う。瞬間、港は高校時代からの付き合いの経験で、及川が何か妙な事を思いついたと察した。

「頑張るからさ、激励してよ」
「……え?」

 激励。そんな事を言われても、先程「頑張って」といった言葉が港なりの激励である。これ以上の何かを求めているらしい及川は、相変らずニコニコとしたまま、港がどう行動するか窺っている。状況の意味が上手く理解できない港ではあるが、及川に何か期待されているという事だけは分かった。激励、激励……と暫く悩んだ後、港はゆるりと及川を見上げ、及川の肩に片手をポンと乗せた。

「お前ならできる!」
「監督かよ」

 高校時代の女子バレー部監督の名物激励を、及川も覚えていたらしい。そんな港の激励に満足いかないらしい及川は、港に提案とばかりに口を開く。

「ここは彼女らしく、何かしてくれないの?」
「何か……?」
「そうだなぁ、例えば」

 キスとか。わざと距離を詰めてそう囁く及川に、港は爆発する勢いで赤面する。

「なっ、何言ってるの!?」
「例えばの話だよ」
「こんなところで、できるわけないでしょ!」
「へぇ、ここじゃなきゃいいの?」
「そういう意味じゃ……!」

 混乱している港を眺めて、及川は満足げに笑う。港をからかって楽しんでいるのか、妙に生き生きとしているのが腹立たしい。

「冗談だよ」

 クスクスと笑いながら、及川はポンと港の頭に手を置いた。港は心中穏やかではなかったが、及川がするりと頭を撫でてくれる感触に、毒気を抜かれるくらいには懐柔されている。

「やる気出た。それじゃあ、頑張ってくるね」

 及川のやる気の出し方が、いまいち掴めない。



 ミスキャンパス・ミスターキャンパス選考は、何ヶ月も前から始まっているらしい。大学祭の発表の日に向けて、参加者は宣伝活動などを行なっており、発表の時期に合わせてできるようになるWEB投票と当日の投票により、グランプリが決定するのだという。実は一昨日、昨日とアピールタイムとも言うべき選考もあったらしい。そして大学祭最終日である今日は、結果発表とちょっとしたお遊びイベントがメインのようである。ミスコンの概要を眺めながら、港は屋外ステージの方に視線を向ける。ステージ周辺にはたくさんの人が集まっており、発表の始まりを今か今かと待ち構えている。大学祭の目玉イベント言っても過言ではないミスコン選考というものを目の当たりにし、港は今更怖じ気づいてきた。高校時代の文化祭のミスコンとは訳が違うのだ。何やら報道用のカメラを抱えた人もちらほら見かけて、港はゴクリと息を飲む。及川はこんなものに出るのか。出場する本人ではないのに、港は何故か緊張で胃が痛くなってきた。

「あれ、有馬さんじゃん!」

 港がパンフレット片手に緊張していると、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。港が声のした方に顔を上げると、そこには何やら食べ物をたくさん抱えた木兎が立っていた。お化け屋敷にいた時と同じ黒ずくめの格好のまま、木兎は抱えた食べ物のパックをガサガサと鳴らし、港の傍にやって来た。

「及川の応援?」
「そうです」
「だよな、彼女だもんな〜」

 まぁ俺もそうなんだけど、と言いながら木兎は港の隣に立ったまま、買ってきたであろう焼き鳥のパックを開封した。どうやらここで食べるらしい。

「いやさ、黒尾達と見に来たんだけど、はぐれちまってさぁ」
「そうなんですか?」
「俺が買い物してる間に居なくなってたんだよ、全く困るよな〜」

 それはもしかしなくても、木兎が勝手に買い物に行ってはぐれただけではないのだろうか。港の脳裏に確信に近い事が過ったが、とても口にする事はできず、適当に笑って誤摩化した。

「有馬さん、女子では誰に投票した?」
「ミスキャンパスの方ですか? 確か中間発表一番の人に入れました」
「おっマジで? 一緒じゃん!」

 俺もその子に投票したんだよね〜、と言いながら木兎は先程開封したばかりの焼き鳥を食べきった。次は焼きおにぎりを食べるらしく、再び手元でプラパックと格闘をはじめる。

「黒尾は二番の黒髪の子に投票してんだよ。絶対二番が優勝だって言うんだけど、一番の子の方が可愛いよな?」
「そうですね……。でも、正直皆可愛い子達ばかりだから、誰が優勝しても不思議じゃないとも思います」
「まーなぁ、一理ある」

 もそもそと焼きおにぎりを食べる木兎を横目に、港はミスキャンパスの最終候補に残っている五人の女性陣の写真に視線を落とす。発表イベントに合わせて配られたチラシには、それぞれミスキャンパスとミスターキャンパスの候補の男女の写真と簡単なプロフィールが掲載されている。

「そういえば、及川は四番の子に入れてたな」

 何の悪気もなくポロリと落とされた発言に、港は思わず硬直する。これはミスキャンパス・ミスターキャンパスを決めるイベントである。当然ながら男女それぞれに投票できる権利は誰にでもあるわけで、それは及川にも当てはまる。分かってはいるが、港は四番にエントリーしている女子生徒の写真に目を落とす。跳ねるようなショートカットが印象的で、参加者の中では一番元気そうなイメージを抱く女子生徒である。及川の好みってこういう子なのか。頭の片隅でそんな事を考えながら、港は他の参加者と彼女の違いを見比べる。しかし、ここで木兎は思わぬ爆弾を投下した。

「四番の子、実家が空手の道場らしくて有段者なんだって。強そうなところが有馬さんに似てるから投票したって言ってた」

 えっ、と間抜けな声を漏らした港は、ほんのりと頬を染める。それはどういう意味なのか。私が認識している意味で間違っていないのか。そう確認しようとして口を開きかけた港ではあったが、それより先に木兎が次の話をするのが早かった。

「あと、中間発表で一番票数少なかったからとも言ってた」
「…………」

 成る程、同情票でもあるらしい。なんだか港に対する同情のようにも聞こえて、複雑な心境である。浮上しかけた心が再び通常飛行に戻り、港は無言でステージに視線を向けた。どうやらそろそろ、イベントが始まるようである。
 大きなBGMがステージ周辺で流れた後、ついにミスコンのイベントが始まりを迎えた。口が達者な運営委員の司会の元、最終選考に残った生徒達が登場し、歓声を浴びる。三日間に渡りステージに立っているからなのか、脚光を浴びる事に慣れているのか、参加者にぎこちなさのようなものは見られない。そうして、参加者はそれぞれ今日という日を迎えた事についてコメントしていき、最初にミスターキャンパスの発表の流れとなった。こういうコンテストでは、やはり女性が花形というべきか、ステージの上から女性陣は一時退場する。残った男性陣は、流石に少しだけ緊張しているようである。及川も体の前で手を組み、少しだけ落ち着かない様子である。

「一昨日の中間発表では、及川三位だったんだよ。どうかなぁ」
「へぇ……。ちなみに、どういうアピール? みたいな事してました?」
「そりゃあバレーだよ。俺は見てなかったんだけど、特技披露の時にマジでサーブ打って、会場ドン引きだったらしいぜ」

 「あんなサーブなかなか打てねーのに良く分かんねーよな!」なんて言いながら、木兎は焼きおにぎりも食べきった。溜ったゴミをビニール袋に入れてから、今度はたこ焼きのパックを取り出す。よく食べる人だなぁ……とある意味感心しながら、港はステージにいる及川に視線を戻す。確かに及川の繰り出すサーブは強烈である。特技披露でアピールするにしては持ってこいだとは思うが、あまりの威力に引かれてしまっては元も子もない。だから及川は自信無さげだったのだろうか。港としては、運動の出来る男というのは好印象に写るものだから、そういう反応をされたと聞いて少し意外である。
 そしていよいよ結果発表、周辺の明かりが消え、スポットライトだけがくるくるとステージの上を照らしていく。ミスターの最有力候補は、丁度センターに立っている家庭科部の男のようだ。プロフィールによると、なんでも彼は雑誌のモデルであるらしい。芸能界に興味があるらしい彼は、ミスターキャンパスの本命中の本命である。位置取り的に彼が一番に選ばれるのではないか、という想像がつき、港はハァと息をつく。流石の及川も敵わないかもしれない。それが少し残念なような、安心したような、この複雑さは何なのだろう。

「それではまず、準ミスターキャンパスから発表です!」

 まずは第二位の発表ということで、結果発表でおなじみのドラムロールが会場に響き渡る。ゴクリと息を飲んだ港の隣で、木兎も流石に食べるのを止め、ステージに集中した。

「第47回大学祭、準ミスターキャンパスに選ばれたのは……!」

 ジャン! というBGMと共に、スポットライトが一人の生徒の頭上を照らす。

「スポーツ科学科一年、及川徹君です!」

 ワッという歓声と共に、会場で拍手が湧き上がる。スポットライトを浴びた及川は意外にも驚いたようで、暫く呆気に取られていた。そんな及川の前に司会者がやって来て、及川に今の気持ちを尋ねる。

「いや……なんというか、昨日のアピールでちょっと失敗したかなと思っていたので、驚きました」
「そうですか? 投票理由には、バレーをしてる姿がカッコいいというコメントが多かったそうですよ。三位から逆転して二位になったのも、実は昨日の二次審査の後ですし」
「そうなんですか……?」

 及川の意外そうな声に、会場から「そうだよ〜!」という女性の声が飛ぶ。ははぁ……と状況が飲み込めていない様子ではあったものの、及川はすぐに普段の調子を取り戻り、まるで王子様のようにニコリと笑う。

「とても光栄です、ありがとうございます」

 及川のコメントと共に、再び歓声と拍手が巻き起こる。港もパチパチと手を叩き、木兎は「やったな及川ー!」と声を上げる。木兎の茶化すような発言に、及川はステージの上からこちらの方に視線を向ける。ステージから離れた場所に立っている木兎と、その隣に立っている港に気付いたのかは分からない。しかし及川は照れくさそうに、嬉しそうに笑ってピースサインをしてみせた。そしてお次はメインのミスターキャンパスの発表に移った。案の定というべきか、予想通りと言うべきか、栄えあるミスターキャンパスに選ばれたのは、例の芸能界志望で家庭科部所属の彼だった。会場にモデルの彼のファンが幾人かいるのか、彼を愛称で呼ぶ声がちらほらと聞こえる。流石一番人気というべきか、投票数も断トツの一位であるようだ。

「女子ってああいう男が好きなのか?」
「え?」

 唐突な木兎の質問に、港は間抜けな声で返事をする。

「なんか細くてなよっちいじゃん。及川の方がガタイいいだろ? 背もたけーし」
「まぁ……確かにそうだけど」

 好みというのは人それぞれである。木兎の言うように体格やスタイルを気にする人もいれば、顔やキャラクターを気にする人もいる。ただ今回は、及川の長所の需要が、家庭科部の彼の長所の需要に及ばなかった、ただそれだけだ。

「でも、準優勝でも凄い」

 港の中ではいつだって、及川徹という男が一番なのだ。

 そして次に花形であるミスキャンパスと準ミスキャンパスが発表され、会場が盛り上がりを見せる中、表彰式が始まった。代々グランプリに選ばれた人が預かる事になるトロフィーを持ち、受賞のたすきを肩にかけての記念撮影などがステージ上で行なわれる。その間にちらほらと見物客も去っていき、港もそろそろ帰ろうかとパンフレットをカバンにしまった。

「あれ、帰んの?」
「もう終わりみたいなんで……」
「何言ってんだよ、これからだぜ」
「えっ?」

 これから、というのはどういう事だろう。港が首を傾げると、記念撮影を終えたであろうステージの状況を見計らい、司会者が大きな声を上げた。

「お待たせしました! いよいよここから、会場の皆さんに参加して頂いての余興になります!」

 途端に会場から今日一番の歓声が上がり、待ってました!と言わんばかりに拍手も響く。何がはじまるというのか、きょとんとしている港のような人のために、司会者が簡単な説明をしてくれた。なんでもこれからちょっとしたゲームを行い、そのゲームで一番を取った人は、今年のミスキャンパスとミスターキャンパス、そしてそれぞれの準優勝者達と一緒にツーショット写真が撮れるのだという。毎年恒例らしく、これをきっかけに大学一の美男美女とお近づきになれるということで、人気のある企画であるようだ。

「及川と写真撮って貰えるかもしれないぜ。参加しねーの?」
「…………」

 及川と写真を撮る。港としてはそんなに難しい事ではなく、頼みさえすれば及川もきっと港のお願いを聞いてくれそうな事である。しかし港の心に引っかかったのは、港以外の誰かが及川とツーショットを撮る可能性である。ツーショットくらい別にいいじゃないか、なんて思う自分もいるが、もし阻止できるものなら阻止したいというのも本音である。立派に独占欲を抱えたまま、しかしそれを表に出し慣れていない港は無言のまま、ステージを見つめる。
 最初にゲームが行なわれたのは、ミスキャンパスと準ミスとの撮影権をかけたジャンケン大会である。圧倒的に男性陣の参加者が多く、野太い声を響かせながら行なわれたこのゲームの勝者二人は、ガチガチに緊張しながらツーショット写真を撮って貰っていた。ミスキャンパスに甘く軽い声で「今日はありがとうございます」なんて言われて手を握られた時、ゲームの勝者は素っ頓狂な声を上げ、会場では笑いが起きた。そんな微笑ましい光景を眺めながら、港は次に行なわれるミスター二人との撮影券をかけた勝負に、参加するか否か悩んでいた。しかし、参加したとしてこの人数でのジャンケン大会では、とても勝てそうにはない。

「それでは次に、ミスターキャンパスと準ミスターとの写真撮影をかけたゲームをさせて頂きたい……ところなのですが! なんと今回、サプライズを準備致しました!」

 司会の言葉に、ザワリと会場がざわついた。サプライズとはどういう事なのだろうか。ステージ上のミスター二人も初耳なのか、二人して視線を合わせ首を傾げている。

「今回、二人とツーショット撮影ができる権利をかけたジャンケン大会も行ないますが、もう一つ変わったもゲームも行いたいと思います! そしてこのゲームの勝者には、なんとミスター二人それぞれからのハグをして貰える権利が与えられます!」

 ええ〜! という女性陣の声が響くと同時に、港はビシリと硬直する。ハグとは抱擁のことだろうかと、当たり前の事を確認したくなった港は、隣に立つ木兎を見上げる。しかし、港が間抜けな質問をする前に、木兎の方が先に口を開いた。

「ハグって抱きしめるってことだろ? やばくねぇ?」

 なぁ? と港に確認してくる木兎の質問に、港はぎこちなく頷くしかなかった。初耳であるらしいミスターの二人もステージの上で驚いていたものの、司会の「いいですよね?」という押しの強い言葉に断れず「はい」と頷いていた。確かに、大学で一二を争う男二人に抱きしめて貰える機会が与えられるなんて、サプライズ以外の何ものでもない。どうする? なんてそわそわとしている女性陣の声を耳で拾い、港はヒヤリと焦る。ツーショットくらいならまだいいかと思っていたのに、ハグだなんて聞いていない。港がポカンとしている間に、司会は次にゲームの説明をはじめた。ハグをかけたゲームの参加は希望者のみ、少数で行うので参加だけでも早いもの勝ちであるらしい。そして発表されたゲームの内容は、なんと『腕相撲』である。

「力と力の勝負です。この戦いをくぐり抜けても尚、二人からの抱擁を受けたい猛者は是非!」

 なんという皮肉なゲームだろう。本来であれば、気のある異性には慎ましい女であるとアピールしたいところであるのに対し、このゲームではその真逆の勇ましさを見せつける必要があるらしい。二人からの抱擁を受けるために女のプライドを捨てろと言わんばかりのこの無慈悲なゲームに、果たして参加者はいるのだろうか。

「それでは希望者を募ります。参加者は八人まで、早いもの順です!」

 司会の声かけの後、流石に直ぐには参加希望者は現れず、会場はシンとする。それはそうだ、と港も頷いてしまうくらいには、躊躇いのあるゲーム内容である。参加者がいなかった場合どうなるのだろう、サプライズ自体が無くなるのだろうか……なんて港が淡い希望を抱いたタイミングで、一人の女子生徒が手を上げた。

「私、参加します!」

 最初に名乗りを上げたのは、なんとミスキャンパスのファイナリスト、実家が空手の道場だという女子生徒である。今回のコンテストでは入賞できなかった彼女ではあるが、ゲームの内容が自身の得意分野であるという事での参加表明なのかもしれない。見た感じは細身で小柄の彼女ではあるが、果たして腕相撲などをして大丈夫なのだろうか。港がそんな心配をしているのをよそに、参加者一人目が現れた勢いに乗り、続けて三人程が手を挙げた。直ぐさま彼女達の参加が決定し、司会の指示で計四人がステージに上がった。その四人の中に、明らかに他の女性陣よりも背が高く、ガタイの良い参加者を見つけて、港は彼女に視線を奪われる。会場内の誰かが、彼女に向かって「頑張れゴリエ!」なんて野次を飛ばした。

「ゴリエ……?」
「あぁ、あの右から二人目の女子の事だよ、テニス部の一年エース。本名は入江って言うんだ」

 木兎曰く、ゴリラみたいに強いから、入江という苗字とかけて「ゴリエ」っという愛称で呼ばれているらしい。蔑称ではないのかと尋ねたが、本人はゴリエと呼ばれる事に抵抗が無いらしい。むしろ親しみやすいだろうと言っているくらいで、彼女の友人はほとんどが「ゴリエ」と彼女を呼ぶのだという。心が広いというかなんというか、感心すると同時に、港は彼女に親近感を覚える。高校時代、影で男子に「アマゾネス」と呼ばれていた自分と、ゴリラとかけて「ゴリエ」だなんて呼ばれている彼女。公かどうかは違うものの、まるで境遇が同じである。

「というか、有馬さん参加しねーの?」
「……」
「及川が別の女子抱きしめるの、嫌じゃねぇ?」

 純粋に疑問だと言うように、木兎は港にそう尋ねる。当然ながら、及川が自分以外の女子生徒を抱きしめているのを見るのは嫌である。それをなんとしても阻止したい思いもある。そしてゲームの内容は腕相撲、平均的な女子よりも力の強い港には、うってつけの競技である。しかし、こんな大人数の前に出ていく勇気がなかなか湧かず、踏ん切りがつかない。そうこうしている内に、ちらほらと参加者が現れ、残る参加者の枠は一人となった。ざわつく会場内、誰かが「あんた参加してみれば?」なんて囁く声を耳で拾い、港はぐっと拳に力を入れる。ええい、もうこうなれば自棄である。
 隣に立つ木兎が無言で見守る中、港は勇気を振り絞り、勢い良く手を上げた。及川が他の誰かを抱きしめているところを見るなんてまっぴらご免だ、絶対に阻止してやる。そんな気迫を纏って挙手した港を最後に、腕相撲の参加者は締め切られた。「それではステージにどうぞ!」という司会の指示に従うべく、港はカバンを肩にかけ直した。いざ戦場へ、と言わんばかりの空気を纏う港を見て、木兎は嬉しそうに笑う。

「いってこい、アマゾネス!」

 バンッ! と思いの外港の背中を強く叩いた木兎の言葉は、会場内に響き渡った。何故そのあだ名を木兎が知っているのか、という疑問が過ったが、間違いなく及川が話したのだろう。よりにもよってこんな大勢がいる中でそう呼ばれ、港は自然と注目を集めてしまう。

「アマゾネス……?」
「アマゾネスとゴリラだって、やべぇんじゃねーの?」
「死人出るかもな」
「ははは」

 会場で囁かれる自分の話題を聞きながら、羞恥に耐えつつ港はステージに上がる。木兎に自身の昔のあだ名を話したであろう及川を睨むと、及川は苦い顔で視線を逸らした。やはり吹き込んだのは奴らしい。

「それではメンバーが集まったところで、対戦順を発表します。時間の都合で申し訳ないですが、こちらで勝手に決めさせて頂きました」

 司会の言葉の後、ステージの外にいた運営委員の一人が、トーナメント表の書かれたボードを持って現れた。表にはそれぞれに数字が記されており、参加した順に割り振られるのだろうと、港は何となく察した。そうして時間が押しているという事もあり、ミスター二人からの抱擁をかけた腕相撲大会が始まった。まず初戦は、ミスコンファイナリストであり有段者の女子生徒と、他大学の女子生徒による対戦である。見た目的には他大学の女子生徒の方が有利に見えたが、試合が始まった瞬間、ミスコン参加の女子生徒が速攻で勝負を決めた。空手有段者は伊達ではないというべきか、あの細腕の一体どこからあんな力が出るのか不思議である。歓声が上がる中、試合は次の組へと移る。次の二人はどちらもこの大学の女子生徒であり、その片方は例のゴリエと呼ばれる彼女である。そして案の定、この試合の勝者はゴリエとなった。こちらも圧勝、しかも瞬殺という対戦内容である。これはしょうがない、という会場の空気に、負けた女子生徒は拍手を持って健闘を讃えられた。そして次の組と試合は進み、その次に港の出番がやって来た。相手は制服を着た女子高生である。フンと気合いを入れる女子高生と視線を合わせ、バチリと火花を散らせながらも、港はテーブルに肘をついた。問答無用、遠慮は無しに相手の手の甲をテーブルに押し付け、港は無事一回戦を突破した。
 ステージから少し離れたところで「いいぞー!」という声が聞こえた。声のする方へ顔を向けると、そこには木兎だけでなく、黒尾や男子バレー部の面々が集まっていた。先程港に激励の言葉をかけたおかげか、木兎ははぐれた彼らと無事合流できたようである。そして続く二回戦、ミスコンファイナリストの彼女とゴリエの対戦である。一回戦の戦いぶりからどちらも強いというのを理解した観客は、どちらが勝つのかと興味津々である。そして開始した二人の戦いは、十秒程続いたものの、ゴリエが相手をねじ伏せ勝利を収めた。流石ゴリエというあだ名を我がものにしているだけあって、その強さは圧倒的である。彼女の強さに感心し、会場内で彼女を応援する声が増えていく。続く二回戦二組目、腕っ節の強そうな女性と港の対戦である。試合を始めて一分程、お互いに膠着状態が続いたものの、なんとか港が押し切り勝利した。
 そして迎えた決勝戦。夢の対決というべきか、ゴリエと港の一騎打ちである。ゴリラとアマゾネスの戦いとあって盛り上がる会場、飛び交う野次、その中で視線を合わせた二人は、互いに勝ちを譲る気もない。
 お互いに握手をしてから席に付き、司会の開始の合図で腕に渾身の力を込める。互いに握った腕は微動だにせず、肘を置いているテーブルだけがギシリと音を立てた。
 ゴリエの手に力を入れながら、港はかつてない程の相手の強さに、心の中で冷や汗を流す。強い。今まで腕相撲をしてきた相手の誰よりも、彼女の力は圧倒的である。今まで同性同士での腕相撲対決で負けた事のない港は、思わぬ好敵手の出現に少しだけ心躍らせた。そう思うのは相手も同じだったのか、お互いに緊張状態であるものの、口端がニヤリと上がる。ゴリラとアマゾネス。互いにそう呼ばれるのは伊達ではないらしい。
 二人が微動だにせぬまま数分が過ぎ、観客の中に飽きる人間が現れてきても尚、二人は二人だけの世界に集中したまま、決着がつきそうに無い。そしてそんなマンネリとした空気がまずいと思ったのか、司会の生徒が思わぬ事を口にした。

「及川君。付き合うなら、この二人のどちらがいいですか?」

 恐らくこのマンネリとした空気を払拭するべく話を振ったのだろうが、港は一瞬、自分が及川の彼女であるとバレたのかと思い動揺した。その一瞬の隙を突かれ、ゴリエのパワーに押し切られるように港は腕を押さえつけられ、なんとか粘ったものの手の甲をテーブルに抑え込まれてしまった。ミスター二人の抱擁をかけての腕相撲対決。港は最後の最後でゴリエに敗北し、及川からのハグを阻止する事ができずに終わってしまった。司会があんな事を言わなければ……なんてモヤモヤと考えている間に、ゴリエはミスターキャンパスからの抱擁して貰い、ご満悦である。ゴリエなどと呼ばれている彼女ではあるが、港とは違い自信たっぷりな振る舞いは、少しだけ羨ましい。
 そんな彼女の喜ぶ様を眺めてから、港はそろりと同じステージに立つ及川に視線を向ける。及川もこちらを見ていたのか、港と視線を合わせてから「ごめん」と謝るように、肩を竦めた。そして次は及川からの抱擁である。正直言って見たくは無いが、同じステージに立っている以上そうもいかない。こんなことなら初戦で負けて退場しておけばよかったと思ったところで、現状は変わらない。そして及川がゴリエの正面に立ち、ゆるりと腕を広げようとしたタイミングで、及川が抱きしめるより先にゴリエが胸に飛び込んだ。まさにホールドというべきか、及川の背にがっしりと腕を回し、及川にビッタリと抱きつくその光景に、港はガーンとショックを受ける。

「えっ、え?」

 自分から抱きしめるはずが、逆に抱きつかれている状況に及川も混乱しているらしい。どうしたものかと腕を浮かせていたが、なんとかゴリエの肩に手を乗せ、さり気なく距離をとった。「おおっと、これは熱烈な抱擁だ〜!」などと司会が茶化すので、港にはあまりにも面白くない。

「実は私、及川君に投票したの! ハグできて嬉しい!」

 ハートマークを飛ばさんばかりの彼女の発言に、会場から「良かったねー!」という野次が飛ぶ。彼女にそう言われた及川は、最初呆気に取られていたものの、ニコリと笑って「ありがとう」と口にした。

「ねぇ、良かったら後で連絡先教えてくれない?」
「あー……、えっと……」
「はいはい、そういう話は後にしてくださいねー!」

 ゴリエの私情を遮り、司会はパンパンと手を叩く。この時ばかりは港も司会に感謝したが、この結果を招くきっかけになった事は微妙に許せない。同時にこんなことを考えてしまう自分が不甲斐なくなり、港はしゅんと落ち込む。及川が他の誰かを抱きしめている光景を見てしまったのが思いのほか悲しい。仕方がない事だとは分かっているが、割り切ることができない自分の余裕の無さが、じわりと港の心を締め付ける。港のそんな心境など知ったことかと、今度はミスター二人とのツーショットをかけたジャンケン大会が始まった。しかしそれに参加する気力を無くしてしまった港は、ジャンケン大会の勝者が出るまでぼんやりと観戦してから、そのまま家に帰る事にした。帰りがけ、励ますかのように木兎が分けてくれたたこ焼きのパックをひとつ貰い、港は温かいそれを持って、一人でとぼとぼと帰宅する。冬に差し掛かるこの時期、帰って来た自身の部屋はひやりと冷え込んでいる。
 正直、この後彼女の特権で及川の家に押し掛けたい心境ではあるものの、及川にはこの後打ち上げの予定が入っており、それは叶わない。更に明日は大学祭の片付けもあり、及川の都合が付くのは明日以降である。この複雑な心境の矛先を見つけられず、港は抱えたモヤモヤとした気持ちを払拭するべく、シャワーを浴びる。
 ゴリエと呼ばれるだけあり、決勝戦の相手は本当に強かった。テニス部のエースだと木兎は言っていたが、確かにあの腕力から繰り出されるであろう強打は、凄まじい威力がありそうである。しかし、港だって途中まで良い勝負をしていた訳で、あのまま司会があんな発言をしなければ、もしかしたら港が勝っていたかもしれないのだ。腕相撲なんて早々行う機会はないが、間違いなく港が今まで戦ったことのある同性の中では、一番の強さを持った人だった。それにゴリエだなんて、まるで女子につけるものとは思えないあだ名で呼ばれる彼女に、港は妙な親近感を覚えた。なんとなくではあるが、彼女のこれまでの人生は、港と似たようなものかもしれない。出会う場所がここで無かったら、友達になれたかもしれない。どうせなら、最後に握手した時に、連絡先を聞いておけば良かった……などと考えた辺りで、港は自身の思考が妙な方向にズレている事に気がついた。素直に落ち込む事すら出来ないというのはどういう事だろう。自分で自分の頭が痛い。
 ハァ……とため息をつきつつ、シャワーを終えた港は座布団の上に座り、テーブルの上にへたり込んだ。私が油断しなければなぁ……などと未だに反省していると、不意に家のインターホンが鳴り響いた。こんな時間に何だろう……と思いつつ、港は机の上にへたったまま動かない。お風呂に入ったばかりで髪も微妙に乾いていないし、玄関に出て行くのが億劫である。このまま居留守でも使おうか……とぼうっとしていると、今度は携帯が震えはじめた。そして発信者の名前を確認した港は、慌てて電話に応答する。

『居留守使うなよ』
「……ごめんなさい」

 電話の相手は及川徹。そしてどうやら、港の家の前にいるらしい。居留守を使おうかと悩んでいる事すらバレており、港は「エスパーか?」などと微妙な表情を浮かべながら、ゆっくりと腰を上げた。寝間着というかなりラフな格好ではあるが、及川に見られるのはもはや今更である。夜とあり冷え込む室内、玄関付近の廊下は特に冷たく、スリッパ越しに冷たさがじわりと伝わってくる。そんな寒さの中を抜け、港はドアを解錠し、ギッと押し開けた。ドアの向こう側に立っている及川はジャケットを羽織っており、吐く息は白く、少しだけ寒そうだった。

「どうしたの及川、打ち上げは……?」
「明日に延期になった。今日参加できない人達が出てきてさ」
「そっか……」
「うん」
「…………」
「…………」

 数秒、お互いの間で気まずい無言が続く。そしてこの空気に先に耐えられなくなったのは、及川だった。

「あーもう、ごめんって」

 玄関に一歩踏み込み、中途半端にドアを開け放したまま、及川は玄関に立つ港を引き寄せた。トンと及川の肩口に顔を埋めるように引かれた後、港の腰と後頭部に及川の腕が回される。やはりというべきか、及川はわざわざ港を励ましにここまで来てくれたらしい。明日も大学祭の片付けがあるというのに、律儀な男だと思いながらも、港は及川にスルリとすり寄る。及川の体は冷たく身震いしてしまいそうなのに、触れ合う感触は酷く心地いい。
 腕相撲大会なんて必要がない。彼女という自分の立場は、無条件に及川の抱擁を受けられるのだと今更思い知り、港はじわりと広がる優越感に目を閉じる。

「仕方ないよ、勝てなかった私も悪いし」
「……いや、でも正直、お前には勝って欲しくなかった」

 流石に寒いのか、玄関に入り込んでからドアを閉めた及川は、港の耳元でボソリと呟く。

「有馬が勝ったら、今度はお前があの男にハグされるじゃん」 

 ムスリとした及川の呟きに、恋人としての嫉妬が見え隠れして嬉しい反面、複雑なのも事実である。

「何それ、私も及川があの子抱きしめるの嫌だったんだけど」
「俺も嫌だよ、でもお前が抱きしめられるのも嫌」

 結局、あの腕相撲大会にはお互いに逃げ道なんて無かったのだ。そもそもサプライズ企画なんて無ければこんな事になってはいない。誰があの企画を思いついたのかは分からないが、文句を言ってやりたい気分である。しかし、及川に抱きしめて貰える今の状況に文句はなく、そのまま体温を分かち合ってしまいたいと思うくらいには、居心地が良い。ドキドキと心臓が少しだけ煩い。未だに慣れず、緊張も抜けきらないが、それでも心は満たされていく。

「いっぱい抱きしめてあげるから、許してよ」
「……いっぱい?」
「そ、お前の気が済むまで、いっぱい」
「……」

 酷く甘美な囁きだった。ぎゅ、と腰に回る及川の腕の力が強くなり、先程よりもお互いの体が密着する。一体どれくらいこうしてくれるのだろう。永遠にこのままが良いと言ったら、及川はどんな反応をするだろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、港は及川の首筋に頭を寄せ、及川のジャケットを握った。

「でも、流石にここ寒いから、部屋の中に入れてくれると助かるんだけど」
「……ごめん」

 それもそうか。乙女モードに突入していたせいで周りが見えていなかったと、やや羞恥に襲われながら反省する。すっかりゴリエの存在など忘れきってしまった港は、そうしておずおずと及川から距離を取る。奥の部屋は暖房を入れているため、ここに比べれば充分に温かいだろう。靴をゴソゴソと脱いでいる及川をぼんやりと眺めてから、港は慌ててスリッパを準備する。来客用にと最近購入したもので、誰も履いていないせいか生地が少し固いが、何も無いよりはマシだろう。準備されたスリッパを見て「ありがとう」と礼を述べ、及川は新品のスリッパに足を突っ込む。そしてまさに唐突と言うべきか、及川は間髪入れずに再び港を引き寄せ、これでもかというくらいに顔と顔の距離を詰めた。視線が交わっているというよりは、かち合っていると言った方が適切な程の至近距離。突然の事に心臓をバクバクと高鳴らせはじめた港とは反対に、及川の纏う空気は凪いでいる。

「ねぇ」
「な……に、」
「したくない?」

 お互いの吐息が唇にかかる程に近い。あと少し身じろぎをしただけで、互いの柔らかなものが触れ合ってしまう程に。もう実質口づけているのでは無いのかと、二人の吐息は交わり、たった一センチ程の隙間の間で溶けていく。ここまでするならいっそ距離を詰めてくれればいいのに、なんて息を詰めながら、港はぼんやりと大学祭での及川とのやり取りを思い出した。ミスコンに向かう及川との別れ際「激励にキスとかしてくれないの?」なんてからかい気味に言った及川の言葉が脳裏を過る。

「……したい」

 これでは、ただのご褒美だ。港の呟きを合図に音も無く重なった唇は、寒さの中でも温かい。角度を変え、熱い息を吐きながら何度も唇を重ね、控えめな水音を響かせながらもキスの応酬は続く。そしてキスの合間、玄関先でこんなことをしていては落ち着かないと、及川は港の体を支えながら、じわじわと奥の部屋へと移動する。及川に誘導されるまま、後方に足を動かす港ではあるが、キスに意識の全てを根こそぎ持っていかれ、今自分が自宅のどの辺りを歩いているのかも分からない。途中で何度か壁に押し付けられ、口内に入り込んだ及川の舌に自身のそれを絡めとられ、体はじわりと火照っていく。ちゅ、ちゅというリップ音を廊下に残し、狂おしい程の愛しさに酔いしれる。港の抱える不安やモヤモヤとした気持ちなんて最初から無かったのではないかと思わせる程の熱烈さに、気がおかしくなってしまいそうだ。

「あつい……」
「……今日は冷え込むらしいから、丁度いいかもね」

 至近距離でクツリと笑う及川は色っぽく、指の背で港の頬を撫でるように、顔に掛かった髪を払った。及川の顔越しに、自身がいつも起床する時に視界に入る掛け時計が見える。という事は、ゴールはすぐそこらしい。

「今日、泊まって行っていい?」

 背中に柔らかい感触を感じながら見上げた先、及川は雑にジャケットを脱ぎ去った。
 ここまでしておいて今更そんな事を言うのかと、港は半ば呆れつつも、ゆっくりと上半身を起こした。何故こんな事になったのかは分からない。ただ、二人が触れ合ううちに、歯止めが利かなくなっているのは確かだ。

「及川」
「ん?」
「準ミスターに選ばれて、良かったね」

 及川の首に腕を回し、港が控えめにキスをすると、及川は少しだけキョトンとした後、可笑しそうに口元を緩めた。

「……それ、ミスコンの前にやって欲しかったな」

 「遅いよ馬鹿」なんて言いながら、及川は港と共に、ベッドに沈み込んだ。

毒されてゆけ

back